"アナハイムに在る教会"の立場
(教会の立場に関する16点)
1988年8月28日
公開書簡に対するアナハイムに在る教会の長老ジョン・インガルスとゴッドフリード・オトゥテヨによる回答
(原文注:このテープ録音の筆記は発言者による校閲はされていない)
ジョン・インガルス:
ある若い兄弟がこの集会の前にあることを語ったが,私はそれをとても良いと思った.すなわち“真理と混乱は両立しない”.さて,聖徒達よ,私たちはあなたがたにとって神秘的でありたくないし,“兄弟達の立場はどうで,彼らの感覚はどうか”というような困惑している状態にあなたがたをおき続けたくない.あなたがたすべてと交わる負担がある.真理に従って私たちすべての立場がいかなるものであるかについてあなたがたに分け与えたい.
私たちの立場は,私たちの状態よりもきわめて重要である.もし私たちが多くのことにおいて明確な適切な立場を真理にしたがってとれば,そのことが私たちの状態に好影響を与える.家庭をもっている人は適切な立場がいかに大事か分かると思う:夫はある立場を持っている;彼の妻は違う立場を持っている.もちろんあなたの職業においてはあなたの立場を明確にすべきだ.そうでないと首にされてしまう.そして,最も重要なこととして,教会において兄弟姉妹として−−教会として−−私たちは私たちの立場が何であるか明確にすべきなのである.
今晩,私たちすべてがはっきりすることを望む.また私たちが誰かに反対しているのでも,また誰かをおとしめるのでもないことをあなたがたが理解することを私たちは希望する.むしろ,私たちはすべての聖徒のことを心にとても思っており,また教会のことをとても思っている.私たちは心に主のことをとても思っていると私は信じる.聖徒達,私たちはあなたがたのためにある.そして,私たちは主のため,彼の回復のため,彼の真理のためにあることを信じる.
あなたがたの幾人かは,これについてはどうか,あれについてはどうか,私たちの立場はどうあるべきか,と疑問を呈してきている.そこで,私たちは私たちの立場に関する16ポイントを交わりたいと思う.初めの8ポイントは霊的な側面について,後の8ポイントについては実行上の面についてである.
第1に,まず第1に,神の言葉と私たちの関係に関する立場は何か? この点はまず最初にくるべきものである.なぜなら,これはきわめて重要であり,これから私たちが交わる全ては神の言葉に堅く基礎を置いているからである.それは真理である.私たちは神の言葉だけが私たちの唯一の権威であることに同意することを私は信じる.これは私たちの憲法である.多くの法律家や国会議員が常に憲法になんとしばしば言及していることかを新聞で読むことができる:“憲法では何と言っているか...?” 聖徒たちよ,私たちすべては常に私たちの憲法である神の言葉を参照すべきである! 私たちは神の書かれた言葉を私たちの唯一の権威に再度任じるべきであると私は感じる.おお,私たちは神の言葉によって統治されたい.私たちの良心は神の言葉によって束縛されているのであって,伝統,迷信,あるいは他の何かによってではないのであり,単純に主の純粋な言葉によるのである.そしてこれが私たちの実際であることを望む.この言葉が私たちの堅固な基礎である.
また私たちは使徒行伝17:11 のベレヤ人のように,すべてのことを御言葉の光のもとへもたらし,神の言葉によってテストすることを学ぶことを私は希望する.そこには,“ここのユダヤ人はテサロニケにいる者達よりも高貴な人たちで,非常に熱心に御言葉を聞き,はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた”とある.しかも,主は彼らにそうするように命じたのである.ベレヤ人はパウロが語ったことを聖句の中から探しだしていた.パウロは彼らに“ちょっと待ちなさい.あなたは私が使徒であるのを知らないのですか? 私の語ったことをどうして調べるのですか?”と言えたのであるが,そうではなかった.彼らが彼を聖句によってチェックしたのであり,そして彼らはこのように聖句を追求していることを主によってほめられたのである.聖徒たち,私たちは皆,すべてのことを勤勉に証明することに自分をささげ,これをすべきである.神はその言葉の中でこれをするように言っている(Iテサロニケ 5:21).ともかく,神の言葉は私たちの間で最高のものであり,それは私たちの堅固な唯一の基礎である.
いまこの最初の点に基づき第2点に進むが,それは私たちの教会に関する立場である.おお,永遠から教会は神の心の願いである.彼は御自分の心をこれに置いている.教会は彼にとってきわめて貴重なものである.特に今日私たちが生きるこの時代にあっては,教会は中心であり最高である.この時代では教会以外のどんな組織的団体も新約聖書で体と認識されていない.すべては教会のためである.使徒たちも,務めも,そして私たちすべては教会のためである! すべての創造物は教会のためである.この時代では神は御自身の教会のためにすべてのことを働かせている.
