序 言

いわゆる地方教会は合衆国の諸都市や、東洋の各地域に住む人々のグループで構成されており、彼らはウイットネス・リーの教えに追従する人々である。リーは東洋人であり、かつてウォッチマン・ニーによって始められた運動の指導者の一人であった。彼らに対する名称は彼らの“地方主義(Localism)”に由来するものであり、それは各地方には唯一の真の教会、真のキリストのからだの表現があるべきである、という教えである。

われわれはこの運動にある人々を愛するものである。聖書の教えとして彼らに対して重大な誤謬が提示されているとき、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦う(ユダ3節)ため、われわれ何らかの反応をすべきであると感ずるのは、この深い愛に基づくものである。われわれは地方教会にいる個人を攻撃するものではなく、彼らが受け入れ、流布している誤った教えを指摘し訂正しようとするものである。

われわれは教会の一致(unity)を切望するものであるが、 その一致は神の言葉の本質的真理を無にする代価を払うことによって実現されるものではないはずである。パウロは“誰が神に認知されるか明らかにされるためには、たしかにあなたがたの間に相違点もあることだろう”(Tコリント11:19;NIV)と書いている。われわれは“私は道であり、真理であり、命である”(ヨハネ14:6)と言われた唯一の方に従うべきであって、そうするためには、神の言葉の真理を犠牲にしてはならないのである。キリストのからだを分裂させているのは、実際には、その誤った教えによって地方教会自身がしていることを続く議論から見ることができるであろう。そしてわれわれはそのような挑戦に対して御言葉をもって答えるものである(ユダ3節、Iペテロ3:15、イザヤ8:20)。



聖書に照らした地方教会の教え

地方教会は一般のキリストのからだと相違するものとして自らを設立する根拠となった顕著な教えを有している。そしてこれらの教えを聖書に照らして研究することがわれわれの目的である。まず最初に、カトリックとプロテスタントを含めるすべての教派に対する彼らの姿勢を理解することが重要である。それによってこれらの教えがきわめて重要であることを理解することができる。ウイットネス・リーは、“中立的であってはならない。彼らと妥協してはならない。。。教派は間違っていることを知りなさい。それでもあなたがたがそこに留まろうとするのは、他人の言うことを恐れるためである”と書いている[1]。したがってリーと地方教会にとってはすべての教派は間違ったものであることになる(この点については後程言及する)地方教会を他の教派と区別するものは何なのであろうかもっとも重要な点はその教えと実行である。地方教会の実行はその教えから派生したものである以上、その両者は実際上一つのものとして扱うべきである。

われわれは次の基本的な5つの領域における地方教会の教えを論じ、それらを神の言葉の教えと比較したい。1)神の本質、特に三位一体に関して;2)救いの方法について;3)教会:特に“地方主義”および神と教会の関係について;4)聖書の本質とその用い方について;5)罪とサタンの本質について。



神の本質

三位一体性に関する教義はふつう次のように表現されている:“永遠なる唯一の神の本質において3人の永遠に区別される位格(Persons)が存在するすなわち御父御子そして聖霊であるこれらの三者は同一の神でありすべては完全な神でありしかるに御父は御子でも御霊でもなく御子は御父でも御霊でもなく御霊は御父でも御子でもない”[2]。しかしながら、地方教会はこれと相反する教えをしている。

地方教会は御父御子聖霊はみな同じ神であるとともに同じ位格でありその各々は神が人に対してご自身を啓示するための一連の過程であるというのである。ウイットネス・リーは次のように書いている:
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