ウイットネス・リー語録
−神の究極の奥義「人が神になる」−
ウイットネス・リーの晩年(90年代)の言葉("啓示")を紹介します。神の最高にして究極の目的が「人が神になることである」と明快に説いております。初期のうちからすでに「教会が神化する」という"啓示"が見られていたが、特に89年の分裂以降、イエスマンばかりが残ったために、その主張が露骨となった。しかしながら"God begets gods."となると、ついに来るところまで来たという印象すらあります。ここで指摘しておくべきは「あなたがたは神のようになる」と最初に口にした存在は、創世記3:5におけるヘビ=サタンでした。サタンは自分が神になりたかったのですが、それを阻止され、以後彼のすべての誘惑の動機はここにあり続けるのです。なお、ここの文章は、私による英語版からの直接訳ですので、日本福音書房から出版されているものとは用語などが一部異なることがあります。
1.新約聖書においては神は命としてのご自分によって人を再生するために来られました。ヨハネ1:12は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子となる特権をお与えになった」と言います。私達が神の子供たちとなったとき、私達は神の命と性質を持ちました。山羊は山羊を産みますし、牛は牛を産みますから、確かに神(God)は神々(gods)を産むのです。もし牛が牛を産み、山羊が山羊を産むのに、神が人を産むのであれば、これは明らかに何かおかしなことです。産み出されたものは産み出したものと同一でなくてはなりません。牛がロバを産むとか、山羊が犬を産むとか言うようなことはあり得ません。神の心の願いは私達を神ご自身と同じ存在とすること、それは私達が内側の形や外側の姿ばかりでなく、神の命と性質において神と等しくされることなのです。私達再生された神の民は神の命を持っており、また神の性質も持っています。これはきわめて尊いことです。
2.人の創造における神の目的は、単に善良な人を得ることではなく、それをはるかに越えて、神-人(God-man)、すなわち神の命と性質とを持ち、まさに神のような存在を得ることです。・・・しかし神の願いは人が単に善良になることではなく、さらにまさって神-人、すなわち神とまったく同じ存在になることです。・・・おお、再創造の目的は私たちが神の命を持ち、神と同じ存在となることなのです。
3.神の命は神の内容そのものであり、その内には神の豊富が隠されており、神ご自身のご性質が含まれており、したがって、私たちが神の命を得た時、私たちは神の豊富を得たのであり(コロサイ2:9-10)、神のご性質を得たのです(2ぺテロ1:3-4)。ご自身にあって神が所有されるすべてと神の全御存在はこの神の命のうちにあるので、私たちがこの命を得た時に、私たちは神たる方の存在とご自身のすべてを得たのです。・・・兄弟姉妹よ、私たちの内には神の命があるので、神の内にあるすべての能力と機能も私たちの内にあることを理解しましたか。神の命が私たちの内にあるので、私たちは神の神たる存在になることができ、神がなすことをなし得るのです。・・・これは神が愛するように私たちも愛し、神が義であられるように私たちも義であることを意味します。このようにして私たちは神のようになることができ,神を生かし出すことができるのです。
4.キリスト教の伝統的理解とは、神は私たちが救われた存在となり、善良となり,霊的になり、聖となることを願われるということであり、そこには神が私たちが神-人となることを願われるという概念が欠落しております。神が肉となり、地上に来られた時、彼は神であり人でありました。不思議な神-人,神性と人性を持たれた方であったのです。私たちに関して言えば、私たちは神によって創られたばかりでなく、神が私たちの内に誕生され、私たちはみな神の命と性質を持ち、私たちは神の子供たちなのです(2ぺテロ1:4)。したがって神から生まれた者として、私たちはみな神-人(複数形)なのです。私の負担(重荷)は、あなたがたに神のエコノミーと御計画は、ご自身を人とされ、私たち神の被造物を"神"とすること、それは神が"人化された (man-ized)"ように、私たちが"神化 (God-ized)"されることであることを明確に示すことにあります。究極的には、神と私たち、私たちと神は、すべて神−人になります。・・・神が私たちを創造された時には、ご自身の形と姿に従って創造されました。私たちはちょうど神の姿をもった写真のような存在であったのですが、命は持たなかったのです。私たちが再生された後、この写真は"現実の"パースンとされ、神の命と性質を持ち、神と同じ存在となったのです。彼は神が"人化"された存在であり、私たちは人が"神化"された存在です。究極的に、二つの存在は一つとなり,共に神-人(複数形)となるのです。これが聖書の神聖な啓示です。
