幻の再考
匿名で米国内で配布されたリー氏を告発する文書.原文は中国語.これは中国語から英語に訳されたものを,さらに日本語に訳したものである.この内容についてはリー氏の20年以上にわたる有力な片腕であり,アナハイムに在る教会の長老であったジョン・インガルス氏が,私宛の私信において2,3の確認し得ない点を除いて,その真実性を証言している.
また当時,日本の"地方教会"の最高責任者吉○氏と彼に次ぐ広○氏が,その事実を自らは認めつつも,それを一般信徒から隠蔽する努力に終始し,むしろ真実を知って語ろうとした人々を反逆者,異端者,分裂者などのレッテルをはることにより排除した.米国でもこの文書が契機となり,89年の大きな分裂が生じた.結局これらの疑惑に対して,リーは何らの公式の説明をすることなく,離反者たちもあえて事を荒立てることをしなかった.
なお,リー側からみた事件の記録がリー自身によって出版されているが(→文献[14]:邦訳無し),アメリカ,ドイツ,香港においても真実を知った人々はみな同様の扱いを受けている.またリー氏自身は自らを神の信託を得ている唯一の者と宣言したメッセージの中で,本文書にある不明朗な金の扱い方についての記事は虚偽であると主張している.なお,注は特別に断りがない限り私によるものである.
英語版翻訳者の序言
最近中国語のパンフレットのコピーを入手したが,私たちはそれを英語に翻訳すべきであるという負担を主から受けた.そのパンフレットはウオッチマン・ニーの本‘働きの再考’からの引用が多数あるが,それはリビング・ストリーム・ミニストリーによって‘正常なキリスト者の教会生活’の書名のもとで英語に翻訳されて出版されている.しかしながら,リビング・ストリーム版では中国語のオリジナル版には含まれていた多くの箇所が省略されている.したがってわれわれの引用はニーのオリジナルな中国版からのものである.
しばしばLSMから出版されているウォッチマン・ニーのクレジットによる書物が,どこまでニー自身によるものかは不明である.実際ニー自身の手によって書かれたものは"The Spiritual Man"3巻とここにある‘正常なキリスト者の教会生活’(原題:"Concerning Our Mission"),さらに雑誌『リバイバル』誌の記事であり,他のほとんどのものは有名な『キリスト者の標準』(アンガス・キンナー編集)も含めてニーのメッセージの速記録を他者が編集したものである.ここに指摘されているようにリーの手による"編集"が入れられている可能性が大である.
はじめに
ウオッチマン・ニーは彼の著書‘働きの再考’の序言において次のように述べている.すなわち,“私たちは一つの目標をもっている,すなわち,私たちの働きを完全に聖書に従って行うことである.私たちは一つの願いをもっている,すなわち,私たちの働きを神のみことばに従って実行することである.私たちは聖書は神の言葉であり,最高の標準であり,完全な模範であり,権威のある命令で満ちていることを信じている.私たちのために聖書に記録された神の完全で完備な言葉に,いかなる点においても足らないような働きをしたいとは思わない.私たちはパウロとともに次のように繰り返したい,‘神の御言葉をあなたがたに伝えるに際して,私は何事もおろそかにしませんでした.(使徒行伝 20:27)’
私たちは,神の霊に従うことを求めることにおいて,書かれた彼の言葉を無視したり,それからそれたりしては決してならないのである.”
いま振り返ってみると,ウオッチマン・ニーは決してキリストと教会の天的な幻からそれたことがないことを,彼のすべての生涯と働きにおいて証していることを見ることができるのである.この幻のために彼は正しい良心と,偽りのない信仰と,変わることのない愛とをもち,しかもその実現のために自分の命を危険に曝し,また捧げさえしたのである.彼はすばらしい戦いをし,レースを走り抜き,そして殉教したと言える.したがって彼には義の冠が与えられるであろう.
主によって,彼をとおしこの幻が東洋においてだけでなく全世界に分け与えられ,そして多くの教会が設立されたことを,私たちは主に感謝する.
筆者はこの書を記述するには兄弟姉妹の中で最も小さいものである.しかしながら,主のあわれみと彼の回復に身を投じて以来受け続けている啓示とをとおして,私が主の回復に来て以来見てきたことを解き放なつべきである,という負担が私にはある.そして,その主の回復は当初の神の計画と方向から今や逸脱しているのである.それはこの世,罪,そして組織されたキリスト教に変質しつつある.私たちはパン種の満ちた巨大な木になることを望むのであろうか.この異常な成長の中には,嘆きの認識と深い悲しみと,そしてそれを続けることを許してはならないという感覚をもつ人々もいる.信者の一致のために何の意見もなく,ただひとつのラッパだけが吹かれるべきであるという,いわゆる教えが打ち出されている.これが多くの偽りと,暗闇と,そして肉の動機と利益を覆い隠すために非常に巧妙に利用されている.聖書的な方法は,邪悪な行いを隠ぺいするのではなく,真理のために健全な聖書の原則に反するものを大胆に暴露することである(ガラテヤ2:11-14;Iコリント5:1-13;エペソ5:11-13;黙示2:1-2).
意見を持たないことや黙っていることは筆者には受け入れられない.そうすることは聖霊の動きに忠実でないことになろう.私は見たこと,聞いたこと,経験したことを,神の言葉の光とニーの本にある当初の幻の中で記録しなければならない.読者はそれぞれ自分の結論を導き得るであろう.
I.‘デイスター’のケース
この書の中で,私たちは最も疑問視されるべき人物をX氏 と呼ぼう.このX氏は彼のメッセージの中で,自分はこの時代の使徒パウロであり,ウオッチマン・ニーのただ一人の後継者であるとほのめかしている.しかしながら,彼の行状は自分のメッセージに矛盾し,自分で言っていることに合致していない.‘デイスター’のケースはその顕著な例である(注).
(注)資金の流れについてはこちらのチャートを参照。
A.X氏の実行の真相
1.彼の長男の事業の資本とするために,主の働きのために必要だとして,聖徒たちに金を投資させた.極東の兄弟たちはこれを支持しなかった.なぜなら彼らはX氏の息子の不安定で信頼できない性格をよく知っていたからである.しかもこのことは各地の教会を財政的な混乱に引き込むことになるであろう.しかし,驚いたことに,合衆国の長老たちは信者に投資するように説得し,しかもそれは‘一石二鳥’,すなわち,主のために捧げながら金も得られることになる,と説いたのである.主の食卓においてさえ,この事業のための発表と要求がなされたのである.X氏は特別集会を開き,そこで建設するべき集会所の数と,この事業への投資によって得られる金の予算を黒板に示したのである.
2.X氏はこの会社の社長として自分の長男をすえた.後にこの息子は幾人かの兄弟たちに,250万U.S.ドルが自分の手から消えてなくなったと供述した.(訳者注:90年1月現在のレートでおよそ3億5000万円)
3.多くの聖徒たちはこの事業に自分の生活の蓄えを出さなくてはならないという圧力を受けた.
