ウイットネス・リーと地方教会の教え
研究顧問
Cal Beisner
研 究 員
Robert & Gretchen Passantino
Christian Research Institute
所長 Walter Martin 教授
( Copyright by Christian Research Institute and Cal Beisner, Robert & Gretchen Passantino 1978 )
INDEX
1.序 言
2.聖書に照らした地方教会の教え
2.1.神の本質
2.2.救いの方法
2.3.教会:地方主義の思想
2.4.地方教会における聖書の占める地位
2.5.罪とサタンに関する地方教会の観念
3.結 語
米国におけるカルト研究の第一人者であった故Walter Martin教授設立のカルト研究機関クリスチャン・リサーチ・インスティチュート(CRI)による研究論文。すでに70年代からリーの教えの危険性を指摘している。リーはこの論文が出た後、莫大な金を投じて、一般新聞などで自らの正統性を訴える広告を出している。また彼の教え、特に"神の三一性"についての記述が、これらの批判によって徐々に変化していることに注意されたい。
Martin教授はリーによって告訴の脅しを受けており(→ローカルチャーチによる訴訟の歴史)、同研究所とローカルチャーチは緊張関係にあったが、Martin教授亡き後、きわめて疑惑のもたれる手法で所長についた各方面から問題視されているHank Hanegraaffは最近ローカルチャーチを"和解"をした(→最新情報、Religion News Blog)。Hankに対してはMartin教授の娘夫婦が告発サイトを開いており、また彼自身不明朗な金銭の動きにより刑事的疑惑をもたれている。
1。序 言
いわゆる地方教会は合衆国の諸都市や、東洋の各地域に住む人々のグループで構成されており、彼らはウイットネス・リーの教えに追従する人々である。リーは東洋人であり、かつてウォッチマン・ニーによって始められた運動の指導者の一人であった。彼らに対する名称は彼らの“地方主義(Localism)”に由来するものであり、それは各地方には唯一の真の教会、真のキリストのからだの表現があるべきである、という教えである。
われわれはこの運動にある人々を愛するものである。聖書の教えとして彼らに対して重大な誤謬が提示されているとき、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦う(ユダ3節)ため、われわれ何らかの反応をすべきであると感ずるのは、この深い愛に基づくものである。われわれは地方教会にいる個人を攻撃するものではなく、彼らが受け入れ、流布している誤った教えを指摘し訂正しようとするものである。
われわれは教会の一致(unity)を切望するものであるが、 その一致は神の言葉の本質的真理を無にする代価を払うことによって実現されるものではないはずである。パウロは“誰が神に認知されるか明らかにされるためには、たしかにあなたがたの間に相違点もあることだろう”(Tコリント11:19;NIV)と書いている。われわれは“私は道であり、真理であり、命である”(ヨハネ14:6)と言われた唯一の方に従うべきであって、そうするためには、神の言葉の真理を犠牲にしてはならないのである。キリストのからだを分裂させているのは、実際には、その誤った教えによって地方教会自身がしていることを続く議論から見ることができるであろう。そしてわれわれはそのような挑戦に対して御言葉をもって答えるものである(ユダ3節、Iペテロ3:15、イザヤ8:20)。
2。聖書に照らした地方教会の教え
地方教会は一般のキリストのからだと相違するものとして自らを設立する根拠となった顕著な教えを有している。そしてこれらの教えを聖書に照らして研究することがわれわれの目的である。まず最初に、カトリックとプロテスタントを含めるすべての教派に対する彼らの姿勢を理解することが重要である。それによってこれらの教えがきわめて重要であることを理解することができる。ウイットネス・リーは、“中立的であってはならない。彼らと妥協してはならない。。。教派は間違っていることを知りなさい。それでもあなたがたがそこに留まろうとするのは、他人の言うことを恐れるためである”と書いている[1]。したがって、リーと地方教会にとっては、すべての教派は間違ったものであることになる(この点については後程言及する)。地方教会を他の教派と区別するものは何なのであろうか。もっとも重要な点はその教えと実行である。地方教会の実行はその教えから派生したものである以上、その両者は実際上一つのものとして扱うべきである。
われわれは次の基本的な5つの領域における地方教会の教えを論じ、それらを神の言葉の教えと比較したい。1)神の本質、特に三位一体に関して;2)救いの方法について;3)教会:特に“地方主義”および神と教会の関係について;4)聖書の本質とその用い方について;5)罪とサタンの本質について。
2。1。神の本質
三位一体性に関する教義はふつう次のように表現されている:“永遠なる唯一の神の本質において、3人の永遠に区別される位格(Persons)が存在する。すなわち、御父、御子、そして聖霊である。これらの三者は同一の神であり、すべては完全な神であり、しかるに、御父は御子でも御霊でもなく、御子は御父でも御霊でもなく、御霊は御父でも御子でもない”[2]。しかしながら、地方教会はこれと相反する教えをしている。
地方教会は、御父、御子、聖霊はみな同じ神であるとともに同じ位格であり、その各々は神が人に対してご自身を啓示するための一連の過程である、というのである。ウイットネス・リーは次のように書いている:
したがって、三位格は神のエコノミーにおける3つの一連の過程となったのである[3]。
同様に、御父、御子、そして聖霊は三人の神々ではなく、わたしたちが所有しエンジョイするための一人の神の3段階なのである[4]。
天においては、そこは人が見ることはできないが、神は御父である;彼が人の間において表現されたとき、彼は御子であり;彼が人の中に入り来られたときには、彼は御霊である。御父は人の間で御子にあって表現されたのであり、御子は人に入り来るために御霊となられたのである。御父は御子の中にられ、御子は御霊となられ、しかもこの三者は唯一の神なのである[5]。
以前には人が御父と触れることは不可能であった。御父はまったくの神であり、彼のご性質はまったく神聖であった。神と人の間の溝を橋渡しするものは御父の中に何も存在しなかったのである。。。しかし今や彼は。。。人間性の内に受肉されたのである。御父はご自身の神性と人間性が御子にあって結合されたことに満足されているのである[6]。
死と復活の後、彼(御子)は御霊となられて弟子たちの内に息吹き込まれたのである[7]。
。。。御子は私たちが命の水として飲むことができるように御霊となられたのである。。。[8]。
御父は、尽きることのないあらゆるものの源として、御子の内に形取られたのである[9]。