5.三一の神の経綸はただ一つのゴールを持ちます。それは私たちを変化させ、新陳代謝的に神の神聖な要素によって私たちを造りかえることです。このようにして、私たちは単に人性を持つのみでなく、神性をも同時に持つのです.私たちは今や、神-人です。人性と神性を兼ね備えた一人のパーソンであり、人の性質を神の性質を持つ存在なのです。私たちは神聖な人類なのです。
6.ある者たちは言うであろう、「一体聖書のどの書の、何章の、どの節に、この素晴らしい用語である神-人を見出し得るか?」と。答えはきわめて単純です。聖書の中に三一の神という用語は見出し得ませんが、すべての聖書学者は全聖書が三一の神を啓示していることに賛成するでしょう。同じ原則によって、聖書の中に神−人という用語は見出し得なくても、神-人の実際性、現実性は聖書に存在するのです。当初聖書は神-人のみを語っていますが、今日、神-人(複数形)になったのです。神-人はイエスであり、神の受肉された存在でした。そのような存在として彼は神-人でした。さらには彼は一つのモデル、あるいは全世界の親愛なる聖徒を包含した神-人(複数形)を産出するための原型としての神-人でした(ローマ1:3-4;8:29)。国籍、性別、老弱を問わず、私たちは自分たちが神-人(複数形)であることを信じなくてはなりません。私たちは神-人(複数形)であり、私たち一人一人は神-人なのです。
7.神から生まれた存在として,私たち神-人(複数形)は単に神聖な命を持つだけでなく,神聖な性質も持っています。神に感謝します。聖書の66巻において、一つの節があります−2ぺテロ1:4、すなわち私たちは神聖な性質に与るものであり、それは神の御性質です。そのような節には印をつけて、いつでも引用できるようにすべきです。私たちはカメではありません。私たちはカメの性質を持っていないからです。私たちは人です。私たちは人の性質を持つからです。しかし私たちはまた神から生まれました。私たちは神の息子たちであり子供たちです。よって、私たちは神の性質を持っています。私たちが神の御性質を持つのであれば,私たちは神ではないでしょうか?実際,私たちはその命と性質において神なのです。しかし神格においてではありません。
8.私たちは神の命を持ち、神の御性質を所有していることを知る必要があります。神聖な命が人の命と混ざり合わされている事実が存在します。そこで私たちは人間的命を生きるのみでなく、私たちの人の命と混ざり合わされた神の命を生きる必要があります。
9.このカンファレンスにおいて私は、徹底的に、聖書におけるもっとも比類なき、高尚にして深遠な、もっとも神秘的で、もっとも栄光な課題について焦点をおいて語ります。それは人に対する神のもっとも高い目的です。神は人に対して目的を持っておられます。それは明確に聖書に啓示されています。聖書は神に関する書物です。特に神と人との関りに関する書物です。人との関りにおいて神は心の願いと目的をもたれることを見ます。それは神はご自身を人とされ、私たちを神とすることです。それは神と人の両者を同一にするためです。神は神ですが、神はご自身を人となされ、人の性質において人の人生を地上で送られました。他方において、人は人ですが、神は人をご自身と同じ存在−神の命と御性質とまったく同じ種類の同じ姿を持つ存在とすることを願われます。しかし私たちは神格を共有することはありません。このようにして、神の属性は私たちの人間の徳となり、神の栄光のイメージは私たちを通して表現され、生かし出されるのです。ついには、神と人は宇宙における夫婦となります。このカップルは人のようにも見えますが、しかし彼らは現実には神なのです。これは真に最高の神秘です。これこそ神の人に対する最高の究極の目的です。
10.このカンファレンスでの負担(重荷)はきわめて奥義的です。特に最重要点は神が人となり、人が神になる事です。これは人や天使によって知られることの無かったエコノミーであり、きわめて高く、非常に奥義的であり、あまりに神秘的であり、私たちはこのような事が宇宙の中で生じ得たことを信じることさえできないのです。私は真摯にこのカンファレンスに参加しているすべての兄弟姉妹がこの偉大なビジョンを見ることができることを願います。
