リー派の長老たちの書簡#2
1989年4月10日
この文書はウイットネス・リーの問題点を指摘したジョン・インガルスらに対する、リー派の長老による批判を目的とした書簡である。特にジョン・インガルスらによる声明文[資料@、A]を念頭に置いた反論となっている。
1988年 8月28日のアナハイムにある教会の集会での発言者への公開書簡
親愛なるジョン・インガルス,ゴッドフリード・オトゥテヨ,アル・ノック兄弟へ:
1988年 8月28日の教会の集会において,あなたがたは“アナハイムの教会の立場”に関する16点を打ち出した.その発言内容は録音され文字にされ,それはコピーされ,そのコピーが多くの兄弟姉妹達に頻繁に匿名で郵送されている.このようなものの配布は,あなたがたはそれに責任を負うのであるが,アナハイムから遠く離れたある聖徒達といくつかの教会にとって妨げの原因となっている.この妨げの故と,この書における真理に反するいくつかの点の故と,あなたがたの16点は私たちのリー兄弟への暗黙的攻撃とみなせる故に,私たちはこのレポートを書いた.
あなたがたが理解しようとしまいと, 8月28日に起きたことは単にある地方の問題ではなく,体の問題である.すなわち,このことは他の教会に影響を及ぼし,地上におけるキリストの体全体に対してすら影響を与えている.兄弟達,私たちはこのコピーを読んだとき,あなたがたの発言によって嘆かされたのである.
特にリー兄弟に対して向けられたあてこすりと暗示によってである.そこで体の建造に負担を持つ他の教会の者たちとして,公開書簡の形で,あなたがたの16点に対するこの返答を提示しなければならないと感じる.
1.神の言葉に対するあなたがたの立場
神の言葉の私たちの間における再確認のジョン兄弟の発言には私たちは賛成できない.あたかも私たちの間において神の言葉がその最初の地位を失っているかのようだからである.ジョン兄弟が言うように,私たちが適切な神の言葉の立場から離れ,他の何かの基礎へさまよい出ているとは感じていない.私たちはその立場を聖句に常に置いている.そして私たちの現在の立場も実行も神の言葉に基礎づけられているという完全な確信を私たちは持っている.
過去数年間において教会がリー兄弟のミニストリーに加わったことが神の言葉からの逸脱である,というようなあてこすりにはまったく賛成できない.聖句を調べることにより,教会が見始め経験し始めたことは完全に聖書的であり,主の回復にきわめて有益であり,前進であるという確信を私たちは持っている.
主の回復にある私たちは書かれた神の言葉としての聖書を深くそして適切に常に尊重している.私たちは何か他の書物に神の言葉として聖書と同じ立場をいまだかつて与えたことはない.このことについては,私たちが聖書を尊重していることの宣言としてばかりでなく,リー兄弟がずっと維持し私たちの間で教えていることをあなたがたに思い出させるために,リー兄弟が言っていることを繰り返したい:
全聖書は神の言葉である(第2テモテ 3:16).聖書以外の他の言葉を神の言葉として取ってはならない;そうでないとあなたは異端に陥ることになる.聖書を離れてはあなたは何の確実な神の言葉を持つことはない.聖書にあることは何であろうと神の言葉であり,あなたは確信し信頼できるのである.(ライフ・メッセージ,メッセージ 24,p216)
2.教会に関するあなたがたの立場
教会に関するアナハイムの教会の立場は“一つのキリストの体の基礎”であると指摘している.そのような言明によって,あなたがたは各地方において表現されたユニークな普遍的なキリストの体の一を意味しているのだろうか? もしそうならば,そのような立場は主の回復にある全ての各地方の教会と共通である.このことに関するそれ以外の如何なる立場も,新約聖書に啓示され,すべての時を通じて主の回復によって維持されてきている立場からの重大な逸脱である.キリストの体の一の基礎に関する立場は,神の命じられ,新約聖書に啓示されている教会生活の実行に関係する多くの事柄を包括している.このような事柄の内,私たちは3点だけ述べたい.
第一に,その立場は私たちのゴールが組織としての人の団体を建てあげることでなく,むしろ神聖な有機体としての一つのユニークな普遍的なキリストの体を建てあげることを当然に伴う.もしある地方の教会が組織的方法を取り,神聖な有機的な方法を取らなかったならば,その教会において建てあげられたものは一つの体の有機的な本質に合致しないことになる.私たちは体の一の基礎に立つものであるから,神の言葉により啓示されたその実行をとるべきであり,それはキリストの体の有機的な本質に調和するのである.
第二に,体の一の基礎に立つことは体全体の感覚を伴うことであり,私たちの地方のそれのみではないのである.私たちの一は,あなたがたの“地方における一の基礎”という言い方が示唆するような,私たちが居る所の地方の一に関連する問題だけではなく,地上において各地方教会によって表現されたキリストの体全体の一なのである.私たちがもし真実に体の感覚があるならば,体に普遍的に損傷を与えるようないかなることも地方的になすべきではない.言い換えれば,私たちは体の感覚に注意を払い,地方的にした行動が他の教会にどのような影響を与えるかを考慮すべきなのである.あなたがたが8月28日になしたことはそのような配慮と考慮を著しく欠いていたと私たちは信じる.
第三に,もし私たちが組織としての団体としてでなく有機体としての体を建てあげることに注意を払い,単に自分の地方の教会の状況を思い,関心を持つのみでなく,体を思い,体の表現としての他の教会を十分配慮するならば,私たちは他の地方の教会とすばらしい交わりを持つべきである.あなたがたが 8月28日になしたことは地方的なことであって,諸教会間の交わりの霊への暴力であると私たちは信じる.
3.真の一に対するあなたがたの立場
あなたがたの真の一の議論において,あなたがたは巧妙にリー兄弟と彼のミニストリーを攻撃している.このことは次のような陳述によって示されている.“[真の一は]組織されるべきでなく,また教えられるものでもない;そして,それは強制されるものでもない”,“私たちはバベルを建てがちであり,..(バベルは肉における一であった)”,“..私たちの霊は如何なる分裂にも同意しない..”,“すべての分裂は罪,利己主義,あるいは野心;あるいは単に無知から生じるもので”,“霊的指導者は決して私たちを分裂させるべきでない”.これらの言葉には明らかにリー兄弟が霊的指導者として分裂の要因になり,彼と一つである者もまた分裂に巻き込まれているという示唆を含んでいる.
リー兄弟はいままで決して分裂の要因になったことなどはなく,また彼は個人的な利益を追求して何かをしたことなどもないと私たちは言いたい.それどころか,彼は真の有機的一を宣言し実行することにおいてリードを取ってきたのである.そしてその一はその霊の一であり,信仰と神の御子を知る全き一なのである.私たちは私たちの兄弟とキリスト・イエスにおいて一であり,彼と共に体を建てあげるために労していることを証したい.