さらに各地方にて教会として適切な立場をとることは教会を実際的にする.実際的に言って私たちにとっては教会は地方的である.神の言葉から見ることができるただ一つの適切な立場は,私たちの住む地方における一つの体の基礎に立つ
ことであり,貴重なキリストの体の一つの基礎にたつことである.このことは私たちがそれを決して放棄できないように,そして決して放棄することのないために,私たちの存在の中へと構成されていると私は考える.私は他の如何なる立場もとることができない.
私たちはいかなるセクト,組織,あるいは分派になることにも同意しない.私たちはただクリスチャン−−生まれながらの私たちの存在−−でありたい.そしてキリストの一つ体の基礎の上に立ち,すべてのクリスチャンを愛しまたキリストの中でのみすべてのクリスチャンと一つに結合されていたい.
私たちはただ一つの貴重な頭を持っている.おお,これが祝福のあるところであり,そのようにすばらしい事柄のあるところである! 私たちはこの神が御自身の言葉の中で命じていることをけっして放棄してはならない.
第3の点は真正な一である.このことに関する私たちの立場はどうであるべきか? まず,真正な一ということの簡単な定義が要る.もちろん,この点は教会とともに正当に進んでいる.これはもっとも貴重なことである.なぜなら主イエスはこのことのために祈ったからだ,... 私たちみなが一でありますように,私たちが一の中へと完成されますように(ヨハネ17:21-23)と.そして,このきわめて貴重な実際は私たちすべてが楽しみ,参加できる特権である.エペソ書4章では,この貴重な一を2通りに呼んでいる.すなわち,御霊の一,そして信仰の一である.聖徒達よ,この一は何か有機的なものであり,組織化されていない.それはけっして組織化されたり,教えられたりするものでない.またそれは強制されるものでもない.この一はただ維持されるべきものである.というのはそれは御霊の一であるからだ.私たちはそれを霊の中で,すべての聖徒達と共に持っており,そして私たちはただそれを忠実に維持すれば良いのである.この一は何と貴重であろう.主はこの上に祝福を命じた(詩編 133編).それは霊的で,有機的な一であり,それはまったく命と真理の領域の中に存在する.
私たちはこの命と真理の領域外の者と一であるべきではない.さもないと私たちはバベルを建ててしまいがちである.(バベルは命と真理の外側における肉的な一であった).真の一は命のものである.実際にはそれはキリストそのものである.私たちが楽しみ経験したキリストである.私たちが,この実際的なその時に応じたキリストの個人的享受をもつとき,私たちは実際の一を楽しんでいるのである.さらにこの一は私たちの証でもある.主イエスは,私たちが一であるように,この世がそれを知るためであります,と祈った.これは力に満ちている!
もちろんこの一に関する私たちの立場は,私たちの霊はけっしていかなる種類の分裂にも同意しないということでもある.私たちは如何なる分裂にも巻き込まれたくない.私たちは御霊の一を平和の結合の中で維持したい.また,すべての聖徒と共通の信仰の一を維持したい.私たちの救いの信仰は全ての信者に共通である.私たちはこの一にのみ立ちたいと切望する.すべての分裂は罪,利己主義,あるいは野心から生じる.またあるいはそれは無知によるかも知れない.私たちは何事によっても分裂されるべきでないことを見るために啓発される必要がある.霊的な指導者はけっして我々を分裂させるべきでない.何であろうと私たちを分裂させるべきでない.むしろ私たちは御霊と信仰の真正な一をすべての聖徒達と保つべきである.
私たちの第4点は,他のクリスチャンとの関係に関する私たちの立場は何か?あなたは私たちの他に数多くのクリスチャンがいることを理解しているだろうか? 世界の他の場所については言わないことにして,ここアナハイムにおいてだけで何千という他のクリスチャンがいる.彼らすべて−−そこにはかつて私たちと集会を共にして,今は私たちと共にいないものも含む−−との関係に関する私たちの立場はどのようなものであろう? 彼らは皆クリスチャンである.(彼らは救われている!)簡単に言って,彼らとの私たちとの関係はただ彼らすべてを愛することである.聖徒たち,私たちは彼らすべてを愛すべきであり,彼らすべてを受け入れるべきであり,そして彼らすべてを私たちは本当に必要としていると感じる.
