「回復教」から回復(!?)して
T.O.氏
氏は一時期"東京に在る教会"に深く関わっていた方ですが、"主の回復"から離れるとガンになるなどの
"教え"を聞いて疑問をもち、自ら離脱された方です。今回勇気をもって証を寄稿して下さいました。
はじめに
まず、この宗教の記述を「回復教」とさせていただきます。キリスト教というには疑問が残るし、実際に今動いているのは「長老」などだから「ウイットネス・リー」とか「ウオッチマン・ニー」という故人である個人の宣教師の名前を言うのもどうかと思うし。「地方教会」というのも自分が地方在住であるから語弊を感じるし…。で、この宗教は「主の回復」を主張しているので「回復教」という記述にしたいと思います。あまり深い意味はないです。
この原稿を依頼されて1年近くが過ぎました。申し訳なく思いつつ、全くの連絡なしに申し訳なく思っています。時が満ちるまで書けずにいました。ネットで「回復教」を語ったときに私を「回復教」に導いてくれた張本人から書き込みとメールをいただきました。インターネットの開放性と情報伝達の速さに驚き、狼狽することもありました。そんなことでこれ以上「回復教」を語りたくない、関係を持ちたくないと考えるようになりました。
しかし、最近、ネット上で自分の所属する教派でいろいろあり、また、ネット上やこの世での他教派との関わりでトラブルまがいのことを見て、回復教のことを思い起こして、祈る時間が与えられました。
そこでは「死んでいる教会」の露呈や他宗派を非難することでキリストの体である我々がボロボロになっていることに気づき、そこでこの原稿を作成することを祈りました。この文が「回復教」を通じて教会から離れた兄弟姉妹への再びの導きとして神に用いられることと主にあって兄弟姉妹が一致できることを祈ります。
また、この文は「回復教」および「東京にある教会」の他「ニー兄弟」「リー兄弟」に関わるすべての方に対しての挑戦や中傷ではありません。事実から最後には私にとって証となり学びとなったことを示すためであることをご理解して下さい。
1. アルバイト
学生時代でした。とにかく「教えたい」の意欲で学習塾の講師をしていました。何気に自分が小中学校時代に通っていた塾に顔を出しました。私は一流大学に在学していない学生だったので挨拶程度に遊びに行きました。そこで以前の恩師に再会したのです。恩師に現状を話すと「うちで高校2、3年の古典を教えてみないか?」ということになりました。私は夢のようでした。引き受けることにしたのです。
私の高校時代は主日厳守。高校の退屈な授業中は聖書を読み、英語の時間は聖書や教会のワードを持参している辞書から探すことをしていました。聖書を一字一句守るように生活や祈りを心がけました。こんな生活は恩師にも誰かしらから入っていたようで私が「クリスチャン」であったことを知っていたようです。それもアルバイトに影響したと思います。
はじめは週2コマでした。初めての高校生担当で予習はハードでした。そんな中で代講や講習でいろいろな学年の担当ができました。恩師も「自分はクリスチャンである」と宣言していました。中学生に教団とカソリックの教会に通う生徒さんがいました。彼らの個別授業の担当になってやる気がない時や学校でいじめに遭ったときなどは「みことば」で励ましました。恩師も黙認してくれたのです。そのときにまったく神様を知らなかった生徒さんも影響を受けて教会に通いだすような状況もありました。いつの間にか「聖書を読もう」なんていいつつ、恩師や恩師の奥さんも交えて「聖書味読」みたいなことを教会に通っている生徒さんと一緒にしました。
そんな中、大学で唯一のクリスチャン系サークル「プロテスタント聖書研究会」に所属することにしました。
2.K○Kの疎外
「プロテスタント聖書研究会」には2年次から入りました。私以外には4年生、留年生、同級生、1年生の4名がいました。日キ教団、同盟、福音自由とみんな違った教会に通っていました。私が唯一聖公会です。聖公会はここではあまり歓迎される宗派ではなかったようです。新入生歓迎会を大学近くの同盟の教会で行いました。そのときに自己紹介を含んでの「あかし」をしました。たまたま会のメンバーではない同じ大学の学生でホーリネスの牧師の息子さんという方がいました。彼は私のあかしを「君、人に影響されっぱなしじゃないか!」と罵倒してのけました。周囲のメンバーは気遣ってくれましたが・・・。