さらに,あなたがたの一の教えは使徒達の教えとは違うことを指摘したい.新約聖書によれば,その霊の一は全ての真正な信者達によって維持されるべきであり,一方,信仰と神の御子を知る全き知識の一は私たちが到達すべき何かである.一に関する教えにおいては,聖書がしているように,私たちが勤勉に守るべきその霊の一と,私たちが到達すべき信仰と神の御子を知る全き知識の一を明確に区別することはきわめて重要である.
4.他のクリスチャンに対するあなたがたの立場
あなたがたは“私たちは過去において他のクリスチャンをあざけり見下げてきた”と言っている.他のクリスチャンをあざけり見下げる態度は他の諸地方教会においては一般的なものではない.あなたがたの言葉を使うと,他の諸教会の聖徒達が自分自身を“霊的エリートのようなもの”であるとか,あるいは他のクリスチャンをあざけり見下すことが私たちの実行である,というような如何なる暗示または示唆も私たちは拒絶するものである.
あなたがたの他のクリスチャンとの関係に関して言えば,あなたがたは“他の聖徒達をネガティブと呼ぶことを実行している”と言っている.あなたがたはただ一人のネガティブな者は悪魔であると主張している.そしてさらにネガティブと呼ばれてきている人たちは“単にあるとても真正な問題意識を持っていたのみである”とさえ言っている.この考えの含意するところは深刻であり,理解できないことである.何故ならば,彼らは真正な問題意識を持っているという口実のもとで,破壊的な発言をする行動様式の扉を開いたからである.あなたがたの教会の集会において,聖徒達が肉におり,そして問題意識を分け与えるという口実のもとで彼らが欲するところを語る許可を得たとき,何が起きたかをあなたがたはすでに見たではないか.
新約聖書においては“ネガティブ”という語句は使われていない.しかし聖書は不健康な不適切な発言については多く触れている(例えば,マタイ12:36-37;ローマ16:16-17;第2テモテ 2:14;テトス 1:10-11;3:10-11).“ネガティブ”という語句の使用については公に考慮がなされるべきであるが,しかし,新約聖書においては教会や聖徒達を損傷するある種の発言は拒絶されるべきであるということは明白である.愛の中で,知恵の中で,将来の予見の中で,そして純粋な動機と,霊とともに発言することと,真正な問題意識という口実のもとで,偽りと不和と死の言葉を発言することとの間には大きな違いがある.兄弟達,真正な問題意識を取り扱う適切な聖書的な人間的な方法があるのにあなたがたはそれを取らなかったのである(A Timely Words,リー兄弟著,41-44ページ参照).
5.私たちの召命に関するあなたがたの立場
私たちの信者としての召命に関する陳述については,私たち地方教会にある者達がキリストの体を建てあげること以外の他の召しに自らを置いているという示唆を拒絶する.私たちが体の建造から働きやミニストリーの建造へと逸脱しているということを否定する.あなたがたの言葉は,最近のリー兄弟の“ニューウェイ”についての務めが体を建てあげる適切な召命から離れ,むしろ彼自身の働きや務めを建てる企てである,ということを示している.私たちはまず第一にリー兄弟がなしていること,及び第二に聖書が啓示している適切なキリストの体の建造についてのあなたがたの理解が十分でないことから,このことを拒絶する.
リー兄弟の最近の務めは,主の回復にあるすべての聖徒達をキリストの体の建造するために,その構成要素として有機的な機能にもたらす目的がある.彼が家家で集まり,小組で集まり,地方の地域毎に集まること及び教会として集会することを熱心に勧めたことは,すべての聖徒達を機能させ,実際的な建造の働きへと彼らを実行的にもたらすことなのである.彼の務めは他人をキリストの体の建造の働きへともたらすために,教会に対して頭から与えられた一人の人のすぐれた機能の一つの例であると私たちは考える.
さらに,リー兄弟の務めは,私たちの周囲のこの世に関して主から与えられた責務に教会が応えるための一つの試みである.過去4年間の彼の分け与えを通して,聖書の標準によれば,私たちは使徒達すべてに対する私たちの責務に対して非常に怠慢であったということを私たちは確信する.彼の務めは,人類に対する主の負担と彼の体のメンバーに対する主の負担を負うために私たちのために備えられたものであると感じている.主はご自身のしもべリー兄弟を通して,すべてのメンバーの最高の益のためにかない,また罪人達が主の負担を最高に解放することができるための聖書的な方法を主は与えられたのである.主がこの地上で望まれていること,すなわちメンバーが十分に機能している体,そして堕落した罪人達を神の子供達とするために主と同労する十分な負担を持った教会を持つことを拒絶するつもりなのか? リー兄弟の務めまた私たちのそれに対する関心が,私たちの召しと,召命として歩むに値しないという示唆を私たちは聖徒として拒絶する.
6.私たちの目的に関するあなたがたの立場
あなたがたの分け与えにおいて,私たちの目標あるいは目的は主の証また彼の完全な表現となることであり,さらにあなたがたは進んで“私たちは不名誉な状態にあり,何の証もない.城壁は壊され,門は焼き尽くされている!”とまで言っている.これは主の回復の真実の状況を表現していない.それどころか私たちは強くなるため,豊かになるため,主の証を建てるために常に労苦しているのであり,この証が失われていると言うことを断じて否定したい.1988年11月27日,カリフォルニアのパサデナで持たれた多くの国々からの兄弟達の交わりは,それは“Further Light Concerning the Building Up of the Body of Christ”という本として出版されているが,主の証はいまだに私たちと共にあることを証明している.
さらにあなたがたは,私たちは働きや活動のためにここにいるのではないと言っている.あなたがたが感じていることを述べることにより,あなたがたは主の動きにおける私たちの働きが誤って導かれていると再び示唆したいかのように見える.私たちは単純に彼の証のためにここにいるとあなたがたは言っている.しかし彼の証となるためには,私たちは地上での主の働きにおいて彼と調和されなくてはならない.私たちの主ご自身は彼の務めを完成するために地上において働かれたではないのか? 彼は働いており,また彼の父もいまだに働いていると彼は言われたではないか(ヨハネ 5:17)? 彼はその御座において地上における彼の証で今日完全に満足しておられるのだろうか? 否! だから私たちは,求めておられるものを主が得られるために労苦し,またパウロがしたように苦闘さえしているのである(コロサイ書 1:29). 私たちがしているすべてのことは主の証のためであるべきであり,そして私たちのすべての活動は私たち自身からのものでなく,彼の中でのものであるべきなのである.私たちは労苦し,もがき,苦闘し,そして闘うつもりである;すべての聖徒がその機能をするようになり,神によって招かれているすべての罪人が彼にもたらされるために,私たちは活動的であり,動き,そして忙しくするであろう.“私が来るまで商売せよ”とは私たちが主から受けた責務である.
