カルトにおける病理的自我の
防衛機制
by
L.O.K.
(Ph.D. Dr. Med Sci)
私の召命の一つにクリスチャン・カウンセリングがあります。そしてその対象者はもちろん普通のクリスチャンでもありますが、もっとも援助を必要とするのはカルトを経験した後、深刻な状態に陥っている人々です。いわゆるPost Cultic Mental DisorderあるいはPost Cultic Traumatic Syndrome(カルト的経験後の精神的後遺症)と言われる精神状態です(注)。カルトに関わっている人々を助け出したり、そのような状態にある人々を援助するための第一歩は、彼ら自身が自分の属する団体やその指導者に関する真実を知ることにありますが、この段階が実はもっとも困難です。
(注)私自身の知るケースでも自殺企図2例、精神病院へ強制保護入院され、主治医からの要請で私自身がカウンセリングをした1例、現在も精神科通院中で私もカウンセリング継続中の1例があります。PCTSはきわめて深刻な問題なのです。
第一の理由は、その団体の真実を暴くことに対する猛烈な攻撃があります。今回、私自身、あるカルトとの関りの中で、私の軽率な行動が種になり、そのカルト(注1)の「最高責任者」から事実の捏造と誹謗中傷で、私の対応如何では告訴するとの通告書を弁護士を通して受け取りました。わざわざ私の大学に私の所在を確認した後、あぶない内容の書簡を大学に送ってよこし、また電話でも「絶対に赦さない。大学の理事長に言いつけて、あなたはクビにされ、刑務所に入って、前科者になるのだ」との脅し(?)を受けています(注2)。今回の事態は相手方のパラノイド的恐れによるものですが、もし私の事実の捏造であるならば、なぜこれほどに恐れる必要があるのでしょうか。実は私が相手の病巣部に触れてしまったからです。このような応答によって逆にその問題の真実性が証明されています。またこのような行動自体がそのカルト性を証明します。
(注1)「○○に在る教会」という名称を持ち、ウイットネス・リーの教えに従う人々。総称的に「地方教会(召会)」と自らを称しており、自分たちこそ「真理の回復」、地上で「唯一の真の教会」と宣言しています。「人と神が混ざり合って教会が神になる」などの異端的教えを有しております。専門的に言うと、現在のところは「ノンクリスチャン・カルト」ではなく、「クリスチャン・カルト」です(Walter Martin教授による)。
(注2)なお、通告書に対しては、友人のクリスチャンの弁護士に証人となっていただき、相手のプライバシーを暴いた部分は謝罪をし、相手の妄想部分については否定をし、事実関係について争う場合は、どのような法的手段でもお取り下さいとの回答書を送りました。その後何の訴えもなされておりません。
第二には自分が信じている団体についての真実を知る際、本人の受容能力の容量を越えることができないことです。例えば自分の親が実は犯罪者であったことを知るに至る場合、どのような精神的葛藤を経ることでしょう。本人はカルトにおいて疑問や苦悩を経験しつつも、マインドコントロールなどによって内的に構成されたその団体や指導者のイメージ(モデル)が壊されることを恐れるのです(注)。そこで得た「聖書的な教え」(よくカルトの人々は"教え"ではなく"啓示"であると言いますが)と、そこでの(霊的)経験を「自己」のアイデンティティーの中核に据え、それを「自己」の存在の担保としているからです。それを崩されることは、まさに「自己」が崩壊することになるわけです。実はその「自己」はその人の本来の自己ではなく、そのカルトにあって「"古い人"を否定する」などの教えによって本来の自己を崩した(正確には抑圧した)後に、人為的に本来の自己の外側にインプラントされた「自己」なのですが、本人はそのことに気がついておりません。彼/彼女自身は「自分は新しい"自己"に生きている」と思いこんでいるわけです。
(注)マインドコントロールは、それをされている本人は気がつきません。気がつかないうちにある種の価値観とか判断基準を刷り込まれてしまうのです。むしろ自分ではそれを取るのは自分の自由意志であると思い込んでいます。これに対して洗脳は、暴力的な手段によって、強制的にその思想を改造したり、その行動を制御することです。されている本人はもちろんそのことに気がついており、当初は抵抗しても、ついに対抗し得なくなり、相手に屈するに至るのです。
