事件の概要
これは1987年頃からいわゆる「地方教会」と称される一クリスチャン・グループの内部において生じた様々の問題・事件の記録です。この事件はこの団体の指導者ウイットネス・リーによる「ニュー・ウェイ」と称される過激な伝道運動が契機となり、リーの息子フィリップによる10年以上にわたる女性信徒に対する性的陵辱事件など、リー個人にまつわるスキャンダルも暴露される中でエスカレートし、世界各地で分裂・混乱・闘争を引き起こし、その結果、数多くの聖徒たちが霊的に、精神的に、肉体的に、経済的に、そして社会的に傷ついて、ある者は除名され、ある者は自らこのグループから離脱して行きました。中には生命保険を解約したり家を売ってまで献金をし、あるいは夫婦がリーに追従するか否かで離婚したりなどの悲劇も起こりました。
日本においても問題が顕在化した1989年よりすでに丸18年を経過していますが、今だに「地方教会」の影響を有形無形に、また直接的あるいは間接的に被っている人々が少なくありません。一つ一つの事実を当事者として目撃し、この事件に関わった者として、このような記録をとどめておくことは一人の人間として、また一信仰者としての義務であるとも考え、各資料の散逸をおそれてここにまとめるものです。
私たちが遭遇した問題は、1)精神病理学的側面、2)社会心理学的側面、そして最も本質的な、3)神学的側面(真理の問題)の3面から分析する必要があります。リー個人が野心に燃え、金儲けに走り・・・などなどの現象面は問題の本質の一つの表現、すなわち氷山の一角にすぎず、むしろこれらの3要素が複雑に絡み合った潜在的かつ深層的原因が横たわっているのです。そこでこの問題を解きほぐすことを意図して、本書においてはこの3面からの考察をするにあたっての材料とたたき台としての私見をまとめてみたものです。
「地方教会」に何らかの形で関わった人々は、現在その取る立場によって4つのカテゴリーに分類し得ると思われます。
1。ウイットネス・リーと「地方教会」の「教え」も「実行」も間違ってはいないと信じ、もしくは間違いを認めようとせず、または真実を知らないかもしくは知っていながら隠ぺいすることを企図するグループ。すなわち、「地方教会」に現在でも連なる人々。
2。ウイットネス・リーと「地方教会」の「教え」は正しく聖書に基づいた真理であるが、「実行」は間違っているとするグループ。彼らは、一連のスキャンダルの間違いは認め、形の上では「地方教会」を離脱しているが、自分の聞いてきた「教え」は正しいとして、その過ちを認めない。したがって、当初の「幻」に戻り、当初の「純粋」な形の集会や実行を回復しようとする、いわば、「リー抜きの今まで通り」を志向する人々。
3。ウイットネス・リーと「地方教会」の「教え」も「実行」も間違っていると認めるグループ。「実行」と「教え」は不可分であり、 前者は 後者の「実」にすぎないとし、形の上で「地方教会」を離脱したのみでなく、根本的にその「教え」を悔い改めとともに洗い直す必要を訴える人々。
4。ウイットネス・リーも「地方教会」もともにもうこりごりであるとするグループ。彼らは自らの状態の真実ならびに内的葛藤に直面することを避け、クリスチャンとしてのアイデンティティーや進路を喪失しているため、自分の生きがいとなる「何か」を求めて模索している。いわゆる「燃えつき症候群(Burnout Syndrome)」を呈しており、内的に葛藤を清算していないために無意識的にせよ今だにその霊的影響下にある人々。
私自身は次のイエスの言葉に従って第3の立場を取る者ですが、世界的にも日本でも少数派です。1、2群の人について言えば、確かに自らが20年、30年にもわたって信奉し生涯を捧げてきた対象の過ちを認めることは困難でしょう。自らの人生そして自らのアイデンティティーが脅かされるように感じられるでしょう。しかし私たちの人生は私たちのなした事の上に築かれるのではなく、イエスの十字架のみわざの上に安息するものであり、私たちのアイデンティティーも十字架に付けられた古い私たち自身ではなく、内にいますキリストご自身です。私たちの行いによるのではなく、神による十字架の事実に対する信仰によるのです。自分と自分の人生を何の上に−砂か岩か−建てているか、が問われるのです。反リーの最右翼である人々の文書の中にも「私たちの歩みは・・・することによる」なるフレーズが多く見られ、すでに完成された事実にある信仰によってというフレーズはまず見られません。これが「地方教会」における一つの特質です。あたかも十字架のイエスのわざが不完全であって、私たちの側の補いが必要であるかのニュアンスさえ感知し得ます。そしてこれは4群の人についても言えることです。
94年当時に、「"地方教会"に関わった人々の今後を予測するに、古い皮袋を取り繕えば必ずそれは破れ、酒は流れ出てしまうでしょう。」と予測しましたが、改めて遜りと信仰をもって主イエスの警告に耳を傾ける必要があります:
偽預言者はその実で知りなさい。良い木に悪い実がなることもなく、悪い木に良い実がなることもない。良い木には良い実がなり、悪い木には悪い実がなる。
すでに20年という月日を経過していますが、依然として世界の各地で分裂騒動などが起きております。これは偽りの隠蔽することによる強迫反復と言う現象ですが、原点に立ち返って問題を対処しない限り、抑圧した問題が噴出してきて、何度も何度も同じ問題を繰り返すのです。私が当時予測した事態に立ち至っています。私はここで再度「私は何を聞き、何を信じ、何に従うのかいう一人称の質問を各人が神の前で問うことを提案したいのです。主イエスは言われました:
何をどう聞くかによくよく注意しなさい、
と。そして、もし真理でない「真理」を聞き、受け入れ、信じるならば、必ずその「実」を得るのです。