最近,私は次のことを考えている.つまり他人を愛するとは何を意味するのか?私はこのことは私たちが他人を必要とするということであると思う.私たちはすべての他のクリスチャンを必要とする.そして私たちは彼らを必要とするだけでなく,彼らを求める.そして,彼らに開き,彼らに注意を払う.私たちは彼らを愛する.聖徒たち,私は主によって他のクリスチャンに対する態度を罪ありとされた.そして私はこのことを悔い改めている.私たちの態度は最上ではなかったと私は感じる,つまり過去において他のクリスチャンをあざけり,軽ろんじてきた.今は私たちがこのことを止めるまさにその時である! 私たちはすべての他のクリスチャンを愛する適切な態度をとるべきである.なぜなら,彼らはすべては同じ体のメンバーであるからだ.私たちはお互いにメンバーであり,よってすべての他のメンバーを,かつて私たちと集会していた人たちも含めて,愛さねばならない.かつて集会を共に持った人たちは今も私たちの周りにいる.しかし,私たちは彼らをほとんど無視してきた.彼らを忘れようと思ってきた.これは間違った態度である.最近,かつて10年前に離れた兄弟から電話があった.私はとてもうれしかった.彼は交わりを求めてきた.そこでアル兄弟と私は彼を訪ねた.そして私たちはよい交わりを持ち,すばらしい祈りをした.彼は主を愛していた.そしてまったく主を求めていた.私は過去の私の態度を彼に詫びるべきであると感じた.そして彼は許してくれた.それはすばらしかった.
おお,私たちは彼らがどこにいようとすべての聖徒を愛する適切な愛とともに,正しい態度をもたなくてはならない.このことは真理を妥協してしまうことを意味しない.そうではなく,私たちはすべてのクリスチャンを愛する.また,私たちはけっして私たちがより良いと考えてはならない.たぶん私たちはある人たちよりは悪いかも知れない.過去において私たちは,私自身を含めて,私たちは何か霊的なエリートであるというエリート的態度を持っていたのではないかと私は恐れる.これは間違っている.もし私たちの態度がそのようであれば私たちはラオデキヤであり,堕落した立場にあることになる.他のことでは,私たちの間で他の聖徒達をネガティブに呼ぶことはどうか? これはまずい! 誰が唯一のネガティブなものか?それは悪魔である.もし誰かをナガティブに呼びたければ悪魔に言えばよい.そう言うあなたがネガティブである.私たちがある聖徒達をネガティブと呼んでいたとき,彼らは純粋な心を持っていたのである.このことを信じ,彼らを愛そうではないか.おお,聖徒たち,すべての体のメンバーを愛そうではないか.
第5点は私たちの召命に関する立場についてである.私たちの働きとは何か,職業とは何か,私たちの召しとは何か?この質問は次のようにされてきた.つまり私たちはここで何をしているのか? 聖徒たち,私たちの召命はただキリストの体を建てあげることである.これが私たちの働きであり,職業であり,奉仕である.今晩私たちは詩歌の中でこのこと以外の何者も主を満足させないと歌った.これが今日彼がなしておられることであり,それは彼の体を建てあげることである.そして,これこそ使徒たちが私たちに行うように熱心に勧めていることである.私たちはこの建造に分がある.
第1コリント書では私たちすべては建てあげつつある,と言っている.すべては一つの置かれた基礎の上に建てあげられている.そして,この章では私たちがどのように建てるか注意するように警告している.私たちは適切な材料を使わなくてはならない.またエペソ書ではキリストの体の建造への務めの働きについて言っており,また愛の中でそれ自身を建てる体について言っている.だから聖徒たち,私たちの召命はキリストの体を建てることである.私たちが何であろうと,何をしようと,それは体を建てることであるべきであり,建造のためであるべきだ.私たちは他の何ものも建ててはならない.
私たちの立場がどうであるべきかを論じる場合,私たちの立場がどうであるべきでないかをも明確にする必要がある.すなわちどのような働きあるいは務めを建てるべきでないかということである.実際,すべての務めは体のためである.今晩私たちはすべての務めは教会のためであり,教会が務めのためであるのではないと歌った.だから,私たちの召命は体を建てることである.そして,命と一の中でお互いに建てあげるために,キリストの体を建てるために私たちがなすべき多くのことがここにあるのである!
私たちの第6点は次のようなことである.私たちの目標,あるいは目的は何か?それは主の証のためであり,彼のまったき表現のためである.主は今日この地上でご自身の表現を必要とされている.だからこれが私たちの目的でもある.おお,最終的に生み出されるべきものは,私たちが証をもち,そして私たちが彼の証となることである.私たちは一つの仕事あるいは活動のためにここにいるのではない.(これは出て行って福音を述べ伝えるべきではないということを意味するのではないから誤解しないで欲しい) 私たちはただ彼の証のためにここにいるのである.