4.そのとき主はご自身の主権を持って介入され,石油危機を招来させた結果,各家庭で大型車の需要が減り,その結果,事業は破産へと至った.(訳者注:X氏の息子の事業はトレーラー・キャビンを生産することであった)
5.するとX氏は自分の同労者の一人であるM氏に対して,金を捧げた聖徒たちに,投資した金は主への献金であるとみなし,払い戻しをさせないように説得させた.多くの人がこれでつまづき教会を去ったが,払い戻しを求め続けた聖徒たちはX氏によって無視された.
6.この件で合衆国における主の回復の拡大が阻害され,またM氏が教会の中で‘頂点’の地位にのぼりつめる結果をもたらした.
B.聖書の教え
1.使徒行伝18章ではパウロ,アクラ,そしてプリスキラが生活のためにテント作りをしていたことを言っているが,このことは個人的なことであり,教会をそれに巻き込んだり,それに参加するように強制してはならないのである.聖書すべてを通じ,いかなる使徒も教会あるいは聖徒たちと事業に携わる例はまったくないのである.
2.それどころか,ネヘミヤ記13:8−9では,ネヘミヤはトビア家の器具類をすべて部屋から投げ出し,神の家を清くするように命じたのである.
3.マタイ21章では,主が宮で売り買いしているものを追い出し,両替人のテーブルや商売しているものの椅子をひっくり返したことを見せている.
C.‘働きの再考’におけるニー兄弟の幻
1.ニー兄弟はいわゆる‘教団’を是認していなかったので,働きのための資金を得るために聖徒たちを事業に巻き込もうとは決してしなかった.彼は言っている.‘教団が神を信頼するための共同的方法であるにしても,それより個人的に神に信頼する方がもっと良い.聖書の中では個人的信仰はみられるが,共同的信仰のようなものはみられない.’(9章)‘教団’はせいぜい個人の信仰に影響するだけであるが,‘デイスター’は教会を破壊し,聖徒たちをマモンに仕えることにもたらしたのである.
2.‘誰が偽使徒であるか試すには金が最も大きな試金石である.金のことで明確でなく,どん欲を示すものは偽使徒に違いない.使徒パウロはエルサレムにおいて聖徒たちを助けるために,2人の聖徒に金をもたせて送った.何と誠実で真正であろうか.金が私たちを魅了するとき,私たちの働きは金によって影響され,当初は真の使徒として始めたとしても,偽使徒に陥る可能性がある.’(2章)この真正な態度と,X氏が自分の息子を社長にすえたこととを比較していただきたい.これによって,彼は疑わしい立場に追いやられるのである.
U.M氏のケース
A.M氏の台頭の背景
1.M氏はその会社に投資した聖徒たちに債権を忘れるように説き伏せることに成功し,X氏が多額の借入金の弁済から解放されたために,X氏の後継者とみなされる立場にまで昇り詰めたのである.多くの機会と集会においてM氏のためにX氏の隣に指定席が用意されていた.この時点ではM氏はX氏の緊密な同労者,同士であると誰の目にも明白であった.
2.M氏の生活の様子はX氏のそれとまったく同じであった.彼は教会における‘古さ’を対処するという口実のもとで,年長者たちを軽蔑させるように若い聖徒たちを扇動した.(X氏自身だけは決して歳をとらなかった.)そして深い溝が若い聖徒たちと年長の聖徒たちの間に生じた.M氏は最初X氏を偶像に仕立て上げ,次に自分を金の子牛にした.その期間,X氏とM氏は若い人々の前にのみ現れていた.彼らはある年長の同労者や長老の言うことにはまったく耳を貸さなかった.1977年にカリフォルニアのバークレイにおいて,いまわしい週末が迎えられた.それは恥ずべき出来事で,敵が主の回復を攻撃するに十分な根拠をもたらした.
3.その混乱と困難はX氏自身にふりかかり,彼はもはやM氏とともにすることが得策でないと判断し,M氏の行動を率先して非難するように別の同労者を仕向けた.あらゆる非難がM氏に向けられ,またM氏が,‘X氏の気づかぬ間に主の回復に忍び込んだ邪悪な人間である’とする表明が教会間になされた.そしてX氏とともなるM氏の経歴は終わった.
B.聖書の教え
1.‘なぜなら主は人が見るようにはみない,人はうわべを見るが,主は心を見る’(Iサムエル 16:7) .人を選ぶに際して,主はその能力を見るのでなく,その心を見るのである.
2.聖書は一方において若者がその若さを卑下しないようにまた年長者のオフィスに行くのに大胆であるように戒めているが,他方において,若い者は年長者に従うようにと,Iペテロ5:5では言っている.それとは反して,X氏は若い人々に対して年長者を尊敬するようにとは言っても,彼らに聞いたり,彼らの方法に従わないように言っている.すなわち,年長者があまりにも古く,役立たずであるということである.
3.使徒行伝20:28は,聖霊があなた方を神の教会を牧させるために監督者としておかれた,と言っている.したがって使徒が長老を任命するときには,神の群れを導くようにすでに聖霊自身によって任命された者を,聖霊の導きにおいて任命できるだけである.いわんや,同労者を選ぶに当たっては多くの考慮がなされるべきである.個人的好みや,家族のつながりなどは除外されるべきである.もし明かな誤った選択がなされた場合,使徒自身が責任を負い,その同労者を‘くび’にしたりせず,知らぬ間に彼が忍び込んだと自分で弁明すべきである.
C.‘働きの再考’におけるニー兄弟の幻
1.7章においては若い同労者が年長の同労者に従うべきであるといっている.
2.7章においてはさらに進んで,働きのために集まる際には自発的な交わりがなくてはならない;なぜなら,人の方向を決める聖霊の導き,さらには神の声に注意を払うことなく,組織化された方法でことを行う危険性が常に存在するからである,と述べている.これらの‘低い’立場は,これらの‘高い’立場によって制限されるべきであろう.M氏はX氏の手中にあって,担保であったのである.彼らはまったくの消耗にいたるまで,あるいは神の主権ある介入にあうまで,聖霊の導きを求めることもなく,ただ人の弄した策略を実行し続けたのである.
V.次男による略奪
M氏の離反については多くの主の回復への攻撃的な本が出版された.それらは全てが真実を述べているとは言えないながらも,X氏に関する多くの観察は正しく彼らの想像によるでっち上げとは言えないものであった.問題になる点についてはX氏のミニストリーの出版物においては削除されているために,それらの確認は不可能である.しかしながら,いわゆる反対者の観察を裏付ける多数のオーデイオ・テープやビデオ・テープが存在する.先の訴訟問題の際には聖徒たちは沈黙するように警告や圧力を受け,そして多くは主の回復のために進んで沈黙を守ったのである.いくつかの機会に外部者が聖徒にインタビューを求めてきたときには,そうされても‘安全’な特別の者たちだけが選ばれたのである.
訴訟の間中,X氏は謙遜な恐れ多いと言うような態度で振舞っていた.しかし,勝訴するや回復が進むための道を明らかにするどころか,次男が登場し,M氏が考ええた以上のひどい荒廃をもたらす機会になったのである.