7.ミニストリーに関するあなたがたの立場
あなたがたの分け与えにおいて,新約の唯一の務めは何かということの簡単な説明が提出されている.このような簡単な説明では論点を十分扱うことはできない.むしろ新約の唯一の務めはこの簡単な説明ですむようなものでなく,もっと詳細な問題である.きわめて広い視野から,務めは確かにジョン兄弟が言うように“教会を産出するために神を彼の民の中へ分与すること”である.しかし務めとともに,そこにはこの分与を効果的ならしめるための神の定めた道がある.
あなたがた兄弟達はその広義の意味においてリー兄弟の務めの有益さを認めているように見える.それは教会を産出するために神をその民に分与するという意味においてである.ところがあなたがたの不賛成的な陳述によれば,あなたがたはこの務めの方法を拒絶している.あなたがたの分け与えにおいて,あなたがたは,私たちの立場は“働きあるいは務めを建てあげるべきでない”,“私たちは働きとか活動のためにここにいるのではない”,また“私たちは彼の証のためのみにここにいるのである”と言い;後になると,“多くの使徒達が,多くの賜のあるメンバーと共に,彼ら自身の働きや務めを建てあげるためでなく,キリストの体を建てあげるために教会に与えられた”とまで言っている.そのように言うことによってあなたがたは,リー兄弟の務めは単なる働きあるいは活動であって,それは自己追求的で自己を建てることであり,それは証を建てることの単一さから離れ,またそれは真の務め,すなわちキリストの体の建造の働きからはずれていることをほのめかしている.あなたがたは諸地方教会にいる私たちは主の証のためだけであり,働きとか活動のためにあるのではないと宣言している.そうすることにより,あなたがたは暗に務めが実行される道を否定し,諸教会のあいだにおける神の目的の実現を一つの霊的な夢にしてしまっている.どんな生産的努力も方法を持たなくてはならない.そして聖句の中の啓示から,神は務めを通して,幻だけでなく,一つの方法をも私たちに与えたことを見ることができる.あなたがたはリー兄弟の務めによって提示された方法を公然と非難し,そうすることにより,このニューウェイにおける彼の私たちへの指導力に疑いを投げかけたいかのように見える.しかし,あなたがたがそうすることは,長年にわたる主の労苦における豊かな結実に反対することになる.
あなたがたの発言において矛盾を見いだすことは容易である.もしリー兄弟の務めが自己追求的であり,自己完成的であるならば,もしそれが体の建造に反するものであるならば,もしそれが教会を主の証に似つかわしくないものにする企てならば,なぜ全ての聖徒を有機的機能へともたらすためにそれが成し遂げるために,そんなにも苦闘し,そんなにもそれに賭けることができるのか? すべての聖徒達に機能する方法を与え,すべての聖徒達に家で集会するように強く勧めることにより,私たちすべてが到達できる道がある.私たちはあなたがた兄弟達に,共に平和の中でこのゴールに向かって前進することを懇願したい.
8.使徒達に関するあなたがたの立場
使徒達について,あなたがたは“神の言葉によれば使徒達は常に複数形である..今日多くの使徒達がいる.... 彼らの多くの者達を挙げることができる”と言う.あなたがたは使徒達はつねに複数形であるという聖書的な事実を強調する.そうすることで,あなたがたはこれらの使徒達が同じ種類の人で,同一の立場を持っていることを仮定する.しかし,この仮定をすることにより新約聖書に啓示されている異なった種類の使徒達に関する真理を認識することに失敗している.
新約聖書は3種類の主な使徒達がいることを示す.第一に,主によって直接に任命された使徒達,及び主の啓示を通して直接に構成された者達である.前者にはペテロとかヨハネのような人を(使徒行伝 14:14;ローマ書 1:1 ;ガラテヤ 1:1 ;第1 テモテ 1:1),後者にはパウロとバルナバのような人を含む(使徒行伝 14:14;ローマ1:1;ガラテヤ1:1;第1テモテ1:1). 第二に,他の人によって完成された使徒達−アポロのような人達(第1コリント4:9a,6;使徒行伝 18:24-26)がいる.第三に,主が直接に任命した使徒達により生み出された使徒達−テモテ,シラス,そしておそらくテトスのような人たちがいる(第1テサロニケ2:6;1:1a;使徒行伝 15:40;テトス 1:5-9;第1テモテ3:1-7).第一種の使徒達は等しい立場に立ち他の人の指導の下にはいない.第二種の使徒達も第一種の使徒達と同じ立場に立っていたろう.しかしながら,第三種の使徒達は,彼らを生み出した人たちに導かれ,またその働きにおいて指示を受けていたのである.彼らの使徒職に関する限り,彼らは第一種の使徒達と同じ立場には立っていなかったのである.使徒達が複数形であるという基本的な事実は,異なった種類の使徒達に関するこの真理の光の中で理解されるべきなのである.この問題のさらなる発展については,私たちの種本である,リー兄弟の最近の本“A Timely Trumpeting and the Present Need”を紹介したい.
あなたがたは“今日多くの使徒達がいる”,そしてあなたがたは“彼らの多くを”を言えると宣言している.彼らはどのような種類の使徒達なのであろうか?もし彼らが第三種の者であれば,彼らは働きにおいて独立して行動すべきではない.ましてや他の働き,すなわち自分自身の働きなど始めるべきでない.私たちすべてはリー兄弟を第一種の使徒であるとみなさないであろうか? あなたがたが“今日多くの使徒達がいる”と言う彼らは,おそらくリー兄弟の務めによって生み出された者達であり,したがって彼らは第三種の使徒なのである.そうであるから,彼らはリー兄弟と等しい立場に立つのではなく,むしろ彼の指導に服し,働きにおいて指示を受けるべきなのである.
使徒達に関して,あなたがたはまた,“多くの使徒達が,多くの賜のあるメンバーとともに,彼ら自身の働き,務めを建てるためでなく,キリストの体を建てあげるために与えられた.”と言っている.ここに私たちはもう一つのあてこすりがあることを見る.なぜならこの批評はリー兄弟に対して向けられているからである.あなたがたは,彼がキリストの体を建造しているのではなく,彼自身の務めを建てあげているとほのめかしている.私たちは私たちの兄弟のために,彼の務めは絶対的に体の建造のためであると証言したい.“務めは教会のためであり,教会が務めのためではない”という真理,つまりあなたがたがリー兄弟の信用をおとしめる目的で使っている真理は,彼から来たものなのであり,彼の実行は常にこの真理とともに行われてきているのである.神聖な有機体としてのキリストの体と,その建造のための神の定められた道についてのリー兄弟の最近の発言は,彼の唯一の目的が働きを建てることではなく,体の建造のためであることの新鮮な証である.この問題では私たちは彼と一つであり,彼の模範に見習いたいのである.