最近,私はネヘミア記を非常によく読んでいる.この書はエルサレムの悲しい場面を見せている.つまり城壁が壊され,門が焼き尽くされた.ネヘミアはこの状態を見せているが,彼は彼の霊がかき立てられたのみでなく,主の民であるエルサレムが不名誉な状況にあるために,それを痛みまた負担を持ったのである.聖徒たち,私達はいま不名誉な状態にあり,何の証も持っていないと正直に感じている.城壁は壊され,門は焼き尽くされている! 城壁は分離を言っているのみでなく,また証のためでもある.私たちの間で主がご自身の証を建てるために,エルサレムの城壁を修復して欲しいと望んでいる.おお,体は私たちが証となるために建てあげられる必要がある.愛する主よ,私たちを回復してください! あなたの証を回復してください.聖徒たち,これが私たちの立場であり,それは私たちが主の証となりたいということである.
第7の点は,ミニストリーと私たちの関係はどうかということである.この点についてはたくさんの混乱があると私は信じる.多くの聖徒達がこの言葉を使ってきたのを聞いていると思う.しかし私は彼らはこれを誤用していると言いたい.
そしてそれを適切に使わずに乱用していると言いたい.“私たちは務めのためにある”あるいは“彼らは務めのためでない”というような言い方は私たちの大半が聞いてきたことである.
まず,真理に従った務めの定義を与えたい.簡単に言って,神の言葉によれば,唯一の務めは教会を産出するために,神を彼の人々に分与することである.これが真理の単純な陳述である.いま,私はあなたがたに問いたい.あなたはその務めのためにありますか? これが務めである.しかしながら,私たちがこの用語を使ってきた多くの場合,私たちはある個人の務めを意味していたのではないかと私は考える.それは違う.私たちは先の唯一の務めのためのしもべであるべきである.それは排他的な一人の個人の務めではない.このことを私たちは理解しなくてはならない.使徒行伝 1:17 ではユダがその務めを失ったことを言っている.それは“彼はその務めの分を持っていた”と言っている.そして,12人すべてはこの務めの中で自分の分を持っていたのである.
あなた達は次のように言うかも知れない,“この務めにおいて特別に賜のある幾人かの人がいるのではないか?” その通りである.使徒たち,預言者たち,伝道者たち,牧者たち,そして教える者たちがいる.しかし,彼らは皆複数形である.これは協力的なことがらである.この務めには一人ではなく,多くの者がいる.そして,私たちすべては神のこの唯一の務めにおいて分担,あるいは分を持っている.その務めとはキリストの体を建てあげるために神がご自身の人々に分与されることなのである.ハレルヤ! 私たちが務めについて語るとき,誰か個人の務めについて語るのではないということが明確にされ,新しい語り方ができるように希望する.もし誰か個人の務めについて語るときはそういって欲しい.もしそれがカーン兄弟の務めであれば,“ケン・カーンの務め”と.ともかく,その務めの意味については,私たち皆が新たにされた理解を持つようにお願いする.そして私たち皆はそれに分を持っているのである.
私はいま第8点にきた.それは使徒達に対する私たちの関係はどのような立場をとるか? 神の言葉によれば,使徒達はつねに複数形である.最近私はこの言葉をコンコーダンスで調べてみた.それは特定の個人,例えば“イエス・キリストの使徒パウロ”とか,“イエス・キリストの使徒ペテロ”などと使われるときにのみ単数形である.他のすべての場合は複数形である.例えば,“彼は使徒達を与えた”(エペソ書4章).12人の使徒達がいたが,他にも多くの使徒達がいたのである.使徒達の交わり(apostles' fellowship)であって,使徒の交わり(apostle's fellowship)ではない.それは,"s'"であって" 's" ではない.彼らはしっかりとした複数形の使徒達の交わりを続けたのであり,複数形の使徒達の教えの中にいたのである.私たちすべてはこの点において調整が必要であると私は考える.使徒達は複数形である.しかし,私は今日の教会の中の多くの聖徒達が,“何人の使徒達がいるのか”と質問することを恐れる.彼らは言うだろう.“一人,ただ一人”と.否,兄弟姉妹よ,今日多くの使徒達がいるのである.あなたがたのあるものは“それは誰だ”と思うかも知れない.もちろん私は彼らの多くを挙げることができる.ともかく,神の言葉によれば使徒達は複数形である.
さらに,賜を与えられたメンバーと共に,多くの使徒達はキリストの体を建てるためであって,彼ら自身の仕事あるいは務めを建てるためではないのである.彼らは体のためである.そこで,私たちのこれらの使徒達への態度はどうであるべきか? 命と真理からのものであれば,またキリストの体を建てるために私たちを助け,益するものであれば,私たちはそれらを使徒達から喜んで受けるべきである.