人が近づくことのできない所において(Iテモテ6:16)、神は御父である。彼がご自身を現されるために来られたとき、彼は御子である。。。わたしたちは主が御子であり、また御父と呼ばれることを知っている。。。今や彼は御霊である。そこでわたしたちは主なるキリストは御霊でもあることを明確にすべきである。。。源として、神は御父であり、表現として神は御子であり、伝達として神は御霊である。御父は源であり、御子は表現であり、御霊は伝達、交わりである。これが三一の神である。。。[10]。
これらの説明において、御父、御子、聖霊は神が人類にご自身を啓示されるための3段階であるという明確な教えを見ることができる。よって、実際には御子は御父と区別されるべき一つの位格ではなく、“ご自身を現すために来られた”御父であることになる。聖霊も御父と御子から区別されるべき一つの位格ではなく、“伝達”あるいは“交わり”なのである。彼は人に対する表現の3段階において、事実上、御父かつ御子なのである。
この人に対する神の啓示の一連の3段階の教義は、3位格の永遠の区別を否定するものであり、歴史的には“サベリウス的様態論(Sabellianisitic modalism)”として知られているものであり、より広義には“様態論的単一神論者(modalistic Monarchianism)”と呼ばれている。
Louis Berkhof 博士は“サベリウス的様態論”を次のように記述している:
。。。サベリウス。。。は神聖な本質の同一性とその現れの複数性を区別しており、それらはドラマの各場面のようにお互いに連続して呈示されるというものである。サベリウスは確かにあるときには3人の神聖な位格を語っているが、しかし‘位格(Person)’をその単語の原義的意味、すなわち表現上の役割あるいは様態を意味するものである、という意味において用いているのである。彼によれば、父、子、聖霊という各名称は、一つの神聖な本質が表現される3つの異なった段階であるというのである。神はご自身を創造と律法の提示においては御父として啓示され、受肉においては御子として、新生と聖化においては聖霊として啓示されたと言うのである[11]。
リー氏の教えを思い出して欲しい:“よって、三位一体性の3つの位格は、神のエコノミーにおいて3つの一連の過程となったのである”[12]。この側面におけるリーの教えは、サベリウス派的意味における様態論(modalism)であることは疑いを持ち得ない。すなわち、父、子、聖霊は人に対する神の啓示の3つの一連の様態(mode;このゆえに“modalism”と称せられる)、あるいは段階であって、三人の内包的な本質的に区別され得る位格(Persons)ではないのである。
この教義は3世紀にすでに異端と宣告されているが(A.D.263 ローマのDionysius 主教の下で)、以来時々に教会の教えの中に忍び込んでおり、その都度、本質的三位一体性の聖書的教えが擁護される形で拒絶されてきているのである。
御言葉は父、子、聖霊は3つの一連の段階ではないことを確証している。なぜならそれらは永遠に同時的に存在するからである。ヘブル9:14はキリストは“永遠の御霊”によってご自身をささげられたと言っている。彼らは同時的に存在するのであり、キリストは御霊ではない。しかるにリーは、“。。。御子はわたしたちが命の水として飲むことができるために御霊となられた。。。”[13]と書いている。ヨハネ17:5は御父と御子は、“世の始まる前から”同時に存在することを見せている。しかるにリーは、“しかし、今や(御父は)。。。人間性の中に受肉された。御父は御子にあってご自身の神性と人間性を結合したことに満足されている”[14]と書いている。
御父は御子となり、御子は御霊となったという概念は、他の面においても聖句と矛盾する。マラキ3:6では神は変わらない方であると言われており、しかるに様態論では神が変化されることを必然的に導くのである。イザヤ44:6ではわれわれには父(エホバ、イスラエルの王)があり、御子(あがない主、万軍の主)があり、彼らは同在することを言っており、同時に彼らは同一の神であるが、明確かつ直裁に異なった位格として現されているのである。ルカ22:42ではキリストが御父に、“私の思いではなく、あなたの御心がなりますように”と、祈るのである。そこには明らかな御父と御子の間の相違が見られ、しかも彼らは同時的に存在するのである。彼らは分離された(しかし決して対立することのない)意志を有しているのであり、ゆえに分離した位格であるはずであるが、しかし同一の神なのである。
ヨハネ14:26では、御父が聖霊をつかわすことを見ることができ、15:26ではイエスが御霊をつかわすことを見ることができ(また16:7も見よ)、さらに17:8と20:21では御父が御子をつかわしたことを知ることができる。ここにわれわれは三位一体における位格の間の完全な相違を見ることができるのである。彼らの内のどの位格も互いに他の位格に変化することはないのであり、またどの位格も互いに他の位格であることもないのである。すべての位格は永遠に別のものであり、人に対する神ご自身の啓示における一連の段階ではないのである。そのそれぞれが他の位格とお互いに異なった位格として関係を保っているのである。
地方教会はまた三位一体に関する、様態論的ではあるが、もう一つの別の見解を教えている。本論文の目的のために、この見解を“静的様態論(static modalism)” と呼ぶことにする。それはこの見解においては、一つの位格から他の位格への変遷が見られないからである。父、子、聖霊は分離されたものとして提示されるが、しかし同時的な各様態、あるいは人に対する同一の存在の啓示の相として扱われるのである。
静的様態論はリー氏の著作に次のように現われる:
彼は唯一の神ではあるが、しかし三重性(three-foldeness)の問題がある。すなわち、三重の位格−御父、御子、御霊が存在するのである[15]。
彼(御父)は内に隠された存在であり、御子は外に現された存在である。しかし外に現された存在は内に隠された存在であって、この両者はまったく一つなのである![16]
主に感謝することに、主はまた二つの端を有している。すなわち、天における端としては彼は御父であり、地上における端は御子であり、天における端として御父は祈りを聞かれ、地上における端として御子は祈るのである。彼は地上において祈る方であり、天において聞かれる方でもある[17]。
祈る御子は聞かれる御父でもある[18]。
したがって私たちに対して聖書は明らかに、御子は御父であり、御子はまた御霊でもあることを啓示している。でなければ、どうしてこれらの三者が一人の神であり得ようか[19]。
御子は御父でもあり、御子はまた御霊でもある[20]。
。。。主イエスは聖霊である。。。[21]。
上記の引用から、リー氏はまた、御父、御子、聖霊は同時に互いに他者であると教えていることは明らかである。すなわちある瞬間において、同時刻にあって、御子は御父であり、また聖霊でもあると言うのである。御父と御子に関する“両者はまったく一つである”という記述は、事実上、不明瞭である。すなわち、われわれは、“一つとは何か?”と問わざるを得ない。それに対するの回答は、同一の位格である、というものであろう。それは彼らが、神の三重性は“三重の位格”[15]であると言っているからである。これは聖霊もこの一つの位格に含まれていることを示唆する。ゆえにこれは上述したリー氏の教えである発展的様態論(developmental modalism)に真っ向から矛盾しているにもかかわらず、これは同時的非継承的様態論の教えであることは否定できないことである。