あなたがたは新約聖書にある“とても良い交わりと調和されてた多くの使徒たち”の例に言及している.そしてパウロとアポロは“お互いを尊重し調和された良い関係にあった”ことを指摘している.これによってあなたがたは本音に導かれる:“使徒達はお互いを必要とする.誰も完全ですべてを網羅していない”と.ここに別のあてこすりがあり,もう一つの暗闇の矢がリー兄弟に投げられている.真理はリー兄弟は体の中で生き,活動しているのである;彼はその長い経験から真の交わりと調和を知っているのである.あなたがたはどうであろうか?
あなたがたはパウロとアポロの関係については言及しているが,パウロと他の彼によって生み出された使徒達との関係,むしろその方がより評価されるべきなのであるが,については何も言っていない.働きにおけるパウロの方向づけとリーダーシップのもとで,パウロと彼の同労者達はすぐれた関係を持った.この関係においては,これは一人の第一種の使徒と他の第三種の使徒達との関係であるが,何の混乱も秩序の乱れもなかったのである.パウロはある同労者をある場所へ送ることができたが,同労者はパウロをどこへも送ることはできなかったのである.パウロはある同労者をある特定の地方に置いて来ることができたが,同労者はパウロに同じことをできなかったのである.パウロは同労者に来るようにと言いつけることができたが,同労者はパウロに同じようにできなかったのである.なぜならば,彼らは立場の違いを意識しており,また尊重しており,第一種の使徒であるパウロと,第三種の使徒達であるテモテやテトスとの関係はとても喜ばしいものであった(ピリピ 2:22;第2テモテ 1:2;第1テモテ 1:2;ピリピ 2:19,23;第1コリント 4:17;第1テサロニケ 3:2,5;第1テモテ 1:3;第2テモテ4:9,21;テトス 1:4;第2コリント12:18a;テトス 3:12;第2コリント 8:23;12:18a).
何故あなたがたはパウロの彼の同労者との関係については無視し,むしろパウロとアポロ間の何か問題のあるケースを強調するのか? アポロはパウロとある交わりは持っていたかも知れないが,しかしアポロがパウロと十分な調和関係にあったかどうかは疑わしいのである.ジョン兄弟よ,あなたがパウロとアポロの例を引用したのは,あなたが自分自身を第一種か第二種の使徒とみなし,したがって第一種の使徒のリーダーシップと指示に服する必要のないものであるとするからではないのか? 兄弟よ,率直さと愛の中でこう言うことを許して欲しいのだが,あなたがそのような使徒であるとは私たちには認識できないのである.もしあなたが使徒であるとしても,リー兄弟と同じ立場にはないのである.あなたはリー兄弟の務めによって生み出されたのであるから,彼のリーダーシップと指示のもとで喜んで働くべきなのである.こう言うことによって,私たちはリー兄弟を持ち上げるのでも,あなたの新約における分を引き下げるのでもない.むしろ私たちは,異なった種類の使徒達についての真理を今日の状況に適用し,ただ真理を語りたいだけである.
使徒達を誉めないようにとのあなたの言葉において,ある聖徒達がリー兄弟を誉め,その結果分裂を引き起こしているということをあなたは実質的に主張しているのである.私たちはこのような告発を拒絶する.私たちは私たちの兄弟の主にある立場を尊敬しており,彼の務めを受け入れており,そして働きにおける彼のリーダーシップと指示に服するものであるが,しかし,私たちは彼が主にあるところのものを越えて彼を誉め讃えているわけではない.
あなたがたの最後の点は使徒達に対するあなたがたの態度についてであった.“これらの使徒達に対しての私たちの態度はどうであるべきか?”とあなたがたは問い,“私たちを助け,体の建造に益のある命と真理のものは何であろうと彼らから受け取る.”と答えている.これは良いように聞こえるが,しかし少なくとも3つの深刻な否定的な含みを持っている.
第一に,あなたがたの命と真理についての発言は,諸教会と聖徒達が使徒達の上に位置しており,したがって聖徒達に,自らの好みに従って,自ら受け入れたいものを,使徒達の教えから拾い選択することを奨励している.このような考え方によると,パウロによって設立された諸教会は,パウロの務めを選り好みする方法で受け入れ,彼らが命と真理のものであるとみなせる事柄だけを受け取っていたかのようである.もしこれが現在あなたがたの立場ならば,あなたがたがどのような教えを受け入れ,どのような教えを拒絶するのか,私たちはよく分からない.特別な一つの例をあげると,異なった種類の使徒達と,彼らが設立した教会と彼らとの関係と,彼らが任命した長老達とについての真理を,それらは新約聖書で啓示され,“A Timely Trumpeting and the Present Need” で教えられているのであるが,あなたがたは受け入れるのか? 使徒達はどの教会でも同じことを教えており(第1コリント 4:17;7:17;11:16;14:33a;16:1 ),そしてこのことはアナハイムにある教会をも含んでいるのである.アナハイムにある教会は,きわめて特別な方法でその存在をリー兄弟に負っているのに,あなたがたがもはや彼の務めを受け入れないことは私たちを驚かせるのである.
第二に,あなたがたの使徒達に対する態度は,聖徒達を完成するために与えられた使徒達によって(エペソ 4:11-12),あなたがたが完成されることに真に開いていないことを意味している.使徒達の務めを選択的な方法で受ける者は彼らによって完成されることはできない.さらに,使徒達の務めを選択的にとる者は,特定の特別な供給,それは豊かな供給の結び目としての使徒達を通して彼らが利用できるものであるが(エペソ 4:16),に対して実際上自分を閉じてしまうのである.
第三に,あなたがたの使徒達に対する態度は,彼らの霊的な権威を認めていないことを意味する.その権威は主によって彼らに“倒すためでなく,建造のために”与えられたものなのである(第2コリント 10:8;13:10).使徒達は諸教会をコントロールしないが,彼らの諸教会に対する務めは,特に秩序の乱れがある時はそうであるが(第1コリント 11:34),神の命じた権威と共にある.あなたがたの使徒達に対する態度は,主のミニストリー,また主から受けた委任における彼らの権威を認めないものであるように見える.