また,新約聖書は多くの使徒達がとてもすばらしい交わりと協力関係を持っていた多くの例を私たちに与えてくれる.第1コリント書はパウロとアポロがお互いに尊敬しあい協力するとてもよい関係にあったことを見せている.パウロはアポロに,彼を植えた人と呼び,アポロを水を注ぐ人と呼ぶように命じている(第1コリント3章).16章ではパウロはアポロにコリントを訪ねるように勧め,奨励している.また,テトス 3:13 ではパウロは,ゼナスとアポロがあなたを訪ねるときは彼らの面倒を見て,送りだしてやりなさい,と言っている.使徒達はお互いの愛と顧み合いを維持し,ともによい協力関係にあったのである.聖徒達,私たちはお互いを本当に必要としている.そして,使徒達もお互いに必要としている.人は誰も完全かつすべてを網羅しているわけではない.
使徒達について私たちは他の点も見なくてはならない.それはパウロが第1コリント4:6 で“さて,兄弟達,以上私は私自身とアポロに当てはめて,あなたがたに言ってきました.それはあなたがたが私たちの中で,書かれていることを越えないことを学ぶため”と強調していることである.言い換えれば,書かれていることをこえて,誇ったり,考えたりしてはならないということである.では,何が書かれているのか? 4章は1−3章を振り返って参照している.3章ではパウロは“私が植えてアポロが水を注ぎました.しかし,成長させてくださるのは神です.それで大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもありません.成長させてくださる神なのです”と言っている.それを越えてはならないのである!
そして,4:1 では,“こういうわけで,私たちをキリストのしもべ,また神の奥義の管理者だと考えなさい”と続けている.
コリントにおいて何が起こっていたか覚えているだろうか? 彼らはこの人を誉め,あの人を誉めていたのである.あるものは自分はパウロにつき,他の者はケパにつき,また他の者はアポロにつくと言っていた.彼らは書かれているところを越えてある人たちを誉めたたえたのである.聖徒達,私たちは書かれているところを越えてどの使徒,あるいは主のしもべを誉めたたえてはならない.もし私たちがそれをすれば,コリントの状況におちいり,その結果も同じことになる.それは分裂である! 私たちがこのようなことのないように希望する.繰り返して言うが,私たちはだれかに対して反対しているのではない.私たちはすべての人を愛し,敬愛し,尊敬すべきであり,特に主がご自身の体に与えられた使徒達と執事達にはそうすべきである.しかし,私たちは書かれたところをけっして越えてはならない.
おお,これらの8点に基づいて,わたしたちすべてが適切な立場をとることができるように.このことが私たちを多くの困難から救い,適切な正しい道を進むことができると思う.
ゴッドフリード・オトゥテヨ:
ジョンが分け与えてくれた各点は,私がこれから分け与えたい実際的な事柄を理解するためにきわめて重要である.教会が前進するためには体の真の一の重要性を理解しなくてはならない.あなたがたも知っているだろうが,私が今晩述べたい項目はすでにある者たちによってすでに一の基盤として用いられている.例えば,もしある人があることをともに実行しないときに,彼は“ミニストリーと一”でないとして罪定めされのである.しかし,これらのことは,私はこれから述べていきたいが,教会の一の基盤ではないのである.これが,なぜ私たちがそれらについて明確であるべきことが重大であるかの理由である.
第1は教会の行政である.私たちは詩歌 824番の一節で,地方的行政,それぞれが主に答える....,と歌った.私たちはこれを何度も歌い,それを知っているが,しかし,その実際を実行していない! そして,これが私たちのあいだにおける多くの問題の原因である.霊的監督と地方教会における実際的行政はその地方の長老たちの責任である.彼らは自分の地方において牧すこと,教えること,そして教会を実際的に顧みることに責任を負わなくてはならない.しかしながら,すべての信者は長老達と共にその地方において主の働きをするべきである.長老達は兄弟姉妹達にとってかわるものではない.否,彼らと聖徒達はそこで主の働きをすべきである.それは主の直接の頭首権のもとで長老達によって監督されているのである.
地方教会は何等の本部を持たず,ただ主ご自身の頭首権のみを有する.初期の頃私たちはそれを何度も聞いた.私たちは本部を持たず,また指令部も持たないと.そして,地方教会は如何なるコントロールのもとにも支配されるべきでない.聖徒達,アナハイムにある教会は如何なる指令部にも,本部にも,あるいは中心的権力にも支配されるべきではないのである.ただそれが第三の天から来たものでない限りは! (しかしながらこのことは教会を設立した使徒達との交わりを持たないと言うことではない).私たちは他人と相互の交わりを持つ.しかし,いかなる交わりにおける行政においても,その交わりを実行に移すときには,もし長老がそれを実行することを決断したのであれば,それは彼らの責任である.第1コリント書でパウロはコリントの教会にその罪深い兄弟を取り除きなさいと語ったけれども,彼はそれをしなかったことを思い起こして欲しい.そこの教会がそれをしたのである.パウロは神の原則にしたがって正しいことを彼らに教えたが,しかし,それの実行は教会とともなるそこの長老の責任なのである.