A.次男の略奪の過程
1.彼の次男は教会の集会に参加することを好まず,しかもこの世の仕事においても適切な地位を得ていない.ところが,X氏は彼を自分のミニストリー・オフィスのマネージャーにすえたのである.10年以上にわたって,彼は聖徒に横暴,だらしなさ,乱暴な言葉・習慣といった印象を与え続けた.彼が再生された神の子供であるという証拠は見いだされなかった.彼の爆発的な気質と移り気な情緒的行動は各地の教会において本の販売に携わる人々の間に多くの困難を引き起こしたのである.多くの訴えがなされた.しかし,X氏は‘ミニストリー・ステーションは私の個人的な台所であり,よって自分の料理の援助者を選ぶ権利がる’と述べた.X氏はミニストリー・ステーションが聖徒の献金と労力によって建設され,しかもその毎日の労働はほとんど無報酬の奉仕で行われたことを忘れたかのようであった.(ミニストリー・ステーションには報酬を得ている被雇用人はごく僅かしかいない).現在に至るまでも,各地の教会に無報酬の仕事を行うために順番に聖徒を送るように要求さえしているのである.これらの無報酬の援助に加えて,聖徒たちに献金させるようにその事業の地域内に特別の献金箱がおかれたのである.もし個人の事業であるならば,何故聖徒に奉仕させたり,献金を要求したりするのであろう.これは神の家を事業のために略奪することである.
2.出版物が無報酬の聖徒たちの手によって送り出され,献金まであるのならば,定価は非常に安価でよいはずであるがどうであろう.ところが実際の定価はほかのデイーラーの定価よりも高いのである.どうしてであろうか.利益追求の動機以外のなにものでもない.
3.次男はX氏に年に2回訓練集会をもうけ,参加費として50ドルを徴収することを提案した.この費用は‘ライブ’での参加か,ビデオでの参加かによらず課せられるものである.この強制的な費用は実際上は‘献金’と呼ばれている.信心を利益追求の手段として実行しているのである.しかるにX氏は神学校や教派を非難しているのである.各教会からの参加者の予定数が出される.その数の合計が訓練の数カ月前に送られる.もしキャンセルがあったとしても払い戻しはされない.最も不条理なのはビデオ訓練集会のために費用が課せられることである.なぜなら,教会の規則が訓練集会に使われ,そしてそれはこれらの集会は‘教会の集会ではなく,訓練集会である’と,特に述べているからである.教会はビデオテープを借り,教会の設備が用いられている.いわゆる教師なるものはいないにもかかわらず,費用を払わなくてはならない.このミニストリーの収入はまったくの純益になるのである.なぜなら,何らの経費も必要でなく,それらはすべて各教会と聖徒たちが負担しているからである.
4.この次男が登場する前は,X氏は分裂を避けるために合衆国で中国語の集会を持つことを許可していなかった.その期間は多くの英語が達者でない極東からの移民者が教会生活から切り離され,そのため多くの人が宗派へと失われて行った.幻を信仰深く見ていたものだけが主の回復にとどまった.後に,ある聖徒たちが中国語の家庭集会を,教会の通常の集会に加えてもつ負担を得た.バークレイでの問題の後,白人の間での英語による働きは停滞した.するとX氏は突然中国語の集会に力を入れ始めた.彼はその中国語の集会を各地の教会から分離し,‘ミニストリー集会’と呼んだのである.X氏は自分の次男を中国語の働きの責任者と定めたのである.このようにして彼はクリスチャンとしての立場は疑わしいのにもかかわらず,霊的な巨人になったのである.彼はその座につき,中国語のリーダーの兄弟を奉仕の指示を与えるために召集したのである.彼は自分だけがX氏に影響力を持つものであると述べた.多くの野心をもった指導的兄弟たちが彼の右あるいは左の座を狙って彼に媚び,お茶運びをして機嫌をとったのである.なんと嘆かわしい場面であろうか.箴言30章では私にとって不思議なことが3つ,いや4つあって,私はそれを知らない...と言っているが,私たちにとってその座についている次男ははるかに信じられない存在なのである.
5.多くの同労者や長老たちがX氏に次男を抑えるように相談を持ちかけたが,X氏はそのような提言に気を配るどころか彼をミニストリー・オフィスの総支配人にまで昇格させたのである.X氏は聖徒たちに務めとミニストリー・オフィスと一つでなくてはならないと述べた.彼は実際にはオフィスを私物化した.また彼は皆が彼に追従すべきであり,そして彼の息子にも同じように追従すべきであると述べた.新しい若いリーダーたちは各教会に,すべてのことをまずX氏とその息子に報告し,彼らの許可を得なくてはならないと報告した.このことは単に横暴であるだけでなく,これらの野心家たちは‘徒党を組み’,教会において特別のグループを構成したのである.これはエリやソロモンの晩年のようなX氏の過ちによるものである.筆者は主がX氏に次のように言うであろうと信ずるものである;‘何故,あなたがたは,私が命じた私へのいけにえ,私への捧げものを,私の住むところで軽くあしらい,またあなたは,私よりも自分の息子たちを重んじて,私の民イスラエルのすべての捧げもののうち最上の部分で自分たちを肥そうとするのか’(Iサムエル2:29)
6.X氏は一方で,M氏は主の回復に忍び込んだ邪悪なものであると言い,他方においてM氏の追従者たちを持ち上げ,彼の次男の追従者に仕立てあげているのである.ただ一つの変わった点は,M氏からその次男へということである.しかしながら,このわずかの変化はもっとひどい損害を引き起こしたのである.それはX氏のさらなる影響力をもたらし,状況を悪化させ,堕落させ,そしてその最低のレベルにまで引き下ろしたのである.
7.次男の登場は教会を堕落させた.地方の立場に基づいた一はもうすでに失われた.すなわち,分派的宗派−−X氏とその息子の会社−−になってしまったのである.金,この世,そして罪が純粋な証と置き代わってしまった.次男の追従者たちはいわゆる‘務め’なる口実のもとで,次のような多くのナンセンスな愚かしい発言をした:
a.‘X氏はわれわれの王である.王はその座を自分の息子に譲る権利がある.
b.‘旧約時代にはイスラエル人は幕屋で神に仕えた.実際には彼らはアロンとその2人の息子に仕えたのである.今日X氏はわれわれの大祭司アロンである.したがって,われわれはX氏とその2人の息子に仕えるべきである.’
c.‘マリアはヨセフよりも霊的であったにもかかわらず,神の言葉はしばしばヨセフにまず与えられた.そして彼の口を通してマリアに伝達された.同じように神はまず次男(彼はまったく霊的ではないが)に語りかけ,彼の口を通してX氏に伝達され,そして教会に与えられるのである.’
d.‘神に仕えたいと願う者は次男とよい関係を確立しなくてはならない.さもないと彼が堅固に立つすべがなくなる.’
e.‘われわれの必要はX氏と一つであることだけでなく,次男とも一つであるために,彼に対して悔い改め,告白をしなくてはならないことである.これが正しい教会生活を保ち主に仕えるための前提条件である.’
f.‘われわれは共産主義中国の紅衛兵(Red Guards)の例から藍衛兵(BlueGuards)になることを学ばなくてはならない.そうすればわれわれはX氏を支え,守ることができる.われわれはまたサタンからすら学ばなくてはならない.彼は常にそのわざをなすときに神よりも一歩先んじているのである.’