9.教会の行政に対するあなたがたの立場
私たちのこの書簡はアナハイムにある教会の問題に干渉する意図のものではなく,教会の問題に関するあなたがたの見解を不法に配布することへの正当な回答なのである.あなたがたの立場の印刷物があなたがたの地方に制限されていたら事は違っていたであろう.
特に教会の問題については,すなわち,その行政については私たちは干渉すべきではない.しかし,このことについて語る根拠がまったくないというわけではない.一つの地方教会の行政の基礎は他のすべての地方教会の行政の基礎と同一である.行政は確かに地方的であるが,それにもかかわらず他の地方教会の行政と同じ性質を有している.この点は議論の余地がないものと私たちは信じている.
私たちはこの点を強調したい.なぜならば,アナハイムにある教会の行政は他の地方教会のそれとは異なってきているように見えるからであり,またこの新しい立場の無遠慮な無謀な配布は,私たちが現在まで主の回復において実行してきていることへの直接的な攻撃であるからである.
地方の行政は制限のあるものなのであり,そしてこれは地方の行政が託されている長老達彼ら自身に制限があるからである.長老達は使徒達によって任命された者であるというのが私たちの間の共通の理解である(使徒行伝 14:23;テトス1:5), そして彼らはその成熟度に基づいて奉仕するのである.彼らは必要とされる使徒達でも,預言者でも,福音伝道者でも,あるいは牧する教師でもない.もしある長老がエペソ 4:11 の意味における賜のある肢体であり,監督における彼の機能は彼の命における成熟さとその使徒の任命によって得られたものであり,彼が使徒であること,預言者であること,福音伝道者であること,あるいは牧する教師であることの美徳によるのではないのである.なぜならば長老達は必ずしもエペソ4章の意味における賜のある者である必要はなく,彼らの責任は本来は,その中でエペソ4章の賜のある者達が機能する霊的な事柄に対するものではないと推測せざるを得ないからである.さもなければ何故ご自身がそのことのために彼らを備えていない事のために,彼らを信用することができるのであろうか?
明らかに彼らは霊的でなくてはならない.なぜならば,彼らを長老たらしめる成熟は人間的な成熟であるだけでなく,彼らの地方における他の聖徒達との比較において神聖な命における成熟でなくてはならないからである.しかし彼らの成熟は彼らを単にある事柄についてのみ備えるだけである.彼らのそれはその地方に対する網羅的なリーダーシップではない.彼らは真理を聖徒達に結合しようとしても,彼らは真理を見極め,見い出し,そして定義するのではない.なぜならばこれは賜のある使徒達の機能であるからである.同じことは預言者,福音伝道者,そして牧する教師の機能についても言える.神はこれらの賜のある者達を体の霊的な事柄において与え,一方神は長老達を地方教会の行政のために与えた.そこでこのことは地方の行政の制限は何であるかを私たちが見る助けとなる.例えば,地方教会においては長老達が真理を定義づける必要は何もない.なぜならば神はまさにこの目的のために使徒達を与えているからである.しかし,実際的に言って,監督する長老達の協調的な機能がなければ,ある地方教会が適切に教会生活をもつ道はない.なぜならばこれは使徒達が決してなし得ないことだからである.長老達は彼らの地方に関係する事柄において聖徒達をリードするが,キリストの体としての教会に関係する霊的事柄を表明することにおいては賜のある人のリードに従うのである.
あなたがた兄弟達がアナハイムにある教会で取りたい立場については,神の案配からの逸脱を私たちは感ずる.1988年 8月28日の集会のまさに根底にあるものは,地方行政の疑問視されるべき遂行である.主の回復にある地方教会がいまだかつて,神の言葉についてとか,教会についてとか,体の一についてとか,あるいはその他の論点について,独自にある立場を確立したことがあるであろうか?そのようなことはいまだかつてないのである.なぜなら,そのような行動は適切な地方行政の制限を越えたものを表明することであり,そのようなことは使徒達に割り当てられた機能であるからである.また,そのような行動は他の地方教会からのいまだかつて存在しなかった独立をも意味するのである.何年か前に“地方教会の信仰と実行”という小冊子において,私たちの立場と信仰を解き放った.これは主の回復にある同労者達の共同作業の努力によって産み出された物である.それは地方教会の立場は,一つのキリストの体の多様な現れであると言っている.1988年8月28日に起きたことはそれとは異なった性質のものである.それは主の回復にある他の地方教会から逸脱した,異質な,そして他の諸教会に何の考慮もない自分独自の立場を確立した一つの地方教会の宣言である.今日まですべての地方教会において尊ばれてきた事柄が侵食されつつあるのを,私たちはただ黙って座って見ていることはできないのである.それにもまして,このコピーの抑制のない配布は,地方行政の誤った展覧と共なる主の回復への侵略の企てでさえある.
最後に,あなたがたの地方行政の立場に関する根底にある明かな理由に対して私たちは同意できないことを宣言しておきたい.兄弟達,あなたがたはリー兄弟の影響力を排除しようとする不健全な願望をもって,地方行政に関するあなたがたの表明をなしたのではないのか? もしそうならば,このことはあなたがたが行政の施行において他の地方教会から逸脱していることのさらなる証拠である.諸地方教会はリー兄弟の務めを堅固な豊かな聖徒達への養いの源泉として歓迎しているのである.ある教会が地方行政という権利に立って,私たちの使徒であるリー兄弟の養いのある務めを排除しようとすることは,主が地方行政の原則として命じたことの乱用である.もしあなたがたがアナハイムにある教会を設立し,あなたがたを長老とした使徒の務めを排除しようとするならば,わたしたちはあなたがたに,その使徒とのどのような関係が正常で健全なものであるかを思い起こさせたい.これを私たちは使徒行伝 20 章で,パウロがエペソの長老達を任命した場面に見いだした.彼らの使徒であるパウロは,群れを荒し回る狼どもと,弟子達を彼らが受けた教えから引き出そうとする者たちの警告を与えた.加えて,彼は教会において繰り返されるべき良い模範として自分のことを表現した(33-35 節).それらの長老に対する勧告はすべての面で,その内容においても,その方法においてもその使徒の務めと関連があるのである.私たちを教会として確立してくれた使徒の務めを軽率にも排除することがあってはならないのである.私たちは1988年8月28 日に宣言されたあなたがたの立場を非難し,そのコピーを配布することにより諸教会間に反逆の種をまく企てを拒絶する.