なぜ私がこの点についてそのように多く語るのであろうか? なぜならば,過去数年間においてアナハイムではこのことを私たちは実行してこなかったからである.私は次のように言いたい.なぜなら,私もここでリードをとる兄弟の一人であり,主は私のことを覆って下さるからであるが,あまりの程度まで私たち兄弟達は主に対して,またここの教会に対して責任を放棄し過ぎてきたと言いたい.
私たちは多くの外側の事柄の影響と圧力のもとに留まりすぎた.多くの主の働きの活動が私たちの教会を指示する源になった.ここで私たちは数週間にわたり,私たちの軌道を変える期間をもった.初めに私たちは集会所を閉じ,皆を家に返したが,また皆を呼び戻した!しかしながら,私はこのことをしたことで誰をも批判するつもりはない.むしろ,批判は私たちにされるべきである.なぜなら,私たちは何が正しく,教会のために何が最上かを見るべき責任があったのである.そして,私たちはこのことで主に対して忠実でなかった.
聖徒達,私は今晩ここで教会に対して謝罪するために兄弟達を代表している.この過去の長い期間において何が私たちに起こったのか見始めたとき,私たちは主に対してとても悔い改めた.しかし,私たちはあなたがたすべてに弁明をしたい.私たちは自分がしてきたことを間違っていると感じ,そしてこれ以上実行すべきではないと思う.主の語りかけから何が生じようとも,ある教会で責任をとる兄弟達は,その時点でその教会にとってそれが良いことかどうか知ることを主に祈り,求めるべきである.御言葉の中には多くのすばらしい事柄がある.そして主のしもべが語ったすばらしい多くのことがある.しかし,私たちはそれらを同時に実行することはできない.ある事柄はこの時には良いであろうが,一方あることはあすにふさわしいであろう.そしてあることは私たちがすることがまったく正しくないこともある.全教会と共に自分の地方において何がその時点で適切な事か,主と彼の導きを受けることを求めることが指導的兄弟達の責任である.
過去においてある者が長老の元へきて,“これこれしかじかのことを何故私たちは実行しないのか.これは昨晩これこれの場所で語られたのだ.もし私たちの教会が‘ミニストリーと一つ’で前進するためにはこれらのことをすぐに実行すべきである!”と強く言った.そこで聖徒達,私たちは次のことを明確にしたい.すなわち,昨晩語られたことを私たちが実行しないことは,即それを承諾しないとか,受け入れないとかいうことを意味しない.しかしながら,それはその時点では私たちに適当でないことであったのだ.過去私たちはあまりにもこの道あの道と紆余曲折をし過ぎた! 私たちは膨大な時間を浪費し消耗してきた.多くの聖徒達が混乱させられ,心を失い,もはや集会に来なくなった.長老達は自分がしていることを知らないのではないかと,ある者は感じさえした.そしてその通りであるように見える.おお,主イエスよ!
私が交わるべき第2の点は,リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスについてである.過去数年間においてこのオフィスとその経営が私たちの間で過度に強調されてきた.そして,誉め讃えられたりさえした.次のような陳述がなされた,“リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスとその経営と一つであることはあの使徒と一つであることである.”(これは正確な引用である).そして逆にLSMOと一つでないことはあの使徒と一つでないことになる.さらに,このような圧力と扇動の雰囲気の中にあって,アナハイムの長老達は--再度私はここにいる兄弟達のことを言っているのだが--私たちは多くの他の兄弟達とこれと一つであることを公の場で宣言したのである.そして,私たちがこれをしていたとき,私たちはあなたがたを代表していた.すなわち,教会はLSMOとその経営と一つであることを宣言したのである.まさにこれらのことがいくつかの私たちの集会で語られた.
私たちはこれらの事項を今晩語らねばならないと感じる.なぜなら,私たちは何かを公に実行したのであり,それは誤っているからだ.そしてそれらを公に取り扱わなくてはならない.私たちはLSMOとその経営と一であることを宣言した.そして,その期間,度を外れたそのような状況のため,そのオフィスはいくつかの教会--私はそれらすべてについては言わないが,しかしアナハイムは確実に含まれる--及び,若い聖徒達の働きに対しての影響力を,今日私たちが異議を覚える程度にまで増していったのである.私たちはこれに同意しないし,またこれに組したくない.私たちは公にそのオフィスと一つであることを宣言したから,今は有機的な神聖な実体である教会にとってそのような一つのビジネス・オフィスと一つであることは不適切であることを明確にしたい.