8.上記したような言葉は幾人かの親愛なる聖徒たちに政治の霊が忍び込んだのではないかとの疑いをもたせる.最近の多くの行動は中国大陸の文化大革命の模倣の観を呈しているのである.
a.X氏は‘務め’を乗っ取るため,また主の回復をX氏とその息子の会社にしたてるために,次男を自分の後継者にすえたのである.
b.X氏は自分が現在台湾で行っていることは革命的な働きである,と述べている.彼は組織を全面的に改革しなくてはならない.次男の追従者たちは,藍衛兵(Blue Guards)は‘組織改革’のための軍隊であると発表した.
c.共産主義中国の文化大革命においては武力によって古さを除外しようとする者たちが奮い立った.次男の追従者たちは次のように叫んだ;‘1,2,3と上昇し,4,5,6と下降する’と.すなわち,10台,20台,30台の人々は上昇するが,40台,50台,60台の人々は下降するというのである.40歳以上の同労者や長老はもう古すぎるのである.彼らは40歳未満のもっと若い同労者や長老と置き代わるべきなのである.
d.年長の同労者や長老たちのキリストと教会に対する信仰によれば,彼らは決してこの世や罪と妥協しないのである.したがって,彼らはかの次男やその追従者たちを是認できないのである.これが彼らが障害物とみなされ,排除されねばならない理由である.1985年,X氏は公の場で年長の同労者や長老を非難した.台湾においてもたれた多くの集会でX氏は‘われわれは彼らを全員くびにする.’と言った.同時にX氏は傲慢な若いリーダーたちを年長のリーダーたちと入れ換えたのである.彼は‘新しい人はニューウエイを歩む’のスローガンのもとに,年長の聖徒たちを全ての教会から取り除くように若い人々を鼓舞したのである.また異なった意見を持つ人々を追放する戦闘に火がつけられた.そして今日,分裂,狂気,そして教会から平和が失われる結果に終わったのである.
e.ありとあらゆる理由付けが教会から金を搾取するためになされた.ミニストリーステーションに納めるための一定の献金額が各教会に割り当てられた.最近においては多大な額の金が全世界からミニストリーステーションに集められているが,それに対する明確な会計報告が何もなされていないのである.
B.聖書の教え
1.教会の長老や執事を任命するときには,彼らは群れの良い模範であるべきである,と聖書は言っている(Iペテロ5:3).彼らは仕えているその地方の教会において,使徒による任命以前に聖霊によってすでに定められているべきなのである.(使徒行伝 20:28) 彼らは次のようであるべきである;‘非難されるところがなく,ひとりの妻の夫であり,自分を制し,慎み深く,品位があり,よくもてなし,教える能力があり,酒のみでなく,暴力をふるわず,温和で,争わず,金銭に無欲で,自分の家庭をよく納め,十分な威厳をもって子供をしたがわせている...’(Iテモテ 3:2-13) 主の回復のためのいわゆる‘務め’の働きを取り扱う自分の後継者を選ぶ際に,X氏はそのようないっそう厳格な考慮をすべきであったのである.ところが,自分の利己的な動機から彼はIテモテ3章の記述とあらゆる点においてまったく相違する自分の息子を任命したのである.この邪悪な人間が主の回復の証を間違って代表したのである.彼は私たちすべてを恥ずべき状況にもたらしたのである.X氏のような表面的には霊的な指導者が,なぜこれほどまでに盲目で無感覚たりえるのか,私たちには理解できないのである.
2.‘主が彼に“どういうふうにやるのか”と尋ねられました.彼は答えました.“私がでていき,彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります.”すると,“あなたはきっと惑わすことができよう.出て行って,そのとおりにせよ.”と仰せられました.いまご覧の通り,主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました.主はあなたに下る災いを告げられたのである.’(列王記上 22:22-23) 純粋な主の働き人は大胆に腹蔵なく主のために語るミカヤのような預言者でなくてはならない.ところが今日,X氏の息子の追従者たちは(彼らは以前はM氏の追従者であった),ミカヤの時代の預言者たちが王の目を覆い隠すために嘘をついたように,真理を汚れた良心によって歪曲したのである.こういう連中はX氏とその息子のために墓穴を掘りつつあるのである.
3.X氏はしばしば使徒行伝 15:36-41 を引用して,‘バルナバは自分の甥であるマルコを主の働きよりも大事にしたので,その時点から聖霊は再びバルナバの働きを記録していない.’と述べた.皮肉にもX氏自身も自分の肉の息子を主の証以上に重要視しているのである.彼の息子ははたしてマルコよりも霊的であり,主とその働きを愛しているのであろうか.
4.過去私たちは主の御心を知り,彼の啓示に反するもの,例えば宗派,この世的な組織,規則表,罪,肉的なこと,等...はなんであろう捨て去るべきであると決めた.しかし今,X氏とその次男は犬のように自分の嘔吐物にもどり, 土を宝のように取り扱っているのである.この状況は聖書の次の聖句に対比できる.‘...主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ,その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら,そのような人たちの終わりの状態は,はじめの状態よりももっと悪いものとなります.義の道を知っていながら,自分に伝えられたその聖なる命令に背くよりは,それを知らなかった方が,彼らにとってよかったのです.彼らに起こったことは,“犬は自分の吐いた物に戻る”とか“豚は身を洗って,またどろの中にころがる”とかいうことわざどおりです.’(Uペテロ 2:17-22)
C.‘働きの再考’におけるニー兄弟の幻
1.‘ある人が使徒であるかどうか見分けることは,彼の召しが神によるか,また神から送られているかによる.’(第2章)
‘神の働き人は中央集権化された組織的伝道団を形成してはならない.彼らは連合されてはいるだろう.しかしながら,それは人為的な連合ではなく,霊的な連合でなくてはならない.そのような連合においては神御自身が頭でなくてはならない.その連合においては誰もある種の地位とか仕事を持ってはならない.人為的な組織は委員長や委員会の指導者等を通じて人をコントロールするために権力を行使する.彼らは人々の働きに指図し,型にはめるのである.しかし聖書的連合は決して組織化されてはならない.’(第9章)
今日の私たちの困難は主によって召されたのでなく,単に愚かな父親によって任命された,自分に資格もない地位を占有しようとする者が存在することなのである.彼は召された聖徒たちを不正にもののしっている.状況はガラテヤ4:29 に述べられているとおりのものである:‘しかし,かつて肉によって生まれた者が,御霊によって生まれた者を迫害したように,今もそのとおりです.’