10.リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスに関するあなたがたの立場
この点についてはゴッドフレッドが,アナハイムの兄弟達は“聖徒達を強制し圧力さえ加え”,またリビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスと不適切な関係を扇動し,誉め讃え,発展させてきたと言明している.彼はさらにまた,このことへの非難は“そのオフィスの玄関先に置かれるべきではなく”,むしろ“私たち長老によって産み出されたのである”と言っている.しかしあなたがたの側の行動への率直で前向きの悔い改めと告白がリー兄弟とその務めへのもう一つの攻撃の覆いとして用いられている.あなたがたの“多くの他の兄弟達が”,“圧力と扇動の状況を”非難しているというほのめかしと他の多くの告発をすることは,自分の悪い行いの許しを求め,謝意を表する長老達にはふさわしくないことである.兄弟達,あなたがたはもっと分別があるはずだ.もしあなたがたが言うように,アナハイムにある教会の問題を取り扱うことにおいて誤り,不適切であったというならば,他人を告発し罪定めするどのような立場と権利をあなたがたは持っているのか?
さらに,あなたがたがリビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスの本質と機能を明確にまた適切に理解しているかどうか,あなたがたの言葉から,私たちは疑わざるを得ない.リー兄弟は“リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスは私の務めを次の2点において補助する単なるビジネス・オフィスにすぎない:メッセージを本の形で出版し,またこれらのメッセージをビデオとオーディオテープによって配布することである.これがミニストリー・オフィスがしていることで,他のことは何もしない.私は過去オフィスに関係する事柄をチェックする十分な時間がなかったが,ミニストリー・オフィスはこの特定の機能をしているだけで,他の何等の機能をしてはいない.この小さなオフィスは神の言葉を印刷物とビデオ,オーディオテープを通して送り出すために私の務めを補助してくれるレビ人的な奉仕である.”(時期を得た言葉,A Timely Word,39ページ)
このことから,このオフィスはリー兄弟のためにレビ人的な奉仕をする兄弟姉妹のグループから構成されていることは明白である.リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスと一つであることを宣言することは,主の働きの助長のため彼(リー兄弟)によって彼ら(兄弟姉妹)に委託された奉仕を遂行するために,私たちがリー兄弟とこれらの聖徒達と一つであることを意味するのである.またこの奉仕は主の関心事のために重要であり,すべての諸教会の聖徒達がこの奉仕から計り知れない益を受けていることは疑いのないことを宣言することでもある.この働きのために私たちがリビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスと一つであることを何故宣言するべきではないのか? この一をつくることは,これが一の意味の価値のない歪曲であることを意味しないのである.
あなたがたが“リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスはこの教会の上に何の権威もない”と宣言することは,リー兄弟が多くの機会に明確にしてきたことの単なる繰り返しに過ぎない.それだけでなく,リビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスは如何なる教会の上にも何等の権威も持っていない.それはすべての諸教会に対して奉仕の有効な領域を持っている.それは何年も前に設立されたときから,分離したそれ独自のビジネス上の運営を有している.兄弟達,私たちは同労者として多くの年月の間,全地上で主の回復が前進するためにともに一つの働きに従事してきた.この働きにおいてはリビング・ストリーム・ミニストリー・オフィスもまたその特別の分を持っている.兄弟達の行動が,もはや共にあなたがたもこの目的のために働くことに注意を払わないことを意味するのではないかと,私たちは危具している.私たちはそうでないことを望みたい.
兄弟達は一つの方向にあまりにも進みすぎ,そしてそこの聖徒達に苦しみを引き起こしたが,今はあなたがたは反対の方向にあまりにも進み過ぎているのである.今回の結果はより深刻であり,アナハイムにある聖徒達のみでなく,他の地方の聖徒達にも損傷と苦しみを引き起こしているのである.
11.ライフ・スタディと他のクリスチャン文書に関するあなたがたの立場
ライフ・スタディとクリスチャン文書一般についてはあなたがたは多くの点を述べている.私たちはその各点について答えたい.
第一に,あなたがたは聖徒達にライフ・スタディのような“霊的なもの”が,“一つの支えになり,また聖書を読むことに置き代わったり”しないように警告している.あなたがたは“これらの私たちに助けとなることが代用物になることは,ちょうど霊的指導者が主ご自身の代わりになるのと同様に,とても容易なことであり”とあなたがたは主張している.もちろん,これはリー兄弟と彼の務めに向けられている.あなたがたはリー兄弟が主の代わりになったばかりでなく,また彼の書物が聖書の代用物になっていることをほのめかしている.もしあなたがたにおいてはこの通りならば,あなたがたは悔い改め,変わるべきである;しかし私たち自身と他の人にとってはこれは当てはまらない.ライフ・スタディについてはリー兄弟は,“ライフ・スタディのメッセージは豊かであるが,しかしそのどれも聖書より豊かなものはない”(ライフ・メッセージ,メッセージ 24,217 ページ)
わたしたちも同意する.ライフ・スタディのメッセージは豊かではあるが,しかしたしかにそれらは聖書ほどには豊かではない.私たちはこれらのメッセージを評価するが,それらを聖書と等価であるとはみなさないし,ましてやそれらを聖書に置き代わるものとしては決して取らない.リー兄弟は常に私たちを主に向けてくれ,そして彼の書き物は,それらは聖書の代用などでは絶対にないが,御言葉の豊かな“鉱脈”を開いてくれている.それは私たちがこの鉱脈をさらに深く探り,さらなる豊かさを掘り起こすことができるためなのである.これらのメッセージから私たちが受けた助けは,2000年間にわたる聖徒達の御言葉の研究の上に確立されているのであり,そのさらなる発展である.リー兄弟は,私たちは“前を進む人たちの肩の上に立っている”と言うことにおいて率先している.私たちも同意する.“私たちの務めが何であろうとそれは過去2000年間にわたる教会歴史の結果なのである.私たちは私たちより前に進んだ人たちすべての功績を認めるべきだ.しかし,主はあわれみによって御言葉を過不足なく開く適切な道を私たちに見せてくれた.” (ライフ・メッセージ,メッセージ45,416 ページ) 私たちは心からこの言葉を確証する.ライフ・スタディは支えでも聖書の代用物でもないというのが私たちの証である.むしろ,ライフ・スタディは御言葉を過不足なく開いてくれる適切な道を私たちに開いて見せてくれたのである.
私たちは主の民が全新約聖書のライフ・スタディを利用できることを感謝する.私たちは保留なくこのライフ・スタディにおけるリー兄弟の4重の目的を是認するものである:それは新約聖書に含まれている真理を提示すること,命の供給に仕えること,新約聖書にある一般的なまた困難な問題を解きあかすこと,そしてその完全な解釈を与えることにより新約聖書のすべての書を開くことである.このライフ・スタディは手順を経られた三一の神,生きているキリスト,命を与える霊,命の経験,そして教会の定義と実行の啓示で満ちている.あなたがた兄弟達がもはやこの神の言葉を知ることにおける重要な助けへの私たちの評価を分かち合えないことは残念である.