この教えに当てはまるキリスト教教義史における用語は一般的に言われる“聖父受難論 ”(Patripassianism;pater、父、と patior、受難、に由来)であろう。なぜなら、その教えは御父がキリストとして十字架上で受難を経たことを論理的に導くものだからである。Philip Schaff はこの範疇に入る思想家について次のように書いている:
Tertullian 派的“聖父受難論”と呼ばれる単一神論者の第二の範疇は。。。彼らの単一願望とともに、キリストの神聖を堅く保持しようとする深いクリスチャン的衝動を覚えていた。それに対して彼らはキリストの独立的人格を犠牲にしたのである。すなわち彼らはその人格を御父の本質と結合させたのである。彼らは、唯一の崇高な神がご自身の自由意志によって、また自己制限の行為によって、自分自身を人間となしたことのゆえに御子は肉に覆われた御父である、と教える。彼らはキリストにあって現された神以外のかなる神をも知らないのであり、彼らの論敵を二神論であると非難しているのである[22]。
この教義の最も有名な教師の一人はPraxeasである。彼について Shaff は書いている:
Praxeas はつねにイザヤ45:5、ヨハネ10:30をつねに強調し。。。あたかも全聖書がこの3つの文章でなっているかのように、御父ご自身が人になられ、飢え、渇き、苦しまれ、そしてキリストにあって死なれたのである、と教えている[23]。
他の二人の初期の思想家もこの教義を教えている。一人はローマのZephyrinus主教であり、もう一人は若干の変形があるが Callistus である。
Zephyrinus(201-219)と Callsitus(219-223)は(殉教者であり聖人である Hyppolytus の“Philosophumena”によると)異端である聖父受難論を保持し教えた。御父である神が受肉され、御子と共に苦しまれたと言うのである[24]。
Louis Berkhof はこの教義の最も傑出した教師であった Prexeas と Noetus について次のように書いている:
Prexeas は。。。御父が受難されたという主張は避けているように見えるが、Noetus はこの点に関して何ら躊躇することがなかった。Hyppolytus の言葉を引用しよう。“彼はキリストご自身が御父であり、御父ご自身が誕生され苦難を経て、そして死なれた、と言う。”同教父によると、文字通り御父がその存在の様態を変化させて、ご自身の御子となった、と彼は大胆に主張したという。その点に関する Noetus の表現は次のようになる。“御父がまだ生まれる以前には、彼はただ御父と呼ばれるだけであった。しかし喜んでご自身が誕生することに及び、彼はご自身にのみ由来し、かつそれ以外に由来することなく、御子となられたのである。”[25]
このNoetus の教義において継承主義(successionism)の開始を見ることができるが、上述及び他の引用に呈示された主要な教えは、父と子としての一人の位格(Person)の同時的同一性にあるのであり、それはまたウイットネス・リーも公言している点なのである。
サベリウス的(あるいは継承的)様態論と同様に、静的様態論も御言葉を確証し損なっているのである。父、子、聖霊の間の相違に関する聖書の主張は誤解の余地のないものである。すわわち、父と子は分離された、しかも決して相反することのない意志(複数形)を有していたのである(ルカ22:42)。また御父が御子をつかわし(ヨハネ17:8、20:21)、そしてイエスと御父は聖霊をつかわしたのである(ヨハネ15:26、16:7、14:26)。神は一人であると言っているヘブル書の言葉(申命記6:4;echod) においてさえ、その文脈の中に複数性の示唆があるのである[26]。ルカ3:22では御父が御子に向かって、“あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である”と言っている。もし御父と御子が同一の存在であれば、この言葉は無意味になる。ヨハネ1:1では“初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった”とあるが、これは同一の神(第三節)としての父と子の一体性、しかも彼らの個人としての相違性−なぜなら“神と共に”とあるからである−に関する完全な表現である。イエスが“私と父は一つである”と言われたヨハネ10:30においてさえ、そのギリシャ語は“私たちは”であるゆえに、その中には個人としての相違性が含まれているのである。
継承的あるいは静的様態論に反するこれらの聖書的証拠に基づいて、W.H.Griffith Thomas の様態論に関する一般的結論を理解することは容易である:
古典的及び近代的サベリウス主義は共に、いつの時代にあっても時の経過に絶え得るものではないことが証明されてきた。たとえ継承主義を有しない様式論であっても、聖書的論拠において適切とは言えない。教会歴史においてはサベリウス主義の繰り返えされる台頭とその拒絶の事実よりも、より重要であると言えることはほとんど存在しないのである。なぜなら、御父、御子、そして聖霊が単に一人の神の各相、あるいは表現であるとみなすことは完全に不可能であることはあまりにも明らかでであると容易に認められるからである。
リーの二つの様態論の教義もこの結論の例外であることはあり得ない。それらは聖書の証明に耐え得ない。それらは二つの古典的異端のリバイバルである。それらは聖書の証拠に対しても矛盾するばかりでなく、お互いに矛盾し合うのである。マラキ3:6において神の不変性が宣言されていることを故として、すべてのクリスチャンはそれらを拒絶すべきである。
これらの誤りの結果として、さらなる誤りの発生があり得る。リーの教えにおけるそのもっとも主要な点は、神が教会となった、あるいはその逆に、教会が神となるという教えである。ほとんどのクリスチャンにとっては、その様な教えはあまりにも信じ難いものであるために、誰かがそのようなことを真剣に教えているなどと信じることを拒絶する傾向がある。しかし、それはキリスト教の歴史において、実際に教えられ、拒絶されることを繰り返してきたのである。それは時として、“受肉の拡張(extension of the incarnation)”の教義と呼ばれたきたのである。
リーがこのことを実際に教えていることは明らかに彼の多くの著作において見ることができる:
肉における神の現われである教会。。。この教会は神が肉において現われたことの継続であり、その複製である。。。よって、われわれは肉における神の現われの増加であり、また拡大である。神はご自身を再度肉において現されたのであるが、しかしより広い方法でそうされたのである。。。言い換えると、神は人間と混ざり合わされたのであり、外的方法によるのではなく、内的方法によるのである。教会は神の表現であり、教義とか賜物の表現ではない[28]。
このキリストは一人の人から何千もの人々へと拡大されたのである。彼はかつては個人的キリストであったが、使徒行伝においては共同的キリストとなったのである[29].