人は生まれてこの方、この世にあってサバイバル競争に明け暮れてきました。このサバイバル競争を勝ち抜くためには、自己の知力・能力・魅力・権力・経済力・支配力等々を高め、それをフルに発揮することが大切です、と機会あるごとに教えられてきました。それを私たちは無意識のうちに受け入れ、まさに自分の血と肉とにしてきたのです。ですから何か事があるならば、ほとんど条件反射的にそのような価値観に基づいた判断が脳裏に駆け巡り、それにそった行動パターンへと駆り立てられるのです。このような「神を知らない間に構成された自己のうちの条件づけ」を聖書は「肉(flesh)」と呼びます。しばしば人はこの「肉」を自己と同一視して、自分はこのような人間であると思い込んでおります。「私はついこんなことを思ったり、したりする。駄目な奴だなあ」と「自分」を自分で評価しますが、その「自分」を評価している自分とは何者なのでしょう。パウロも「私は自分でしたいことをせず、したくないことをしている。何とみじめな人間だろう」と叫んでいます。この世をサバイバルする間に得た「自己」を評価する本来の自己が存在するのです。
そしてカルトはこのような葛藤を経験している人々にとても魅力的に映ります。なぜなら、自己が評価できない「自己」を、その「教え」あるいは「啓示」によって、とても素晴らしい存在に変えてくれるように見えるからです。そのマニュアルに従うならば、神に受け入れられた素晴らしい「自己」を獲得し得るように思えるのです。ここで人はカルトとの出会いを体験します。すると面白いことには、カルトの構成員はある種の同一の価値観と行動パターンを有するために、同種の「臭い」を醸し出すようになります。その発言、振る舞い、装飾、嗜好などがみな同じようなものになるのです。私はかつて田園調布に住んでいたことがありますが(もちろん借家です!)、隣家が会社をやっていました。ところがその社員が全員同じ服装格好で、みな同じ人のように整然と行動しておりました。何かの宗教的な結びつきによる会社と判断しましたが、一種の異様さを覚えました。
カルトでは「自己」に満足できない自己をもっている人に対して、強烈な個性をもついわゆる教祖の教えに従って、マインドコントロール(マニュピレーション)などの手段により、外側から人為的に新しい「自己」を彼/彼女の内にインプラントして、見かけ上の「自己」のアイデンティティーを確立するわけです。本人はそのカルトにおいて通用するある一定の行動価値規範(プロトコル)に従って、「自己」の価値観と行動をコントロールします。すると少なくともその団体の内部においては、お互いの受容と評価を勝ち取ることに成功し、「自己」のアイデンティティーが確立し担保されたかの錯覚を覚えるに至ります。そしてますますその「自己」を、そこのプロトコルに従った形で肥大化していきます。ここにカルトの結束がきわめて強固になる所以があります。
しかしそのような人為的な「自己」は、そのカルトの外にあってはきわめて不自然なものであり、先に述べたように、外部者にはある種の臭いを感じさせることになります。カルト内部にいる人は、いわばニンニク臭の満ちた環境にあり続けると、鼻が麻痺してその臭いを感じなくなるのと同様に、自分の醸し出している臭いに気がつかなくなります。エホバの証人にはそれなりの、統一教会の信者にもそれなりの、モルモン教の信者にもそれなりの、オウム信者にもそれなりの不自然な臭いがあります(注)。
(注)それぞれの人の個性によるそれぞれの"香り"があるのが正常です。パウロの文書とヨハネの文書は明らかに異なる"香り"があります。ところがカルトでは「キリストの再生産(コピー)」などの標語によって、個性を抑圧して、みんなが不自然な同じ"臭い"を醸し出すようになります。何人ものオウム信徒たちが麻原氏のマスクを被って同じ様で異様なデモをしていましたが、これはカルトの象徴的表現です。
さらにこのように不自然な形でインプラントされた「自己」、さらには互いの霊的共鳴にあって肥大化した「自我」は、当然に人工物であることによる、ある種の脆弱性を有しております。そこで彼らは外部者からの批判とか攻撃に対してきわめて敏感になります。その脆弱な「自己」を防衛するために、外部よりの情報を操作あるいは遮断し(特に批判的見解を)、自分たちのみで固まる傾向を強め、いざ「自己」の存立が危うくなりますと、一転理不尽な攻撃に回ります。オウム教団が一時、弁護士信者を使って訴訟を乱発しました。このような精神病理をパラノイド傾向と言います。これが進行しますと、自分たちは不当に迫害されているなどの、いわゆる被害妄想を呈するに至ります(注)。