第二に,ある人たちが“聖徒達はリビング・ストリーム・ミニストリーから出版された物のみを読むべきであると強制”していることをあなたがたは指摘している.ここでのキーワードは“強制(insist)”である.これは絶対に私たちの実行ではない.私たちはリー兄弟の書物を推薦し,聖徒達にそれらを読むように奨励してきたが,しかし私たちは彼らにそうしろと決して強制してはいないし,まして他の物を読むななどとは言っていない.リー兄弟は合衆国に初めて来て以来,多くの他の人たちの書物を読むように私たちに薦めてきた.しかしながら,これは適切な識別力と健全な判断なしにではなかった.
第三に,あなたがたは聖徒達に自分が啓発されるどのような書物でも彼らの自由裁量で読むことを奨励している.またすべての聖徒達がそれによって啓発される“どのようなクリスチャン文書でも読む完全な自由を持つべきである”ことを確証している.読書においてのみでなく,彼らの個人的クリスチャン生活に関するすべてのことにおける聖徒達の自由を尊重することは私たちの長年にわたる一貫した実行である.私たちは聖徒が読む物に制御を加えたことはない.しかしながら,比較的若い人々に啓発的な霊的書物を薦めることは,指導する兄弟や比較的年長の兄弟にとって適切なことである.
第四に,あなたがたは聖徒達に教会の集会において“彼らを助けた”書物からの要約を読むように聖徒達に奨励し,そしてあなたがたは“私たちはそれらのものを受け入れるように開いているべきである”と言っている.もちろん,聖徒達は自分が助けを受けた物について分け与える自由をもっている.しかしながら,私たちは何であれ不健全な真実でないものを拒絶する権利も持っている.ある種の聖徒達がそれから助けを受けたからと言うだけの理由で,奇妙な逸脱した教えを受け入れることに私たちは開くことはできないのである.私たちはアナハイムでなされたような,教会の集会所において不健全なものを配布することには耐えられない.私たちは自分が選択したどのような霊的書物でも読むことができ,それについて語ることができる自由があるが,しかしまた私たちが不健全であるみなすどのようなものも受け入れない自由もある.
第五に,あなたがたの特にリー兄弟の書物に対する,また一般のクリスチャン文書に対する態度は,あなたがたに対しては,リー兄弟の務めがありふれた,普通のものになっていることを私たちに示唆している.あなたがたの言明の効果はリー兄弟の書物を低くし見下げることである.それはあるアナハイムの聖徒達によってリビング・ストリーム・ミニストリーの出版物を排除すべきであると強硬に主張されていることによっても証拠づけられている通りである.あなたがたは彼の務めの偉大な価値を,それは彼自身が言うように過去の偉大な教師達の“肩に立っている”ものなのであるが,感じ取ることにおいて失敗したのであろうか? 私たちはリー兄弟の書物を高く評価しその価値を認めているし,そしてそれらをありふれたものと見なすことはしない.私たちは聖書的な真理を知るために,クリスチャン生活のために,そして教会生活の実行のために,彼の本は最も啓示があり,また命の供給に溢れていることを証し続けるのである.
12.本の販売に関するあなたがたの立場
本の販売の問題は前述した点に密接に関係あるために簡単にコメントをしておきたい.あなたがたは聖徒達への奉仕として集会所で本の販売を続けるつもりでいる.しかしながら,あなたがたが“ある特定の本を宣伝し仲介すること”はもはやしないと言う.それはもちろんリー兄弟の本であり,さらにあなたがたは続けて“教会の集会はある物の商売に変質すべきではない”と付け加えている.これに対しては2点の回答をしたい.
第一に,聖徒達に私たちがリー兄弟の本が利用できることの報告をしたり,それらを薦めたりするときに,私たちが“商売”に携わっているという告発を拒絶する.アナハイムにおけるあなたがたの実行が如何なるものであれ,教会の集会が“商売に変質してしまう”ことは他の諸教会の実行ではない.私たちはリー兄弟の務めを受け入れまたそれを聖徒達の霊的成長と体の建造のために彼らに推薦するが,しかしそれは商売などとはまったく異なるものである.
第二に,あなたがたの本の販売に関する主義は,あなたがたが今やリー兄弟の務めを低く評価し,それと同一視されることをあなたがたはもはや好まないことを示唆している.あなたがたがリー兄弟の物をアナハイムにある教会にもはや薦めることができないと,あなたがたは明白に感じているのである.キリストの体の建造のためのリー兄弟の最近の務めは私たちに大いなる助けとなった.そしてあなたがたがこの必要な務めをアナハイムにある教会に対して喜んで薦めないことは私たちを悲しませるのである.
13.年2回の訓練に関するあなたがたの立場
多くの聖徒がリー兄弟によって持たれる年2回の訓練から助けを受けてきたという事実をあなたがたは知っていながら,訓練の間通常の教会生活をもはや中断しないとあなたがたは決定した.地方教会の長老としてそのような決定をする権利があなたがたにはある.しかしながら,あなたがたの決定はきわめて重要な事柄を示唆している.第一に,あなたがたの決定は,これらの訓練を祝福あるいは供給とみなすかわりに,教会生活の中断であるとあなたがたは考えていることを示唆する.第二に,あなたがたの決定はリー兄弟の務めをもはや最高のものとして維持しないことを示唆するように見える.第三に,あなたがたの決定は,あなたがたが実際上リー兄弟の務めから離れていることを示唆する.第四に,あなたがたの決定は,主にあるリー兄弟の立場を認め,彼の務めを受け入れたいと望むアナハイムの聖徒達の利益に関する適切な関心をあなたがたは持たないことを示唆する.第五に,あなたがたの決定は,あなたがたが他の諸教会への適切な関心あるいは体の意識をもつことがないことを示唆する.第六に,あなたがたの決定は,ある地方の問題は体の問題でもあり,そしてそれはアナハイムにある教会にのみでなく,他の諸教会に影響を与えることをあなたがたが理解していないことを示唆する.第七に,あなたがたの決定は,あなたがたが自分の霊的な父である人に対して明かな中立的な態度を取っていることを示唆する.実際,あなたがたの態度はある家族において,自分より若い弟妹達に,彼らの父親に対して感情と関係において冷淡であるように奨励している年長の兄弟の態度であるかのようだ.一般的であり聖徒達の自由を尊重するという口実の下で,あなたがたはアナハイムの教会がその務めにその存在を負っている人を尊重していないのである.兄弟達,私たちはアナハイムの教会の地方行政を尊重しているとは言え,あなたがたがリー兄弟の務めから離れたことを私たちは悲しみ,そして私たちはあなたがたの立場とは一つであり得ないのである.