2.‘そして金が権威になる.財布を持つものは誰でも権威者である.金は人を制御する.経済的に援助を受けるものは誰でも,援助するものによってコントロールされる.’(第9章)
過去においては,主の回復における全時間奉仕者は信仰によって生きるように絶対的に神によって動機づけられていた.ニー兄弟は述べている;‘全時間奉仕者あるいは同労者になるための前提条件は,その人が神に信頼できるということである.’今日の堕落した状況を見てほしい.真に神によって召された者は‘古い’部分であるとみなされ,単に志願したり,‘熱狂的’集会で情緒的に反応したものたちがX氏のいわゆる‘同労者’と数えられ,多くの聖徒たちに‘ニューウエイ’なるものを教え,重荷を負わせることに情熱を傾けているのである.各地方の教会は,19人で1人の全時間者を支えるように厳格に命令されている.これはX氏の計算によるもので,信仰によるものではない.その次男は全時間者の上に権力を行使している.主の回復にとって,なんという恥であろうか.
W.真の使徒のチェックリスト
A.真の使徒は思い上がるだろうか
1.使徒ペテロとパウロの書簡や,ニー兄弟の本を読むときに,使徒たちが謙虚で柔和であったことを感じることができる.彼らは決して聖徒のうえに重荷を置いたりせず,自らは群れの模範であったのである.Iペテロ5:5では,神は高ぶりに抵抗するとある.高ぶるものは誰でも悪魔にならうものである.(イザヤ 14:13-14;エゼキエル 28:17)
2.一方,X氏はそのメッセージにおいて常に自分の霊的な知識を得意げにひけらかし,他人を卑下する.例えば,‘もし私がこれらのことをあなたがたに語らなければ,あなたがたは決してこういうことを知ることはできない.’彼は聖徒たちに,自分が今日の使徒パウロであり,唯一の霊的指導者であることを暗示するのである.
彼は特に大げさな言葉を好んでいる.疑いなく,藍衛兵(Blue Guards)のリーダーたちが集会で彼を賛美する賛美歌を書いたのである.彼らはX氏に‘今日のアロン’,‘教会の王’,‘大統領’,‘唯一・最後の執事’,‘神−人’,等....という称号を与えた.そのような賛辞と崇拝を受容したことは,彼が暗闇にあることを証明している.彼はそのような人々を止めたり,矯正したりはけっしてせず,喜びをもって彼らのへつらいを受けたのである.最近,最も衝撃的な名称が彼の追従者によって台湾で発明された.彼らによれば,もはや‘三一’なるものはなく,むしろ‘四一’であるという(注).すなわち,父なる神,子なる神,霊なる神,そして神−人であるX氏は一つであると言うのである.なんという冒涜であろうか.ここで,そのような悪魔的神学を発明する者どもがそのような偽りの教えをまき散らすことを直ちにやめることを要求する.
この延長線上に「ウイットネス・リーはキリストである」との宣言がなされている.
B.真の使徒は公の場で同労者や長老を侮辱するだろうか
1.聖書においてはどの使徒も真理を守るための場合以外には他人を批判していないことを見る.公の場で他人を侮辱したり,見下げたりする使徒は聖書の中にはまったくいないのである.Uコリント 12:12は,‘使徒としてのしるしは,忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた,あの奇跡と不思議と力あるわざです.’と言っている.‘働きの再考’においてニー兄弟は,‘最も力強い霊的能力は忍耐であり,喜びをもって忍耐し,許すことである’と述べている(第2章).
2.しかし,X氏から私たちが見たり聞いたりできるものは,他人をけなし,同労者を非難する自己満足的な霊的指導者である.彼は公に彼らを侮辱し,おとしめ,そして彼らがもはや教会で適切に機能することができない状況に追いやるのである.彼は次のような言葉で非難した;
a.‘あなたのメッセージは今日的でなくで,今の時代にふさわしくない’
b.‘彼は自分自身の働きをしている,私の務めではない’
c.‘彼は教会の癌である’
d.‘誰が来いと言った,おまえなど見たくもない’
e.‘彼らはあまりに古い,くびにすべきだ’
真の使徒たるものがそのような態度をとるものであろうか.彼は‘同労者の連合’の指導者としてふさわしいであろうか.もし同労者が失望すべき言葉を言ったとしても,X氏は彼に将来においてもっと効果的な働きをするように,個人的な交わりで啓発すべきであろう.‘おまえはくびだ’のような言葉は,X氏の目には,同労者たちは神とともなる同労者や神の奉仕者ではなく,単に彼の奴隷かのように見えていることを証明している.
C.真の使徒の金に対する適切な態度とは
1.聖書は‘神とマモンにかね仕えることはできない’と言う.(マタイ 6:24) ‘働きの再考’もまた,‘誰が偽使徒かテストするには金が最も大きな試みである’と述べている.
2.X氏は自分の長男の利益のために‘デイスター’を計画し,多くの聖徒たちにその生活の資を失なわしめた.X氏の‘デイスター’を取り扱うときの態度は正直ではなかった.彼は自分の息子を社長に任命し,会社が破産に至ったとき,その負債を正当に処理しなかった.後ほどいわゆる‘ミニストリー’の経済状態が改善されたときですら,聖徒たちからの多額の借入金を決して返済しようとはしなかった.反対に,自分と息子の家族の生活をぜいたくなものにしたのである.彼はルカ 19:8 にある収税人ザアカイよりはるかに下等であるばかりでなく,未信者よりも悪質である.主は,‘もしあなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら,あなたがたは決して天の御国に入れません’と言われる.(マタイ 5:20)
3.X氏は自分の次男に聖徒たちから金を搾取する多くの方法を発明させた.
4.最近では多くの教会の長老たちに‘藍衛兵(Blue Guards)’のチーフを通じてある指示が与えれた. すなわち,教会はX氏への感謝の表現としてある額の月次献金をすべきであるというものである.ある教会は毎月1000jを献金し,またある教会は3000jを毎月献金している. このような献金は1987年に時を同じくして開始された. このことは,この献金が自発的なものでも自由意志からのものでもなく,促し,指示, そして彼の教義を教え込まれた者の強制によるものであることを証明している.
5.多くの新しい口実が諸教会からの捧げものを集めるためにつくられた.例えば,‘各地方ごとのミニストリー・ステイション ’,‘全時間奉仕者の住居’,‘訓練のための大集会所’,等....である.結果として,これにより諸教会から何百万ドルをしゃぶりつくし,多くの教会を経済的危機に陥れたのである.この捧げものの本当の使途は諸教会に明らかにされることはまったくなかったのである.これは‘自分の台所’の財産と金を得る者に関するミステリーの中のミステリーである.
6.多くの聖徒は,主のために‘必要のある未亡人の2枚の銅貨’を得るために,簡素に慎ましく暮らしている.それに対して,X氏とその息子たちの贅沢ざんまいの生活の有様はまさに信じられないほどである.次男の自慢話によると,彼の腕時計は1万j以上であるという.彼らの家の家具や調度品は最高品質のブランド物である.X氏は自己名義の住宅をいくつかの地域,例えばアービン,シュツットガルト・ドイツまた台湾等に所有しているのである.そしてそこには全時間者が24時間体制で家の温度をモニターしているのである.