(教会とキリストについて語って)数においてはわれわれは異なっているが、その本質においてはわれわれはまったく一つなのである[30] 。
御父は御子の中におられ、御子は御霊の中におられ、御霊は今やその御体の中にいる。彼らは今や一つにある四(four in one)なのである。すなわち、御父、御子、御霊、そして御体である[31] 。
肉とともに、神と人、人と神が一つに混ざり合うという経倫(economy)が開始された[32] 。
単に神ご自身によって存在へともたらされた最初の創造は、神ご自身によって死の中へと持ち込まれ、復活によって二重の性質をもった創造として現われたのである。すなわち、神と人の性質が結合されたのである[53]。
復活が十字架に続く。復活は神によって創造された人間性の標準を回復し、引き上げたのである。そして人間性を神の中へともたらしたのである。受肉によって神聖な本質が人の中へともたらされ、復活によって人間性が神の中へともたらされたのである。今や、人間性が単に創造されただけの本質であることは不可能であり。。。神は人と混ざり合い(mingled)、 人は神と混ざり合うのである。。。。三各位にある神がご自身をわれわれと混ざり合わされたのである[34] 。
そこで三一の神と復活された人が一つの表現となる日が来るであろう。。。[35] 。
地方教会は、教会が神となり、神が教会となる、と教えていることについて何らの疑問の余地もないところにわれわれは立ち至った。これは単にリー氏個人によってだけではなく、地方教会のメンバーの一人である Bill Freeman によっても、彼の著書“Mystery of Christ and the Church as one entity”[36]の中で言われているのである。もう一人のメンバーである John C.Ingalls も“Christis not only the Head, but also the Body”(i.e.教会)[37]を書いている。
そのような考えは自ずと神の本質そのものにおける変化を含意するものである。神は教会にならなくはならず、誰かが教会に加えられる毎に、神は増加しなくてはならないのである。リーが上に引用した著書における文脈の中で、教会を“肉において現された神の増加・拡大”であるとして記述するとき、彼は明らかに神ご自身の増加を示唆するものである。しかるにそのような教えはマラキ3:6の光の中では不可能なのである。そこでは神は“主なるわたしは変わることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない”と宣言されるのである。
パウロは神と被造物を混同している者たちに対して、コメントしている:
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである(ローマ1:20−23)。
コロサイ1:18ではキリストは“そのからだなる教会のかしらである”と言っており、ここの“かしら”は Kaphaleという単語であって、これはその一部ではなく、全教会の上に卓越した方として比喩的に意味するために使われる単語である(J.H.Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament, WheatonI11.: Evalgel, 1974, p.345;Kephale の項参照)。彼はからだではなく、全からだの(あるいは“に対する”)かしらである。
地方教会の神に関する教義は、したがって、神の御言葉に相反している。彼らは、最初に父から始めて、子へと、霊へと、そして教会そのものへと神が変化することを教えているのである。それは現実的な異なった御父、御子、聖霊の位格を否定するものであり、これらは人に対する神の啓示の諸段階であると言うのである。そうすることによって、それは論理的に御父、御子、御霊を否定することになるのである。これらはクリスチャンが異端として排除すべき教えである。
2。2。救いの方法
地方教会の救いに関する信仰は複雑であり、自己矛盾的でさえあるようにみえる。リー氏は最初に救いは単純なものであり、ただ主の名を呼ぶことの問題であると教えている。しかし他の文献においては、地方教会に加わることなくしては救われることはあり得ないと強く示唆している。彼がその二つの側面についてどう言っているか見ることは理解の助けとなるであろう:
未信者に接近するためには、何らの説教は不要であることを見てきた。彼らを補助して“おお、主よ”と三回言わせることができれば、彼らは救われるであろう。彼らが窓を開くならば、空気が入り込むのである。彼らがなすすべてのことは、口を開けて、“おお、主よ。おお、主よ”と言うことなのである。彼らが信じる意図がなくても、彼らは捕らえられるのである! 彼らが意図をもっていようがいまいが、彼らが窓を開く限り、空気は入り込むのである。それは教えの問題ではなく、七倍の神の霊に触れることの問題なのである[38] 。
ここにおける示唆は明確である。救われるために必要なすべてのことは、人が“おお、主よ、おお、主よ”と言うことなのである。他のものは何も要らないのである。必ずしも信じることは必要ではなく、信じる意図さえも要らないとは、いったいどういうことであろうか?救いは個人の信仰に何ら関係しないと、彼は言うのであろうか?
一方、リーと地方教会の書物において、人は地方教会にいることがなければ決して救われないと、彼らは信じていることの明確な示唆が見られる。“Finding Christ by the Living Stars”は3種類の星について語っている。“Living Star”、それはキリストご自身;“living stars”、それは地方教会のメンバーたち;そして“wandering stars”、 それは地方教会の外のすべての者たちのことである。リーは書いている:
もしわれわれがさまよう星々(wondering stars)に従うならば、 究極的にはわれわれの分も彼らのものと同じになるであろう。それは永遠の闇の暗さである。
。。。もしあなたの前に誰かが確固とした立場と定まったコースを持たずに現れたならば、彼を避けなさい。適切な立場は地方教会であり、正しい道筋は地方教会にある御霊とともに進むことである。決してさまよう星々となってはならない。またさまよう星々に従ってもならない。
。。。今日、あなたがたにとっても、私にとっても、そして誰にとってもキリストを見い出すためには生きている星(the living star) を見ることが必要である。ハレルヤ!今日、その星は我々から遠く離れた存在ではないのである。それは地方教会とともにあるのである。。。
今日その生きている星と生きている星々は地方教会にあるのである。これに従い、これと一つになろうではないか[39] 。
リーと地方教会にある者たちは、地方教会の外にあるすべての者たちを“さまよう星々(wondering stars)”と考えていることは明確である。 しかもこれらの“さまよう星々”の運命は“永遠の闇の暗さ”であると言うのである。明らかに地方教会と一つとなることによってのみ人は救われると言うのである。これは彼の言う“おお、主よ、おお、主よ”と言うだけで人は救われるということに矛盾している。では、どちらが本当なのであろうか?