さらに,リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィス内には私たちが耐えられないある実行と行為が存在する.この地方にある教会として,私たちはそのような実行と行為から私たち自身を分離することを公にここで宣言したい.もう一度言うが,このようにする理由は,私たちが公にそのオフィスと一であることを宣言したからには,あなたがたもそのようである印象のもとに置かれることになり,したがって,そのオフィスで行われているすべてと一であることになってしまうからである.これが私たちが公に以上のことをしたかの理由である.再度言うが,このような教会の不適切なLSMOとの関係が生じたことへの非難は,私たち長老によって生み出されたことを告白しなくてはならない.そしてそれはそのオフィスの戸口に置かれるべきではない.ある期間,私たちは--そして私はこのことで多くのリードをとってきたが,しかしすべての兄弟達がこのことに責任があると感じるし,それを実行してきたことを覚えて欲しいが--私たちはこれらのこととオフィスを公に扇動した.私たちは聖徒達に圧力を加え,オフィスで奉仕するように,またオフィスとその経営と一つであるように強要した.彼らが何を見ようとも,あるいは何が起きていようとも,ある程度まで聖徒達に口を閉じるように奨励した.このことで私たちを許して欲しい! 私たちは教会に申し訳ないと言いたい.
リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスはクリスチャンの書物の出版と販売に携わる一つのビジネス・オフィスである.そのオフィスと私たちの関係はこのレベルまでであって,それ以上のものでなない.LSMOは教会に対して何等の権威も持ってはいない.そしてこの地の教会はそこで奉仕するという何等の強制のもとにもない.(あなたがそこで被雇用人として働きたいと決断することは,あなたの個人的な事柄であって,教会の事柄ではない).私たちが今後適切に前進することができるように,このことが私たち全てに明確になることを望む.
次に,私はライフ・スタデイ,及びクリスチャンの書物一般に関する事柄について分け与えたい.聖書の他にクリスチャンの書物を読むことは--そして私たちはまず何にも増して,神の言葉である聖書を読むべきであることを知っていると思うが,これが今夜ここで言いたい第一の点である--このことは私たちの霊的生活にとって大きな助けとなる.第2テモテでは,パウロはテモテにトロアスにおいたきた巻物を持って来るように頼んでいる.彼はまた言っている.“とくに洋皮紙の文書は....”と.あなたがたはこれらはすべて御言葉と思うかも知れないが,しかし,私はパウロの働きを助ける他のものもまたあったのではないかと言うことができる.ともかく,このことはパウロがある種の文献を持っていたことを示している! 私たちのポイントは霊的書物を読むことは私たちを啓発してくれるということである.私たちはあなたがたが自分の自由裁量で,自分を啓発してくれるどんなクリスチャンの書物でも読むことを奨励したい.
しかしながら,霊的書物を読むことが一つの基盤あるいは聖書を読むことに置き代わってはならないと私たちは言いたい.それはどんな内容か,誰の書いた物かは問題ではない.聖徒達,これらの私たちを助けてくれるものが代用品になることはきわめてたやすいことである.ちょうど霊的指導者が主ご自身と置き代わってしまうのと同様なのである.私たちはこのことを許してはならない.さらに,誰かがリビング・ストリーム・ミニストリーの書物のみを読まなくてはならにと主張することは尚更である.私たちの間でこのような考えを持つ者や,それを強調する者は私たちの教会をセクトに変質させてしまう.他方においてフットノート,ライフ・スタデイ,あるいはLSMOから出される本を読むことをに反対するものもまた分派的である.だから,私たちはこのことにも同意しない.あなたがたすべては自分を啓発してくれるどのような書物であろうとそれを読む自由がある.そこで,集会において,聖徒がフットノートやあるいは彼らの助けとなった何かを読みたいときには,私たちはそれを受け入れるために開くべきである.しかし,誰もがそれをし,それを引き継ぐべきである,云々と主張しているのではない.いまあなたがたすべてがこのことで明確になることを希望する.
次の点はこの集会所での本の販売についてである.私たちはこの奉仕をあなたがたに対して何の収入もない奉仕として行なってきた.このことに反対する人はたぶん,聖書のどこに集会所で物を売ることを言っている節があるかと,私に問うであろう.ならば,聖書においてはエアコンや電気を使っていることを告げる節もないのである! 聖徒達,あまりにも極端になるとき,すべてのことがばかげてくるのである.これらの実行的な事柄においては,一般性のある霊を働かせるべきである:すなわち,ある事柄が罪でなく,それが聖徒達に益であるならば,それでOKとするのである.