(注)精神分析的には、自己のうちにある殺意とか憎悪を、自分の良心が受け入れることができない場合、自分の内のそれらの感情を相手に"投影"することがよくあります。自分がそれらの感情を有しているのではなく、相手が有しているとして、自己の良心をなだめるのです。このように自己の内の感情を幻影のごとくに相手の側に映し出して、それを恐れる精神病理がパラノイド状態です。かつてのソ連とアメリカの軍拡競争はまさにパラノイド的恐れによるものであったのです。
私のケースでも、相手方は、私が世界中の人に自分の悪口をメールで送っているとか、自分を殺すつもりか、などの主張をしております。典型的なパラノイド(被害妄想)状態にあります。ウイットネス・リーを含めてカルトの教祖は通常、自分こそ現代の預言者であり、神の代理人であるなどのパラノイヤ精神病質のパーソナリティー(誇大妄想的パーソナリティー)を有していますが、その「肥大化した自我」の再生産を信者も行っており、共に一体感を確立するとともにパラノイド傾向も強め、信者は教祖が批判されたり攻撃されると自分がそうされているかのような感覚を持つに至ります。このようにして外部者との対話、特に批判的見解を受け入れることが困難となり、彼ら自身においてますます閉鎖性を強めていきます(注)。
(注)カルトではよく指導者に逆らうと神に裁かれるとか、そこを出るならば、神に呪われるとかの「恐れによる縛り」が行われます。私が実際に耳にした例では、「個人的な弱さによる罪は赦されるが、"教会"(もちろんそのカルトにおける意味での)に対する罪は神の裁きを受けるから、"教会"に疑問を呈したり、批判することは危険である」などがあります。実際のケースですが、自分たちの反対者が山岳事故で亡くなると、それは神の裁きである、ハレルヤ、と叫ぶ人もいました。これはもちろんきわめてサタン的な言葉であり、イエスの十字架の贖いの有効性を否定するものです。この「恐れによる縛り」がカルト経験者の離脱を困難にし、仮に離脱してもその後の歩みにまで影響して、実際にあまり良好でない状態に陥るケースが多いのです。それは神による裁きではなく、サタンの攻撃に無防備にさらされた結果です。
以前にも述べたように、カルトの問題には霊的レベルにおける問題と、精神病理的レベルにおける問題、さらには社会経済的レベルの問題が錯綜して、様々の訳の分からない事件が多発するに至ります。これは例のオウム事件を見れば容易に分かります。そして彼らの「自己」の存立にとって脅威となる相手を告訴などの手段や、さらに究極的には殺人によって排除しようとするに至ります。今回の私の遭遇したケースもまさにこのカルト性の本質の典型的表現です。これまで私はこの団体を10年にわたって監視して来ましたが、そろそろその本質を彼らが自ら明らかにする段階に入ったものと考えています。
彼らは現段階では坂本弁護士を殺害するなどしたオウム真理教のような、暴力的な要素はありません。どちらかというと自らも標榜するように表面的には福音主義的であり、確かに本物の多数のクリスチャンもおりますが、内実はきわめて「エホバの証人」と似ている要素が多々あります。そしてその病巣部に触れると今回のような事態を引き起こします。米国ではカルト研究の第一人者であった故Walter Martin教授も、すでに70年代にその論文の中で警告を発しておりますが、それはまさに的中しつつあると言えます。そして私の手元に入手している中国語の複数の資料によりますと、中国の一部では、その団体の指導者であったウイットネス・リー(故人)を、神の小羊と宣言し、イエスに取って代わったキリストとして、その名を礼拝し、再臨を待ち望んでいるということです。
今後の彼らの行く末は十分なる監視が必要ですが、過去にも金によって敵対者を破産に追い込んで「勝訴」した経験から(注1)、このような訴訟による脅しをかけてきますので、こちらも慎重な対応をせざるを得ません。しかしサタンの本質は自己顕示欲にありますから、他のクリスチャンたちの知らない、自分たちのみが見い出した「真理」であるとして、「神が人になったのは人が神になるためである」などの教え("啓示")を誇示し、自分たちこそ唯一の真の教会であると宣言する彼ら自身の行為によって、その本質は自ずと明らかになるものと思います。終わりの時代、サタンの惑わしの霊の働きはきわめて巧妙です。つねに目を覚ましている必要を覚えます(注2)。
(注1)この裁判でウイットネス・リーを擁護するために証人として立った「カルト専門家」は、その後日本のオウム真理教を擁護し、同教団の負担で来日した事もある宗教学者であり、サイエントロジ-やエホバの証人を「新しい宗教運動」と評価しております。
(注2)カルトの構成員自身を断罪すべきではありません。彼らは偽りの霊によって欺かれているのです(1テモテ4:1)。糾弾されるべきはその背後に働く霊です(1ヨハネ4:1)。