彼ははじめは本当の使徒であったかもしれないが,金の影響により,偽使徒の方向へと歩みつつあることは,多くのことが明らかにしているのである.‘彼は高慢さで盲目になり...,信心を利得の手段とした’(Iテモテ 6:4-5)金は最も人を魅了する.ユダは銀貨30枚で主を裏切ったのであるが,しかし,彼は当初から裏切り者であったのではない.彼ははじめ,主によって選ばれた12使徒の一人であった.しかしかれは銀貨30枚の誘惑に勝てず,その後彼は悔い,その銀貨を返したのにもかかわらず,許されることのない状況に陥ったのである.そしてついに彼は首をくくったのである.(マタイ 27:3-5)
D.真の使徒は盲目的に息子を駄目にし,主,教会,同労者よりも肉の子を厚遇し,主の証を堕落させるであろうか
X氏によって,対処されたりくびにされたりした同労者たちのほとんどすべては次男の邪悪な行いに耐えられなかったのである.次男をあがめたり,彼にへつらったりしようとしなかったものは,彼によって屈辱を受けたり,侮辱されたりしたばかりでなく,X氏によっても非難された.X氏は自分の息子を決して制限しようとはしなかったのである.
なぜX氏は自分の息子によって脅かされたり,その理不尽な不正な要求に屈してしまうような弱さを持っているのか,私たちには本当に理解できないのである.私たちは彼が目覚め,旧約のエリの道を歩むことがないことを望む.
E.働きのための経済的援助について,‘デイスター’の事業と19人による1人の全時間奉仕者の援助はニー兄弟によって与えられた幻だろうか
1.聖書は‘福音を宣べ伝えるものが,福音の働きから生活のささえを得る’(Iコリント 9:14)と言っているが,‘働きの再考’の中でニー兄弟は,‘福音を宣べ伝えるものが,福音の働きから生活のささえを得るとはどういうことであろうか.それは他の者たちからある一定の額を受けることや,教会から定期的な給料を得ることであろうか.否,パウロがこの言葉を語ったときには彼の観念には給料なるものはまったくなかったのである.彼の言わんとするところは神のために労するものは他の聖徒から捧げ物を受けることができる,ということなのである.これらの捧げ物は定期的でなく,一定の決まった額の物でなく,義務からの物でも強制からの物でもない.それは神の働き人の生活の必要に対する神によって動かされた聖徒たちの心からの物である.
明らかに神の働き人は人の手からそれらの物を受けるが,しかしそれは神に対する信頼の結果なのである.神は彼らの祈りに応えられ,聖徒をとおしてその必要を満たすのである.このような捧げ物を受けることが真の‘福音の働きから生活の支えを得る’という意味なのである.さらにニー兄弟は言う;‘記憶しなければならない一つのことは,諸書簡の中で必要のある聖徒にささげ,その地方の長老の必要を顧みることのいくつかの勧告はあるが,しかし働きのために彼らに金を提供するべきだという記述はどこにもないのである.’(第9章) 一方において私たちは同労者の必要を顧みる負担を主から受けるべきであるが(実際,私たちは過去このような顧みを実行してきたのであるが),しかし他方において,堕落を避けるためにニー兄弟の次の言葉に同意するのである;‘神に信頼することができないものは全時間奉仕者としての資格をもっていない’
2.使徒パウロとニー兄弟の態度は今日のX氏のそれとは絶対的に異なっている.彼は公に諸教会に捧げ物の要求を割当て,その次男は聖徒たちの財布を牛耳ることにより同労者たちを支配している.彼の間違った指導の結果は;
a.主の回復の証は堕落させられ,私たちは宗派の道へ後退した.
b.‘務めは諸教会のためにあって,諸教会が務めのためにあるのではない’という主の働きの原則が本末転倒させられた.これにより,‘ミニストリー・ステーションが諸教会をコントロールする’という事実に基づき,私たちは手に負えない宗派へと転落した.(いわゆる務めが聖霊と聖書の立場に置き代わったのである).
c.召されてない,人によって動機づけられた多くの全時間奉仕者や同労者が生み出され,しかも彼らは給料が保証されているのである.(もちろん彼らの中には真正な働き人もいるが,しかし大多数のものの動機は疑わしいのである).ある全時間奉仕者たちは自分への援助の額をその教会と取り引きした,ということを聞いたこともある.
d.多くの地方教会が経済的危機に陥った.通常の集会のための経費の問題もあった.しかし,いまだにミニストリー・オフィスは毎月請求を続け,多くの教会に負債をもたらしているのである.ミニストリー・オフィスがどのような方法でこれらの債務を弁済させるのか私たちには知るすべがない.たぶん彼らはそれらの教会に集会所を売ることを強制するか,あるいはその資産を乗っ取るかすることであろう.
e.経済的負担をもつ諸教会の長老たちは教会の集会においてもっと献金するように要請した.その結果,多くの人は疲れて白けてしまった.集会では命の供給が不足し,外面的負担のみがのしかかり,そして当然であるが,出席者がますます減少した.
(原注:X氏の計算は非論理的であり馬鹿げている.ある教会の19人の中には,多くの退職者,無職者,未亡人,学生,専業主婦,あるいは自分の必要にすら不足しているものが含まれているのである.適度の収入がありかつ霊的な負担をも持つものはそれほど多くはない.そのような人は全体のおそらく4分の1以下であろう.にもかかわらずX氏は‘19人で1人の全時間奉仕者を支えるべきだ’と叫んでいるのである.)
F.全世界の働きを担うためにミニストリー・オフィスを設立することはニー兄弟の幻であろうか
1.聖書から働き人はつながりをもっていたであろうことを見るが,しかし,‘働きの再考’でニー兄弟は,‘彼らのつながりは組織されているものではなく,霊的なつながりである’と言っている.それは,何の組織もなく,何の名称もなく,ただ小数の働き人が同格にいっしょに調和され,しかも固定した実体は何もない状態を意味しているのである.ニー兄弟は続ける;‘働き全体に携わるためにすべての使徒が共に結合されている,というような例は聖書の中にはまったくない.また働き人によって構成された中央集権化した組織も聖書にはない.それはローマカトリックの方法であり,聖書的方法ではない.聖書は全ての使徒が一つの組織に結合され,中央の権威に服し,働きをコントロールするといったことはまったく見せていない.パウロは同労者のグループをもっていたし,またペテロも自分の同労者をもっていたが,彼らは使徒たちの中の小数であり,すべての使徒たちが一つのグループに集められていたのではない.働き人が一緒に結び合わされる必要はあるが,しかし彼らは人為的な組織体によって結合されることを恐れなくてはならない.なぜなら,それは神の奉仕者が霊の導きを受けることからそらし,彼らを人の任務につかせ,人の奴隷にしてしまうからである(第7章).
2.‘ミニストリー・ステーション’なるものを聖書に発見できるだろうか.神の働き人よ,あなたがたは聖霊の導きのもとで自由に働くことができることを確信できるだろうか? 誰が自分の良心から自分はX氏の導きのもとにいないと大胆に証しできるだろうか? X氏の次男のために困難に出会ったことのない人がいるだろうか? 真に召された者が公に恥を受け,そうでないものが彼らを迫害している事実は,ミニストリー・ステーションが中央集権化した組織であることを証明していないだろうか?