11.兄弟姉妹よ、あなたがたがすべてこの事を見て祝福されるように。これは究極的な祝福です。主があなたがたと私を宗教、哲学、人間的倫理から救い出して下さり、神が人となり、人が神となるという、この大いなるビジョンの中へと導き入れて下さることを願います。
【文 献】
1 Witness Lee, "The Stream", Volume 16, Number 1, June, p.4, LSM, 1996
2 Witness Lee, The Knowledge of Life, 2nd ed. p.25, LSM, 1988
3 ibid, pp30-31
4 Witness Lee, A Deeper Study of the Divine Dispensing, p.75, LSM, 1990
5 Witness Lee, The Economy and Dispensing of God, p.75, LSM, 1990
6 Witness Lee, The God-men, p.10, LSM, 1995
7 ibid, pp.12-13
8 ibid, p.14
9 Witness Lee, The Dispensing, Transformation, and Building of the Processed Divine Trinity in the Believers, p.9, LSM, 1995
10 ibid, p.37
11 ibid, pp.38-39
【解 説】
1.ウイットネス・リーの主張の問題点:
@ウイットネス・リーはここで頻繁に"性質 (nature)"という単語を用いている。「神の命を得て、神の性質を有したから、神と混ざり合って、私たちは神化する」というわけであるが、ここで性質と本質(あるいは存在論的実質)の混同がなされている。例えば、彼の例で言うと、私たちはカメの"性質"を有していないからカメではないとするが、一方私たちは自己保存欲求と自己再生産欲求を本能的に有するという"性質"をカメと共有しているがゆえに、私たちとカメは共に生物としての本質をも共有している。しかし存在論的に私たちは爬虫類であるカメとは明確に異なっている種なのである。すなわち「性質を共有すること」と「本質が同一である」ということは明確に異なった次元の話であるにもかかわらず、リーはこのレベルを混同しているのである。
Aこの混同は結局、神-人・イエスにあって、神性と人性が混ざり合っているとすることから生じる。イエスにおいて、この2性は決して混ざり合ってなどはいない。神の第二格位の子なる神が、ある時点で付加的に人間性を取ったのであって、この神-人という存在様式はイエスにおいてユニークなものであって,私たちが神の永遠の命を得て、キリストの性質に与って、内にキリストが形作られたとしても、私たちが神になることはない。神は私たちの内に住まわれるが、私たちが神と混ざり合って、イエスと同様の神-人として、たとえ神格を持たないという留保を設けたとしても、存在論的に神化することなどはあり得ない。それはユニークな神-人である神の御子イエスに対する冒涜である。そもそも神格を持たないのであれば、いかにして、神格の三格位である父・子・聖霊と共に教会が四位一体となれるのであろうか?
2.ウイットネス・リーの精神病理上の問題点:
これについて露骨に論じると、相手は誹謗中傷とか名誉毀損とかの訴えをするリスクがあるので、あくまでも一般論を展開する。すなわち、パラノイアとは妄想を主体とした精神疾患の一種であり、その妄想が精神分裂病などと異なり、きわめて知的論理的に、強固にかつ体系的に構成されているために、その病的要素を見出すことが困難である。またその相手を論理的に追い詰めて、その体系をくつがえすことはきわめて困難であり、しばしば逆にその確信を強めてしまうことになる。一般に、いわゆる多くの"教祖"と称される人物のパーソナリティーの基底には、この精神病理が見いだされることが多い。またその影響下にある人々も、この精神病理を共有しており、このような人物との同一視によって、"教祖"が批判されると自分が批判されたかのような印象をもち、一転攻撃に回る傾向があるため、対話が困難となる。詳しくは私の論文を参照のこと。私が最も不思議に思うのは、もっとも「神と混ざり合って、聖化され、神化されている」はずのウイットネス・リーの晩年の様はどうであったかということである。あの様を見るならば、召会の人々はとても希望を持ち得ない。これは一部の指導者、吉○、広○氏などはよくよく知っておられるはずのことである。