聖書によれば、そのどちらも真理ではない。信仰がなくても“おお、主よ、おお、主よ”と言う者がすべて救われるという観念は真理ではない。キリストは言っておられる、“わたしに向かって、‘主よ、主よ’と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである。その日には、多くの者が、わたしに向かって‘主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか’と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、‘あなたがたをまったく知らない不法を働く者どもよ、行ってしまえ’”(マタイ 7:21-23)。ここでの文脈によれば、人を救うのは単に良いわざをすることとか、主の名を呼ぶことの問題ではないことを見せている。必要なものは信じること、あるいは信仰である(ヨハネ6:29、ヘブル11:6、ヨハネ8:24、使徒行伝 16 :31)。
地方教会は神に関する偽りの教義を有している以上、人が救われるためには地方教会の中にいなくてはならないということも真理ではあり得ない。われわれがリーの救いに関する教えの両面が神の言葉に相反することを見るのである。もしかりに地方教会が、偽りの信仰ではなく、神に関する真の信仰を有していたにしても、また救いに関する偽りの信仰ではなく、真の救いに関する信仰を有していたにしても、人が救われるのはただ一つのグループにおいてのみであるというようなことは、聖書がそのような排他主義に反対している以上、真理ではあり得ないのである(Iコリント1:12−13ff)。地方教会における排他主義は真のキリストのからだを分裂させるものであり、聖書に反するものである。
2。3。教会:地方主義の思想
人が救われるためには地方教会の中にいなくてはならないという教えと共に、リーは“地方主義(localism)”の教義を教えている。それは各都市には唯一のキリストのからだの代表があるべきである、というものである。もちろん、このゆえに地方教会と呼ばれるのである。地方教会だけがキリストのからだの真の代表として設立され、他のすべての教会は偽りであるというのである:
その都市において地方教会以外のどこかに入り込むならば、それはあなたが分裂することになる。あなたがその地方教会に属するならば、あなたは一を保つことになる[40]。
(サタンは)キリストのからだにおけるあらゆる分派、宗派、分裂を造りだす次の段階に入ったのである。。。神はこの時代にあっては回復のみわざをしておられる。神の回復のみわざとは何であろうか。。。それは適切な一の回復である。われわれの間におけるこれらの3つの回復がなされなければ、われわれは適切で正当な教会生活をもてないであろう[41] 。
以来すべての時代を通じて、宗教的人々は自分自身の道に従ったのであり、真に主を追求する者たち、また霊と命における真の主の追従者たちを迫害してきたのである。そして一方では自分たちは神の関心を顧みていると自分を弁護してきたのである。ローマ・カトリックとプロテスタントは、ユダヤ教と同様に、すべてこの範疇に入れられるべきものである。それらはいずれも神のエコノミーに対して損傷を与えるサタンの手先としての組織に堕しているのである[42]。
。。。今日教会生活を送らなくてはならないのであって、それはただ諸地方教会をのぞいては外に方法を持たないのである[43] 。
この教えの主要な二つの側面がある。第一に、リーは“地方主義”と呼ばれる教義を教えている。しかしながら、これはパウロがローマ人のへの手紙を書いたときの神の言葉において論駁されている:
キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。彼らは、わたしの命を救うために、自分の首さえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会も、感謝している。また、彼らの家の教会にも、よろしく。(ローマ16:3−5a)。
パウロはローマにある教会に手紙を書いたのであるが、パウロはそこの聖徒たちのグループに対して、プリスカとアクラの家にある教会によろしくと言っているのである。したがって、そのような初期の時代においてさえ、少なくとも二つの教会がローマにはあったことになるのである。教会歴史は一つの都市に複数の教会が存在したことは、使徒の時代にあってさえ、ごく普通のことであったことを見せているのである。Philip Schaff は初期の諸教会について次のように書いている:
礼拝のための特別な建物の最初の痕跡は Tertullian において生じた。彼は教会に出かけることを語ったのである。また彼と同時代の アレクサンドリアのClementにおいても見ることができる。彼は ekklesia という単語の二重の意味について言及した。ほぼ230年ごろ、Alexander Severus は、宿屋管理人(tavern-keeper)たちの反対に抗して、 ローマにおいて居所を得る権利をクリスチャンに対して認めた。なぜなら、いかなる形態にせよ神を礼拝することは宿の管理よりは良いことだからである。3世紀の中葉よりクリスチャンが40年以上の平穏を享受することができたために、教会の建造がきわめて熱心に行われるようになった(260 -303)。その結果あまりも早く増加したために、Eusebius によると、 より広い黙想の場所がどこにおいても必要となった。そして4世紀の初頭にあってはすでに40以上の教会群がローマには存在したと思われる[44]。
ある地域において、教会の数はその地域のクリスチャンの数に比例して、必要に応じて増加したことは明らかなことである。もしローマにおいて A.D. 300 年までに40存在したとするならば、使徒時代およびその後のわずかの期間においてもさらに増加したであろうことは明らかである。彼の教えの第二の側面は地方教会以外のすべての宗派(denominations) を断罪している点である[45]。リーはプロテスタントもカトリックもサタンの組織であると呼んでいる。これはキリストのからだにおける極端な分裂とみなされるべきものである。この教えはキリストのからだである教会に関するキリストの祈り、すなわち“父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためでありますそれによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを世が信じるようになるためであります”(ヨハネ17:21)に反する。地方教会の分裂的傾向はキリストに対立する。そしてそのゆえに、キリストが御父から本当つかわされたことを世が見ることを困難なものとしている。