G.どの時代にもただ一人の霊的指導者だけがいるのだろうか
1.X氏はしばしば使徒行伝1−12章をひいて,その時代ペテロはただ一人の指導者だったが,12章以降では彼の務めは終わった,と述べている.これが12章以降ではただパウロの務めだけが記録されている理由であるという.13章からはパウロだけがその時代のただ一人の指導者であった,という.そして彼のメッセージを通してX氏は自分をただ一人の指導者の後継者であるように自分を主張するのである.自分がこの時代のパウロであり,主をむかえるための最後で唯一の執事である,と言う.実際彼は他の同労者の分と機能を脇へ追いやっている.
a.彼は使徒パウロを新約の務めの建築家であると言い,そして自らをこの時代の務めの‘唯一の指導者’であると表現する.彼だけが主の最新の動きにしたがって,設計図と指示を与えることができるのである.彼はまた,自分は軍隊の総指令官であると言う.彼は他の意見を決して容赦しない.あなたがもし他の意見をもつならば,彼はあなたを罰するであろう.
b.彼は全世界の地方教会を設立するすべての権利を自分にのみ帰属させる.彼は他人の働きを無視する.彼は自分の計画にしたがって同労者を移動させる.彼は‘もし誰かが私を法王と呼んでもかまわない’とさえ豪語している.
2.旧約時代にはキリストご自身はまだ地上におられなかった.したがって,モーセ,ヨシュア,ダビデ,等...がキリストを予表した.彼らはその時代の権威の代表者であり,唯一の指導者であった.
しかし新約においてはキリストがすでにきている.主は私たちに,ただ一人の先生(主ご自身)がおり,私たちは皆兄弟であると言っている.ニー兄弟は言っている;‘私たちは聖霊が地上におけるキリストの遂行者であることを知るべきである.今日主には他のやり手は必要ない.私たちの問題点は私たちをコントロールしてくれるより高い地位にあり,ただ彼をとおしてのみ神の御心を理解することができるような人を持ちたがることである.’
X氏が使徒行伝12章以降においてペテロの務めが終わり,パウロに置き代わったということは根拠のない聖書の曲解である.15章においてはペテロが真理を主張していることを見ることができる.ペテロの諸書簡は使徒行伝28章以降に書かれたのである.その2書簡はきわめて重要である.使徒ペテロはパウロよりもいく年か前に殉教したが,使徒ヨハネは新約の務めの中心的メッセージから離れはしなかった.さらに初期の12使徒(使徒ヨハネも含む)のうちのだれかが使徒パウロの指導に従った事実も見ることができない.
a.教会を建てあげるためのすべての計画は世界の基が置かれる前からキリストによって設計されていたと聖書は言っている(筬言8:22-31;エペソ1:10;3:9).使徒たち(パウロやペテロも含む)が完成しなくてはならないことは何も残されていない.彼らは単に‘賢い建築師’(Iコリント 3:10)であるにすぎない.X氏が誇るように設計図に何か補足を加える余地などないのである.そう言うことは神に対する冒涜であるばかりでなく,使徒パウロとニー兄弟に対する侮辱でもある.
b.エペソ 4:11-12 は言っている;‘彼は(主は)何人かの使徒たちを務めの働きへと聖徒たちを完成するため,キリストの体を建てあげるために与えた’ニー兄弟もまた述べている;‘各人は自分のそれぞれの務めをもっている.神は各時代に違った証人をもち,そして彼らに時にかなった証をさせるために特別の新しい光を与える.’
3.私たちが知る限りにおいて,神は多くの忠実な使徒たちを私たちの中から,ヨーロッパ,南アメリカ,日本,東南アジア,台湾,合衆国,そしてカナダへ送った.そして彼らはたくさんの教会を設立した.X氏が中国大陸から台湾に逃げてくる以前にさえ,台北にある教会はすでに普通の働き人たちによって設立されていたのである.
ほとんどの台湾の諸教会は普通の聖徒たちによって始まったのであって,どれ一つとして単にX氏の労苦によるものではないのである.状況は他の地方でも同様であって,例えば,B兄弟はヨーロッパで労し,C,Y,そしてH兄弟たちは日本で働いていたのである.T兄弟ともう一人の使徒兄弟はX氏によって,典型的な‘古さ’を持っているとして公の場で侮辱されたのであるが,その彼らがブラジルの諸教会を建てたのである.
合衆国においてさえ,X氏が来る遥か以前に主の回復の証はニー兄弟の書物の翻訳によってすでにもたらされていたのである.主は聖徒たちの間ですばらしい開始をしたのである.パウロは言っている;‘限度を越えて他人の労苦をもって誇らず’(Uコリント 10:15)しかし,X氏は他人の労苦の実を盗み,自分が合衆国にきた時をもってアメリカにおける回復の開始だとしているのである.パウロはコリント人に語っている;‘他の人々に対して私は使徒でないにしても,たしかにあなたがたに対してはそうなのです.あなたがたは,主にあって,私が使徒であることの証印です.’(Iコリント 9:2)
もしある地方に住むX氏が使徒であるとみなされるのなら,他の地方へ教会を設立するために主によってつかわされた同労者も確かに使徒なのである.ところがそういう本当の使徒たちがX氏とその息子の会社の犠牲になったのである.一人また一人と,‘古さ’なる口実のもとで彼らは首をきられ,その結果,今日のおそるべき‘法王’の状況が出現するに至ったのである.
H.組織改革とは何か,ニューウエイとは何か
1.‘働きの再考’においてニー兄弟は,‘神のわざにおいては彼は人が考える何の余地も与えない.私たち人間は愚かな召使を雇うことを心配するが,神は余りに有能な召使を使うことを心配する.神は人がただ彼に従うことと,彼に聞くこととを要求するのである.神は人の助言者は必要はない.パウロは“誰が神に教えたか”と言っている.人は助言者になりたがるが,神はそれを好まない.神はすべてのわざを整えている.私たちが考える何の余地も残されていないのである.’