私たちはこの奉仕をあなたがたの利便性のために行ってきた.集会の終わった後,必要な本を後ろで買うことは,書店に行くよりも容易である.しかし,過去数年間,特に私がここへ来てから,ある書物のみを過度に宣伝し仲介してきた.そしてこのことを主の前で考慮するとき,私たちの霊において,これも行き過ぎていると感じるのである.教会の集会は物を仲介することになってはならない.物事にはふさわしい場所というものがある.そしてそれをすることはここではふさわしくない.そこで,私たちはこの奉仕は続けるが,もはやどんな本も宣伝したり扇動したりしない.あなたがたすべては今後,何が新しく,何が古く,何が何であるか自分で見る自由がある.また,本の販売の奉仕に賛成できない人は,それを利用しない自由もある.外の書店に行って買えば良い.しかし,ここで購入できるというあなたがたの利便性のために,LSMから出された物であれ,他のところから出された物であれ,この奉仕は続け,あなたがたの便に供する.
私たちが明確にしなくてはならない他の点は,年2回の訓練についてである.多くの聖徒達がこれらの訓練に出席し,それらから助けを受けてきた.しかしながら,この時点から今後,もはや訓練の間私たちの教会生活を中断してはならないと感じる.もしあなたがたの誰かが訓練に出席したいというならそれは自由である.それはあなたの個人的決定である.そして,もしビデオ訓練があるならば,出席したい人のために集会所に部屋を用意する.しかし,訓練に出席しない人のために,私たちの教会生活は訓練が行われている間も通常のスケジュールで進行し,あなたがたはここの集会に参加できる.私たち兄弟達はこれはすばらしく,また正しいことと考える.私たちは集会所の扉を閉じないし,その集会もやめないし,私たちのスケジュールを中断したりしない.もし私たちがエペソ書の中にあったら,訓練の最中もそれを続ける.しかし,もう一度言うが,もしあなたが行きたければ行けば良い.行きたくなければ行かなければ良い.もし望むならここの教会の通常の集会に出ればよろしい.
私たちがカバーすべき他の点は,他の教会との関係についての私たちの立場についてである.もちろん,その教会が大きかろうが,小さかろうが,他の全ての教会を尊敬し,高く尊重するべきである.そして,私たちは全ての教会と交流し,彼らすべてと十分な交わりを持つべきである.とにもかくにも,私たちは互いに肢体であり,一つのキリストの体なのである.しかしながら,他の教会の長老達に,私たちが何をすべきか語らせるつもりはない.私たちはアナハイムにおいてこの種のことを起こしてしまったことにとても申し訳なく思っている.
私がアービンにいたとき,ある兄弟達に,“他の教会を訪ねたときそこで見たことのゆえに,私たちの教会を低くしないように”と言ったことを覚えている.このようなことはとてもしばしば起こっている.もし私たちが他の教会で何かすばらしいことを見たら,それを聖徒達に伝えるであろうが,しかし,それを他の教会で行なっているように私たちの所でもするように教会に強要すべきではない.そうでなく,主にこのことで求めるべきである.主は私たちの地方で何を望まれているのかと.
明確にすべき別の点は,諸々の実行に関することである.すなわち,ドア・ノックなどの実行についてである.私がこれについて言うのは,これをめぐって私たちの教会が昨年ほとんど分裂をしたからである.そこで,これらのことでは,私たちは一般性をすべての聖徒達と実行しなくてはならないと私は言いたい.罪深くないどんな実行もそれに反対すべきではないし,どんな実行においても何の主張も,反対もあるべきでない.私が救われてすぐのころ,私は福音を伝えるためにドア・ノックを何度もしたことを証できる.そして多くの人が救われた.このように福音を伝えることには何の問題もない.しかしながら,すべての聖徒達がこのように行うように言うとき,それは行き過ぎであり,一般性の原則に反することになる.今晩,ここの教会が私たちがこのようなことに対して反対していることで明確になることを期待する.どんな実行においても,私たちは誰にも強制をすべきではないのである.
私は昨年,ここを出て行った者達が文字どおり教会の集会をのっとったようすをはっきりと覚えている.彼らはあれやこれやについて証言をしたが,教会の残りの者達はこのことでうんざりしたのである.聖徒達,このようなことが私たちにあってはならない.あることを実行する人々から受けるために私たちは開いている,がしかし,そのことが誰にも強要されてはならないのである.どのような実行についても私たちはとても一般的でなくてはならない.
私の最後の点は,福音に関する事柄である.私たち兄弟達は,主を楽しんでから,あなたがたすべてが隣人,友人,周りにいる人々に広く,毎日,福音を宣べ伝えるように望み,祈っている! しかしながら,福音を宣べ伝えるための特別な一つの方法があるわけではないことを明確にしたい.どのような適切な方法も良いのである.(私たちはロック,映画,あるいは人々を主に引き付けるためのこの世的な方法を評価しない.しかし,他の適切な方法は何でもOKである).
もしあなたの家に彼らを招くのであれば,それは良い.また,彼らの家に行くのも良い.しかし,福音の働きのある特別な方法を主張することはすべきではない.さもないと,それが教会に分裂を引き起こすことになる.そうではなく,教会は体である.それは有機的で生きているものである!