地方教会は自分たちこそ、かつ自分たちだけが、その地域における真の教会であると主張している。他のすべての組織はサタンのものであり、地方教会の外側にあるそれらは正当な立場、あるいは正しい基礎に立つことができないと論じている。このゆえに、キリストのからだが、地方教会の誤りを指摘することによって、強力にかつ速やかにこれに応じ、人々に対して警告を発し、地方教会にある者たちに対しては、彼らがリーの誤りを知り、聖書的真理に立ち返るために援助を与えることが緊急の必要なのである。われわれは彼らの断罪に対して彼らを個人的に罪定めすることをもって応じるべきではない。われわれは彼らが教えられたことの誤りを指摘し、彼らを神の言葉で矯正し、地方教会にあるメンバーたちが聖書の真の教えを理解するために援助する必要があるのである。それは彼らが偽りの教えによって再び混乱させられることのないためである。
2。4。地方教会における聖書の占める位置
地方教会の教えにおいては聖書が霊感された無謬の神の言葉であると認識されている一方、地方教会のメンバーたちのほとんどの者たちは聖書によって治められているとは見えないのである。彼らの信ずるところは明らかに御言葉の研究によるというよりも、彼ら自身の経験によってより支配されていることは明らかである。このことに思い至ると、地方教会内部の葛藤を理解することが容易になるのである。地方教会のメンバーは神の言葉を研究したり、理解したり、あるいは学ぶことをしないように言われている。この思いと思考の拒絶は地方教会の教えの多くの混乱した性質を説明するものである。
地方教会は講義とか教義に関しては否定的な接近のし方を採っている。ウイットネス・リーは“教義にはただ主の子供たちの間の分裂を引き起こす作用しかない”[46]と書いている(これはリーの多くの教えと同様に、彼が“。。。われわれは確かに教義から助けを受けることができる”[47]と書いていることに矛盾している)。この態度によって、地方教会のメンバーが、聖書と注意深く照らし合わせて、自分自身の信じるところを真剣に考察することが困難なものとされている。これは神の言葉の教えに反する態度なのである。次のようにある:
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教えに耐えられなくなり。。。真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう(Uテモテ4:2−4)。
地方教会においては一般的に、教え、聖書とか神に関する知識、そして御言葉の学習に反対する傾向が見られる:
(イエスが)私たちと共におられる限り、われわれには規律とか、儀式、教義、形式などは不要である。。。あなたがたは集会に講義とか学習のために来るのか?われわれは集会に祝宴を求めて来るのである[48]。
地方教会の集会において、ただ“おお、主よ、アーメン、ハレルヤ!おお、主よ、アーメン、ハレルヤ!”という以外に私たちが何もしないことを想像してみなさい。もし主が私たちをこのように2時間導かれたとしたら、私たちは燃え上がることを私は信じる。誰もが燃えるであろう。これはよく知られているメッセージよりも何倍も何倍も優れているのである。どうしてであろうか?それは私たちがこの4つの単語を語るとき、神の御座の前にある七倍の霊に私たちが触れるからである。試してみなさい。そして神の七倍の霊があなたがたを燃やすことを知りなさい[49] 。
リーの聖書を学習することに対する態度は重要である。そこにおいて地方教会のメンバーの間において広く浸透している聖書に関する混乱と誤解の大半が説明され得るのである。それは御言葉の“祈り読み”と称される教義と関連している。それはリーによって次のように説明されている:
。。。祈るために目を閉じる必要はない。思いを閉じるほうがはるかに良いのである!。。。ただ聖書を学ぼうとすべきではない。聖書は命の書であって知識の書ではないことを理解する必要がある。この書は生きている御霊の神聖な形態であって、彼は命なのである[50] 。
単純に御言葉を採り上げ、朝と晩に数節を祈り読むのである。あなたは何かを絞り取るために思いを使う必要はまったくなく、自分が読んでいる所を考える必要もない。。。思いは閉じられている方が良いのである!例えば、ガラテヤ2:20を祈り読む時には、その印刷されたページを単純に見るのである。そこには“私はキリストと共に十字架につけられた”とある。そこで目をその御言葉に置き、あなたの内側深くから言いなさい、“主を賛美します、‘私はキリストと共に十字架につけられた’ハレルヤ!‘キリストと共につけられた’アメーン、‘私は’おお主よ、‘私は十字架につけられた’主よ、賛美します!‘キリストと共につけられた’アーメン!‘私はキリストと共に十字架につけられた’ハレルヤ!アーメン!‘しかし’アーメン、‘私は生きている!’ハレルヤ!アーメン!‘私ではなく、キリスト’etc”。
。。あなたは文章とか祈りを構成する必要はまったくない。ただ御言葉を祈り読みなさい。聖書の言葉をそこに書いてあるままに祈りなさい。究極的には聖書全体が祈りの書になることを見い出すであろう!聖書のどのページでも開いて御言葉のどの部分からでも始めればよいのである。。。御言葉の説明とか解釈は不要である。ただ御言葉で祈りなさい。御言葉を読むこと、研究すること、理解すること、学ぶことを忘れなさい。御言葉を祈り読むことが必要なのである[51] 。
このような教えは地方教会のメンバー自身が注意深く聖書の言葉を研究することを阻害するようにみえる。そして結果として、その団体的教えを、疑問を呈することなく受け入れることを奨励する結果となるのである。このような示唆だけでもIテサロニケ5:21に反しているのである。そこでは“すべてのものを識別して”と言われている。しかしながら、問題はさらなる深刻さを有している。
知識を嫌うことはパウロの祈り、すなわち“あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り。。。神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである”(コロサイ1:9−10)に相反する。“御言葉を読むこと、研究すること、理解すること、学ぶことを忘れなさい”というアドバイスはUテモテ2:15に対立するのである。そこでは“あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じることのない練達した働き人になって、神に自分自身をささげるように努めはげみなさい”とある。
御言葉を“学ぶ”ことに反対するアドバイスはUテモテ3:15に反する。そこでは“また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている”とある。学ぶことに反対する態度はまた、Uテモテ3:16−17のパウロの言葉、“聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである”に相反する。
聖書を読んだり、祈るとき、思いを閉じるという考えは神の御言葉に反する。パウロは“わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊で賛美を歌うと共に、知性でも歌おう”(Iコリント14:15)と書いている。またそれは詩篇の作者の霊にも矛盾している。すなわちつぎのようにある:
あなたのあかしは驚くべきものです。それゆえわが魂はこれを守ります。御言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。わたしはあなたの戒しめを慕うゆえに、口を広くあけてあえぎ求めました。。。あなたの約束にしたがって、わが歩みを確かにし、すべての不義に支配されないようにして下さい。。。み顔をしもべの上に照らし、あなたの定めを教えてください。。。あなたのあかしはとこしえに正しいのです。わたしに知恵を与えて、生き長らえさせてください(詩篇119:129−131、133、135、144)。
ここには“御言葉を読むこと、研究すること、理解すること、学ぶことを忘れよ!”と語る者との間に明らかなコントラストが存在する。
さらに、御言葉の“祈り読み”の実行を特徴付ける単なるくり返しと叫びは、パウロの教えと比較されるべきである。パウロは書いている、“俗悪なむ話しを避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に陥っている”(Uテモテ2:16)。それはまたイエス・キリストご自身も祈りについて語ったとき非難している:“また祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな”(マタイ6:7、8)。
地方教会の聖書の用い方および祈りの方法は聖書に反していることは明らかである。それは神の言葉そのもの、御言葉が教えている内容、神ご自身、神と個人との関係、その他に関する一般的混乱の誘因となり得る。さらに、それはあらゆる事柄、聖書の内容も含めて、に関する地方教会の教えを有無を言わずに飲み込まねばならない雰囲気の醸成に寄与している。これはリーの自分自身の教えに関する主張と対をなしている:
これらの言葉は単なる教えではなく、私が35年以上にわたって実行し経験してきたことの強力な証しなのである。私はこの幻にずっと捕らえられている。主のあわれみによって、私は自分の道あるいは調子を決して変えたことがない。そして多くの諸地方教会が、これこそ主の道であるという議論の余地のない証しとして、多くの都市で建て上げられてきているのを私は見てきているのである[52]。
これを私の教えであると思ってはならない。これは主の啓示である。主は回復しておられる。主は今それをなしておられる。われわれは変化しなくてはならない。悔い改めよ!あなたの観念を変えよ!葬られよ!新郎としてのイエスをエンジョイせよ![53]
リー自身の教えに関する高揚したこれらの宣言は、聖書を学び考えることを深刻に否定することとあいまって、地方教会を不動の忠誠心へと導くのである。そのような宣言はメンバー相互の交わりに深刻なダメージをもたらす原因となるのである。しかもそれは完全に非聖書的なのである。このような教えは神および救いと教会を損傷するばかりでなく、祈りに関して、神の御言葉の学びに対して損傷を与え、さらにそれはIテサロニケ5:21に反する有無を言わずに思想を受け入れる実行を助長するものである。宗教的思想の中で十分な吟味を経る必要のないものは存在し得ないのである。われわれは地方教会のメンバーが高貴なベレヤ人のようであることを奨励するものである。彼らは“心から教えを受け入れ、果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた”(使徒行伝 17:11)のである。ここでルカはベレヤ人が“高貴(noble)”であったことをみせているが、それは彼らが聖書によってパウロが述べ伝えた福音でさえ吟味していたからである。聖書によるパウロの福音さえも吟味していたベレヤ人が“高貴”であるならば、いわんや地方教会のメンバーとその関係者はリー氏の教えを吟味することをゆめゆめ怠るべきではないのである。
2。5。罪とサタンに関する地方教会の観念
われわれが地方教会の罪とサタンに関する教えに接近するとき、われわれはリーの独善的教義のルーツに思い至るのである。そして彼のその他のすべての教義がそこから生え出ていることを見い出すのである。リーはまず、パウロが人の内にある罪深い性質としての“肉(flesh)” に言及している各節を引用し、それらから罪自身が人の肉であると定式化している。
この点に関するリーの思想の流れを見るために、“神の永遠のご計画(The Economy of God)”からの抜粋を見てみよう:
神に創造された人の体は当初とても良いものであった。しかし今やそれは肉となった。体はもともと良いものとして創造されたから、純粋なものであったが、サタンによってだめにされた結果、それは肉となったのである[54]。
この中立的な、無罪の人が神ご自身を自分の中に取り入れることが神の意図だった。それは神と人、人と神が一つとなり共に混ざり合うためであった。。。。しかし、人が死の源である第二の木を取るように誘惑されたとき、別の可能性が生じた。結果として人は第二の木と混ざり合ってしまった。おお、私たちの目が開かれて、この全宇宙において、それは単に倫理とか善を行う問題ではなく、神を命として受けるか、サタンを死として受けるかの問題であることを見ることができるように[55]。
アダムが知識の木の実を食べたことの意味は、彼がサタンを自分の中に取り入れたことなのである。。。サタンは彼の内で成長し、彼の一部分となったのである[56]。
体は罪(Sin)の住居となり、そして罪はサタンの実体化(embodiment of Satan)である。。。この堕落し、変質された体は“罪のからだ”、“死のからだ”と呼ばれている。なぜなら、このからだはまさにサタンの住居とされたからである[57]。
(堕落の後)サタンは、人を乗取ることに成功して誇り喜んだ。しかし、まだ人の外にいる神は、“私もまた肉体をとろう。サタンが人の内に入り込んだのなら、自分もまた人の内に入ろう。そして自分の上に人を着よう”と言われたかのようだった[58]。
からだはサタン的であり、悪魔的である。それはサタンがその中に住んでいるからである。あらゆる情欲がこの肉と呼ばれる堕落した体の内に存在する。。。。サタンは、堕落の時から、人の内に住んでいるのである。これが人が第二の木を取ったときに起こったことである。。。サタンと人は第二の木によって一つとされた以上、サタンは人の外側ではなく、人の内にいるのである[59]。
キリストは神の具体化したもの(embodimennt of God)であり、罪はサタンの具体化したもの(embodiment of Satan) である。。。罪はわれわれの主人となることができる。よって罪はあの邪悪な者、サタンにちがいない。堕落の後サタンは人の内側に罪(Sin)として入り込んだ。そして人を支配し、傷を負わさせ、堕落させ、治めている。その部分においてだろうか。サタンは人の肉体の肢体にいるのである[60]。