2.しかし今日私たちの中に神の助言者になりたがっている者がある.彼は金を得るために多くの新しい方法を発明し,それらの新しい方法は彼の次男に権力を伝えるのに一役かっているのである.
a.合衆国において近年主の回復はなぜ停滞しているのであろうか.それは次のような原因による;すなわち,‘デイスター’,‘M氏の台頭’,‘次男の略奪’,‘X氏のたかぶりと彼が過剰に批判したキリスト教界からの反撃’である.私たちの必要は上記の原因を取り扱うことである.X氏は他の同労者たちの‘古さ’を非難すべきではない.彼は自らの問題点を覆い隠すために,宗派の過激なグループから,拡大するための方法を学び,そしてそれを‘ニューウエイ’と称したのである.さらには,自分の若い追従者たちを引き上げ,また諸地方教会の上にミニストリー・オフィスの力を拡大するために,彼は‘組織変革’なるものを始め,すべての年長の同労者たちや長老たちを追い払ったのである.いわゆる‘ニューウエイ’や‘組織改革’は彼にとって自分の邪悪な思惑を実行するための隠れ蓑なのである.
b.私たちは何をもって‘ニュー’とみなすべきだろうか.それはわたしたちが聖書には見いだせない様なものであろうか.それは新しいデザインのブランドをつくるための神の助言者であろうか.X氏は人の魂をかきたてる名人である.彼は自分の言っていることを何か特別のものにする新しい用語を作ることを好む.実際,いわゆる‘ニューウエイ’なるものの内容を調べてみると,聖書の中でも,私たちの教会生活の実行においてもなんら目新しいものはないのである.例えば,‘ドアノックによる福音伝道’,‘人々をバプテスマする’,‘聖徒を訪問する’,‘家庭集会’,‘聖書を読み,歌い,主を楽しむためにすべての家族が集まる’,‘日常生活で主を経験し,集会では主を展覧するため機能する’,‘霊を訓練し,魂の救いを経験する’,‘献金し,全時間奉仕者の必要を顧みる’等...といったことである.
c.もし最近の動きの中で何か新しいものを拾うとしたら,次の事柄を読んで欲しい;すなわち,‘年長の同労者や長老をくびにする’,‘1,2,3 と上昇し,4,5,6 と下降する’,‘年長の聖徒,若い長老’,‘19人で1人の全時間奉仕者を支える’,‘ミニストリー・ステーション’,‘唯一最後の執事’,‘神の助言者になる’,‘X氏を賛美する歌を書く’,‘集会への出席を好まない者は同労者のお荷物’,‘教会の王’,‘息子への権威の継承’,‘ドアノックでは制服を着る’,‘ドアノックに出る前に私たちの文化的背景を対処するためいすの上で叫ぶ’,‘右から左へドアノックをする’,‘福音を伝えるときは人生の奥義だけを使う(それは50kで売られ次男をリッチにする)’,‘何の質問も説明もなく15分で1人をバプテスマする’,‘家庭集会では生命課程のみを読む’,‘国際電話はX氏のメッセージの実際を伝える(このことはX氏を極みまでよろこばせた’,‘50jを訓練のために献金する’,‘麻薬中毒者のごとく集会で機能する’,‘10人バプテスマするごとに金星をひとつ’,‘ドアノックは神の予定を変更する機会を与える’,‘全時間奉仕者の訓練の卒業式’,等...である.たしかにこれらのものは‘ニュー’であるが,宗派の中でも見いだされる.多くの新しい用語が古い用語に置き代わった.しかし,そのような‘ニューウエイ’は私たちには必要ない! もし私たちのこの態度が間違っているならば,ニー兄弟の言葉を借りよう:‘もしこれが今日私たちの過ちであるならば,私たちはこれらの“過ち”を永久に保持するであろう!主が私たちの“過ち”をかの日まで保存してくださるように’
I.X氏は‘私のやり方に従わないことは私を受け入れないことを意味する.ならば持っている私のメッセージや本を焼き捨てるべきである’と言うが,これは正しいだろうか
聖書は言う:‘そのとき,イエスは群衆と弟子たちに話をして,こう言われた,“律法学者,パリサイたちは,モーセの座を占めています.ですから,彼らがあなたがたに言うことはみな,行いなさい,守りなさい.けれども,彼らの行いをまねてはいけません.彼らは言うことは言うが,実行しないからです.また,彼らは重い荷をくくって,人の肩に乗せ,自分はそれに指一本さわろうとはしません.’(マタイ 23:1-4)
律法学者とパリサイ人がモーセの座に座っているとは,彼らは律法の書,すなわち旧約聖書にしたがって話しているという意味である.彼らが神の言葉を語る限りは彼らは真理である.真理の本質は語り手の状態によって変わりはしない.よって私たちは誰が語り手であろうとそれらに注意すべきである.語り手の行動がその言うことに合致していないので,主は私たちに彼らの行いに従うなと語ったのである.
同じように,もしX氏のメッセージが聖書に基づくのならば,私たちはそれらを拒絶する何の理由もない.なぜなら,私たちが受けるものは神の言葉であって,人の思想ではないからである.ローマカトリックによって書かれた何冊かの霊的書物を読んだこともある.例えば,マダム・ガイオンによる‘没薬の香り’である.しかし私たちはローマカトリックの組織や方法を受け入れてはいない.私たちはマルチン・ルターの‘信仰による義認’の啓示は受け入れるが,しかしルターイズムは拒絶する.ブラザレンの書物から多くの助けを得たが,しかし私たちは決して‘ブラザレン’にはならない.ただ書物を読んだだけであり,それらを燃やそうとは思わない.X氏のメッセージはかつての聖徒たち,特にニー兄弟,の肩に乗ったことの結果である.それにX氏の本を買うには高くついている.それらを燃やすべき理由は何もない.
X氏の実行や方法は自分のメッセージとまったく矛盾している.ちょうど古代の律法学者やパリサイ人のようである.私たちは彼らの長所は受け入れるが,短所は,特にその行い,は受け入れない.もし私たちがX氏の言葉と行いを両方受け入れるならば,それは私たちが彼を偶像として礼拝し,私たちの存在が別の宗派に陥ることを意味するのである.それは私たちの神に反する罪である.
結 語
今日私たちは主の回復において数々の疑問をもっている.私たちが力強く前進するためにはこれらの疑問を明確にしなくてはならない.筆者の理解によれば,ほとんどの初期の同労者はX氏の最近の実行に同意していない.そのことは彼以外のだれも天的な幻を見ることができないことを意味するのであろうか.私たちが要求することはこれらの疑問を明確にすることであり,それは私たちを前進させることができるのである.私たちは善悪によって事を裁こうとは思わない.かの日には私たちすべてはキリストの裁きの座の前に立つのである.主だけが私たちの判事である.今日私たちは,汚れていない良心を神に対しても,人に対しても,そして私たち自身に対しても保持していたいのである.
主の回復にある親愛なる兄弟姉妹たちよ,どうかこのパンフレットを色眼鏡で読まないで欲しい.純粋な心で読んで欲しい.聖書の純粋な御言葉と照らし合わせて欲しい.あなたがこの書の中に含まれているにしても,単に第三者であるにしても,もし良心に平安があるならばこの内容は忘れてよい.しかしながら,この書によって良心がとがめられるならば,それは主があなたをこの書を通じて諌めているのである.どうぞ主にもどり,すべての間違った行いを対処して欲しい.それは主の回復の証を守るための私たちすべての義務である.
財政的な不審点については,ミニストリー・オフィスが公認会計士によって詳細な会計報告を提出することを希望する.さもなければIRS(日本の国税局に相当する機関)あるいはFRANCHISE TAX BOARD が会計状況を査察することになるであろう.
このパンフレットの内容はただ主の回復にある親愛なる人々へのものである.主の回復の証しが損なわれないために,外部者には見せないで欲しい.主の回復にある他の人々に配布するために,これのコピーをとり,配布することは自由である.主があなたがたすべてとともにありますように.アーメン.
1988年1月29日
真理の番人の天の声