数日後、K○Kの新入生歓迎会に行きました。そこで私の大学が池袋ブロックにありました。ブロックの中には「立教大学生」がたくさんいました。このブロックでは大学への反発なのか反立教という風潮が強かったようです。反立教は反聖公会ということになることは予測できました。
学内の聖書研究会は勧誘もせず、会もなかなか集まらず、会をしても雑談程度で何もしないで終わる状態でした。留年生は「この状態でいい」といいます。彼はKGKの活動中心に動いていたため学内に関してはほとんど活動していませんでした。私は聖書研究会であるなら御言葉の学びをし、許されれば学内で何らかの宣教活動をすべきだと考えていました。留年生など既成のメンバーはそれを歓迎しなかったのでしょう。(福音派らしくない!)あるとき私は「会をするために」資料を持ち聖書研究会をしようとしました。留年生がやってきました。留年生は「むっ」としていました。そして私に轍を下しました。黒板に私が書いた「プロテスタント聖書研究会」という文字を指して。「ここはこの通り『プロテスタント』だ。君は『プロテスタント』ではない君は出て行ってくれ!」と怒鳴られました。私は「サタンよ退け!」といって部屋を出ました。こんな状態は納得のいかない私でした。神は1つ。クリスチャンはみな兄弟と思っていました。宗派は主の与えたもうた選択肢だと考えていたため大きな躓きとなりました。
3.聖書勉強
初夏のある日、アルバイト先の恩師から「リー兄弟」の著作をいただきました。その本にあった「サルディスにある教会への手紙」の解説が私にとってはK○Kでの出来事への答のように見えました。今の既成教会は生きているようで死んでいる。そうだ、私たちは「主にある」クリスチャンなのだ。と。
それ以来、「リー兄弟」「ニー兄弟」の考えに心酔しました。特に宗派を否定することは私のKGKに対して「事件」の神からの答のようにも思いました。K○Kへの怒りが宗派への怒りでもありました。そして聖公会の教会からは離れました。そこで地元の「地方教会」に通いました。『日ごとの食物』(聖書日課と進言がついた書)で日々聖書を読み、進言を読み、今まででもっとも聖書を読んだ時期です。恩師と毎朝電話で『日ごとの食物』を読むようになり、集会で進言もしました。内容は「宗派バッシング」でした。これに会衆が「アーメン」とか「ハレルヤ」というのが自分に賛同してもらっているようでした。それが神にも認められているようにも思いました。また、聖書が学びを通じてどんどんわかるようになり福音派と討論しても負けないようにも思いました。
しかし、「宗派の人と接すると穢れる」と言われて接するのはやめました。それどころか「聖公会」にいたことで「○○兄弟(長老)と交わりなさい。あなたは『聖公会』にいたので交わることでその汚れを落としなさい。○○兄弟は霊的な力が強い」と言われました。聖公会の兄弟であるパウロ兄から電話が来ました。私は「聖公会はよくない」と毒づきました。「聖職位は人間が創り出したものだ」とまでいいました。実際には回復教にも「長老」みたいな存在があるのを見えていませんでした。伝道集会にも参加しました。看板もないところに警備のような案内人がいました。入るとき「ハレルヤ」といって入場しました。そこではいろいろな人が証をしています。賛美も流行歌のメロディーの歌で歌詞が違うものなどがあり、賛美歌集などの賛美歌とは違いました。その中でも「ある教派にいてそこで云々」という女性がいました。
4.サタンの手先「聖公会」→疑問?→脱出
翌日、昼間に恩師から電話が来ました。その電話は「会わせたい人がいる」というものでした。教室に入りました。そこには昨日の証の女性、恩師、恩師の奥さんがいました。その女性は「元聖公会」だといいます。いろいろなことを聞かれました。「聖公会は堕落している。」「サタンと偶像崇拝の集団だ」とか「聖職者が秘密を隠す」など悪口をいいました。その上で「あなたが本当に救われるには『回復の教会』に行くことだ。」といいました。私は教会には通っていましたが「改宗」に対しての答えはだしませんでした。恩師から「改宗」を勧められることもなかったこともありました。私自信も「改宗」することは洗礼は唯一という観点から考えてはいませんでした。私は「親が聖公会だから改宗には応じられない」と言うと、彼女は「それならば親を捨てなさい」とまでいいました。私はこの女性への疑問とともに「回復教」に対して疑問を持ちはじめました。