14.他の諸教会に関するあなたがたの立場
他の諸教会との関係に関するあなたがたの立場については3点述べている:第一に,あなたがたは“他の諸教会を尊敬し高く評価している”と;第二に,あなたがたは“すべての諸教会との良い交流”とともなる“完全な交わり”を主張している;第三に,あなたがたは“他の教会の長老達にあなたがたがすべきことを語らせることを望まない”と言っている. 8月28日のあなたがたの発言は他の諸教会との交わりを尊重していることなのか? あなたがたは,一つの体の利益を考慮し, 8月28日にあなたがたが意図したことについて,他の諸教会と“完全な交わり”を持ったのか? あなたがたの発言が他の地方に影響を与えることをあなたがたは前もって考慮したのか? 他の地方の聖徒達にあのコピーの不正な配布が如何なる妨害を与えているかをあなたがたは理解しているのか? このコピーの配布の影響について他の諸教会と十分な交わりをあなたがたは持ったのか?あなたがたの態度と行動が諸教会間の“よい交流”を生み出すことを助長しているとあなたがたは考えているのか? あなたがたはこれらの質問に答えるべきである.私たちはあなたがた兄弟達に何をせよとは語っていない.しかし,私たちは一つ体であるから,私たちはあなたがたと真実な交わりをしたいのである.私たちはあなたがたと“十分な交わり”を真剣に持ちたいのであるが,あなたがたには語っている間もその後も他の諸教会に対する関心が欠如しているために,このような交わりが妨げられているのである.あなたがたは自分自身あるいはあなたがたと共にいる何人かに注意を払うのみで,体全体には払っていないように見える.私たちはこのような嘆かわしい状況を悲しんでおり,また神によってこの事態が修正されることを待ち望んでいる.
15.実行に関するあなたがたの立場
私たち主の回復にあるものは決して実行中心的ではないが,他方,実行を何も持たないのでもない.私たちが持つべき実行は私たちの霊的生活と機能を助けるものであり,そのことの故に私たちは主に感謝している.健全な実行に反対するべきではなく,またそれは強制されるべきでもないというゴッドフレッド兄弟の見解に私たちは同意するが,しかし,人々を訪問しそこで主の福音をもたらすような純粋で適切な実行が,アナハイムにあっては誤って取り扱われ,その結果あなたがたの教会が“ほとんどこのことで[あなたがたのある者が]分裂した”ということを私たちは悲しむ.あなたがたが自ら認めていることから,その誤った取扱いはあなたがた兄弟達の単独の責任である.なぜなら,あなたがたは“私たち兄弟達は誰もがこの方法を実行しなくてはならない”と言ったことを告白しているからだ.これは確かにあなたがたの側の不適切な実行の押し付けである.そのような押し付けは諸地方教会ではなされるべきではないことを私たちは明らかにしておきたい.
一方において,私たちは人々をドア・ノックで訪れ福音を彼らに伝えることには心の底から賛成をする.これは主自らなされた罪人に救いのニュースを届ける実行の適切な応用であると私たちは信じる.私たちは誰にもそれを押し付けたりはしないが,しかし人に福音を伝えるための神の定めた方法としてそれを薦めることはする.
あなたがたの発言にはニューウェイにおける主の動きを侵食する企てがあると私たちは感じる.ニューウェイにおける最も進んだ項目である人々の家を訪ねる実行が分裂的になり得るものであると,あなたがたはほのめかしたいように見える.これはリー兄弟の務めの拒絶であり,またそれへの攻撃ではないか? 現実には,アナハイムにおいて問題を引き起こしたのは,あなたがたも認めるとおり,あなたがたの押し付け,強制,強要といった不適切なやり方が原因なのであり,リー兄弟によって教えられたひとびとの家を訪ね福音を語るという聖書的な実行のせいではないのである.
16.福音に関するあなたがたの立場
あなたがたの最後の点は福音に関してであり,それについては私たちは異議を唱えない.福音に関する私たちの感覚は今までのセクションで適切に表現された.私たちは“それによって私たちが福音を伝えなくてはならない一つの特定の方法はない”ということに同意する.しかし,人々の家を訪問することによる聖書的な福音伝道は他の方法よりもはるかに優れた方法であると私たちは認識している.あなたがたの見解では福音を伝えるすべての方法は等しく有効なのであろうか?他の方法よりも優れたものがないのだろうか? ある方法は確かに他の方法よりも優れている.そしてすべての人が救われるために私たちはこれらを追求したい.福音を人々の家に携えていくことはよりすばらしい方法であると感じる.教会の集会によりすばらしい贈物があると同じように,福音伝道においてもよりすばらしい方法があると私たちは信じている.確かに福音を提供するいろいろな方法がある.しかし,私たちは優ったものを追求する;私たちはキリスト教の惨めな歴史を繰り返したくはない.私たちは大勢の者が救われるもう一つのペンテコステを待つことはできる.しかし,その間にも人々が私たちの福音を聞くことなく,神の建造のための生ける石として造り変えられることなしに滅びへと落ち込むのを見ていなくてはならない.私たちは最上の方法を取らない愚か者であるが,それでも他の人には最上の方法を取るように奨励する.私たちは神とともなる事業の利潤追求のために存在するのではないのか? もし人々の家を訪問する聖書的な方法が最高の方法でないならば,どうして地方教会の外のクリスチャンの多くのグループはそれに転機できるであろうか?
終わるにあたって,私たちはあなたがたにこの書簡は十分な考察と交わりの産物であることを理解して頂きたい.何ヵ月も待った後,私たちはあなたがたの16ポイントに対して,完全で,熟慮した,合理的で,そして公正であると私たちが信じるところの回答をここに提出するのである.私たちは批判的な裁く霊をもってこれを書いたのではない.むしろ,私たちは体の利益のための関心から,そしてリー兄弟の務めを代表して真理の言葉を語りたいという願望をもって,真実の愛の霊の中で,この率直な公開書簡を書いたのである.私たちは真剣にアナハイムにある教会とあなたがた兄弟達のことを思っている.したがって,あなたがたの 8月28日の発言を再考察することと,そのコピーの配布によって引き起こされた問題と損傷を深刻に受け止めることを懇願する.主に仕える人々の利益のために,自分の感覚のみに注意するのではなく,体の感覚に注意することにより,どうかこの問題を十分に取り扱って欲しい.体のために,兄弟達,私たちの言うことに耳を傾け,主の前でこの書簡の中であなたがたに提出したすべてのことを考慮することを,私たちはあなたがたに訴え,懇願するものである.
Francis Ball, Joel W. Kennon, Titus Chu, David Lutz, Les Cites,
Benson Phillips, Eugene C. Gruhler, James Reetzke, Sr.