そんな中でも集会には通っていました。そこには大学に入学したばかりの女子学生がいました。進言で「私は大学に入ってから神を愛するのを忘れて勉強ばかりしていました。」と自分を責める内容でした。私は疑問を持ちました。また、この「神を愛する」ことがどういうことかも理解できませんでした。このことから疑問が膨らみました。これを機にいろいろな疑問をもちました。長老の絶大な権力を感じました。聖職階級を持たないはずなのに長老が力を持つこと、アダムとイブ以来の「善悪判断」に対して否定しているのに他宗派批判をしていることなど疑問だらけです。
そして決定打をおきました。長老の1人が「偶像崇拝」のことを話していました。「朝、整髪することをしていて『かっこうよく見せよう』と思って『偶像崇拝』になりかねないのから『主の名』叫んだ」と、身だしなみや整容が「偶像崇拝」になるとは・・・。私は信仰を見習うどころか疑問はますます広がり恐ろしくなりました。そんな時(ちょうど2学期の終わりごろ)に聖公会の兄弟パウロ兄がアルバイト先にやってきました。終了時間ごろを見計らって来たのです。そこで「私物をまとめろ!今から宣教にいくぞ!」といいます。私は「勢い」と「逃げ出したい」という一心で私物を袋にまとめました。幸い恩師は授業中でした。そのままパウロ兄の車に乗り込みました。池袋方面にたむろする中学生に伝道に行きました。そこの中学生も数名教会に導くことができました。あとでわかったのですが、私はあそこまでパウロ兄に毒づきましたが、パウロ兄は私が「カルト化」していくことを危惧して主に祈っていたそうです。そして今回の行動をとったそうです。
「はやり自分は聖公会で宣教に用いられるべきだ」という確信を持ちました。逆に神から離れるどころか今までに増して宣教や聖書、証をしました。
アルバイトですが塾の進度もきりよく学期の最終授業後で、講習会の担当も決まっていませんでした。講習会のことを恩師に電話で聞いても「未決定」だったので辞める機会だと感じ、そのまま連絡はしませんでした。恩師からの連絡もありませんでした。
5.「シャ○ーム進学舎」
アルバイトの収入源がなくなるかという心配はよそに塾とは関係ないところで集まった家庭教師の生徒さんが増加しました。そこで年末に家庭教師の生徒さんを集めて勉強イベント「越年特訓」を実施しました。これは東海道線の夜行列車に青春18切符を用いて生徒さんと一緒に勉強する特訓です。これで「シャ○ーム進学舎」を立ち上げました。この「シャ○ーム」は「『受験戦争』を平和のうちのみんなで助け合って兄弟のように乗り越え様」という意味でした。大学卒業までシャ○ーム進学舎は大盛況でした。生徒もクリスチャンと創価学会員が多かったです。この創価学会員の家族の方にはいろいろな宣教のヒントとなることを教わりました。これもまた、賜物でした。
6.「回復教」との出会いに感謝します。
「回復教」を離れましたが、私が「回復教」にいたときに学んだことは神の恵みと思っています。それを列挙するなら聖書を味読すること、みんなのまえで凛々と主を語ること、主の名を叫ぶこと、クリスチャンはすべて「主にある1」であることなどがあります。また、「回復教」に接してから他宗派の批判や分裂を進めることもしなくなりました。既成教会内で他宗派に対しての批判する人には「主に在って1つ」で対応できるようになりました。また、「異端」に対して可否は別にして寛大になったようにも思えます。独善的な?!他宗派から「改宗」を勧められても「私は『聖公会』です。あなたと同じキリストにつながられています。いわば『ぶどうの木』なんです。」といったように感情的になれずに対応するようになりました。まさにハレルヤ!なのです。
おわりに
私が「回復教」と関わったのは1994年春から冬でした。今はどうなっているのでしょう?現在でも実家近くの「東京に在る教会」の前を通ると昔を思い出します。その度に「あの頃」を思い出します。「東京に在る教会」で学んだことは決してサタンの世界にはまったことではなく「洗脳体験」でもありません。私とイエス様がより強い絆で結ばれ、それを確認することでもありました。私は「回復教」を批判するつもりはありません。「回復教」を非難することで「回復教」と同じことをする恐れもあるからです。
他宗派を非難することはしませんが強引に改宗をすすめることは感心できません。とにかく私たちは「主に在って1つ」なのです。