人の問題は、よって、罪である。罪は、リーによれば、サタンである。サタンは人の肉の中に入り込み、人を支配している。こうしてサタンは人を完全にその手中に治めたのである。そしてこの支配は神がサタンと同じ様に人の内に入り来ることによって断ち切られるというのである。リーの教えは続く:
主イエス・キリストが肉体を取られたとき、彼は“罪の肉の様”であった。。。。キリストが十字架にかかったとき、彼はへびの“様”をした人であった。へびはサタン、悪魔、神の敵である。しかしキリストが人として受肉したとき、彼は罪の肉の様を取った。それはサタンの様でもあった 。。。神が人となり、その人をサタンとともにご自身の上に着られ、神はその人を十字架へともたらしたのである。サタンは自分が成功したと思い込んでいたが、しかし彼は自分自身を死に渡す簡単な道を主に提供しただけであった。。。人を捕らえることによって、彼(サタン)は人の内に捕らえられ、閉じ込められたのである。続いて主が来られ、ご自身の上に人を着られ、彼を十字架へともたらした。。。同時に堕落した人の内にいるサタンも死にわたされたのである。。。キリストは人をサタンとともに死に渡し、サタンを置いて死と墓から人をよみがえらせた。彼はサタンを墓に置き去りにして葬ったのである。そしてこのよみがえらされた人はキリストと一つである。。。復活によって人は神と一つとされた。受肉によって神は人の中に来られたが、復活によって人と神は一つにされたのである。今や神は人の霊の内にいる[61] 。
ここの論理の筋書きは明確である。神は最初ご自身の表現のために人を創造された;サタンが善悪を知る知識の木の実を食べるように人を誘惑した;それをした結果人の中にサタンが入った;サタンがそこにいる限り人は神を表現できない;そこで神はご自身の上に人を着ることを意図した;それはまずキリストの受肉によって実現され(この受肉は後程すべての信者に拡大する);神は人とサタンを死に渡すためにキリストを十字架にもたらした;最後に神は人とキリスト(神ご自身)を死からよみがえされ;結果として人は神を完全に表現できるようになった、というわけである。これらの諸点を聖書と照合してみよう。
彼の教えは罪をサタンと同一視することから生じる。ここでリーは、罪を人格化してサタンとするのか、あるいはサタンを非人格化して罪とするのか判定することは困難である。そのどちらにしろいずれも聖書の見解ではない。聖書では罪とサタンの間の明確な相違を見せている。罪は神とその御言葉に対する不従順あるいは不忠誠であると啓示されている(ローマ3:20、4:15、7:7−25、特に15−16節)。罪は時に聖書において、あたかもそれ自身の意志を持つかのように、人格化されているが、これは例証的言葉使いであることは容易に分かる。一方において、サタンはある特定の人格を有した存在、堕落した天使として現されている(Uコリント11:14−15、Iコリント5:5、ヤコブ4:7、Iペテロ5:8)。そこで罪をサタンと呼ぶことは正当ではない。
この誤りはさらに重大な誤りを導く。禁断の実を食して人が罪人になった以上、リーは、人がサタンを自らの中に入れてしまい、人の文字通りのからだはサタンの具体化かつ居所となったのである、と推論する。しかしこれも聖書に反している。それは人の罪深い性質の陰喩としての“肉”という用語のパウロの使い方を誤って解釈し、実際の“肉体”そのものを邪悪であるとしているのである。しかしパウロはわれわれの文字通りの肉体をそう言ってはいない。それどころか、彼は、からだは神の創造物であるから、道徳的には中立、一般的には良いものであると考えているのである。彼はからだはただ罪の束縛の下にある(ローマ 7 :17、18、24)、ゆえに滅びに定められている(ローマ8:18−23)、と言っている。これが彼が“肉のからだ”(Iコリント15:44)と呼んでいるものである。しかしそれが死人の中からよみがえらされ、朽ちないものを着せられるとき、肉体そのものが“霊のからだ”に変化されるのである(ルカ24:39、ヨハネ2:19−21、Iコリント15:44−54、ローマ8:11)。肉体は邪悪なものではなく、罪の具体化でもないのである。
肉体が邪悪であるという誤りは、別のさらに重大な誤りへと導く。リーはサタンは人と一つになることによって、人に受肉することによって、すべての人を堕落させたと信じている。それによって、彼は、神が人と一つになることによってのみ、神は人を救うことができると信じざるを得なくなるのである。それについて彼は次のように言う、“神は。。。‘私もまた受肉しよう。サタンが自分を人の中にもたらしたならば、私も人の中に入り、人を着よう’と言われたかのようであった”[58]と。サタンがすべての人の中に受肉しているというリーの思想から、神がその中に入った人がすべてクリスチャンになるのであるという思想が導かれるのは論理的必然である。そして、すでに見てきたように、教会は受肉した神の表現であるという教えも必然的に導かれるのである。
神、人、救い、教会、罪、そしてサタンの教えに関して二つの平行する路線が存在する。まず、罪とサタンは一つかつ同一のものである。堕落のときサタンが人の中に受肉した。したがって、すべての人はサタンの受肉である。そこで人をあがなう唯一の道は神がその人の中にサタンに代わって受肉することである。神は最初キリストに受肉し、聖霊によってキリストのからだである教会に受肉した。次に、神は人をご自身の表現のために創造された。人は堕落した。御父は神が受肉した最初の人である御子となった。彼は死に、サタンを墓に残し、復活し、聖霊となった。その御霊が信者の中に来たり、教会が肉において現された神となるために信者の中でその受肉の継続をする、というのである。
これらすべては神の言葉に反している。それは神の変質を余儀なくするからであり、神の本質に反するのである。それはキリストの唯一性を奪い取るものであり、ヨハネ3:16に反する。それは罪とサタンを混同しており、物理的肉体を邪悪であるとする非聖書的見解を取っている。また救われた人を神と混同し、イザヤ43:10、マラキ3:6、民数記23:19に反している。しかも創世記3:5においてサタンによってエバに提示された過ちを受け入れている。
3。結 語
われわれの結論は、ただ、ウイットネス・リーと地方教会の基本的教えは異端的で危険である、というものである。われわれは地方教会にいるクリスチャンのために祈り、彼らがリーの誤りに気付き、われわれの足の灯火であるイエスと神の言葉にある真理に立ち帰るように彼らを援助すべきである。地方教会の多くの基本的教えは偽りである。そして偽りを引き起こすのはサタンとともに人の肉の性質である(ヨハネ8:44)。そのような教えは暗闇であり(エペソ6:12)、しかるにクリスチャンは闇の中を歩んではならないのである(Iヨハネ 1:5-7)。神が光の中におられるように、われわれもまた光の中を歩むべきなのである(Iヨハネ1:7)。
文献と脚注
1. Wittness Lee, The Practical Expression of the Church ( Anaheim: Stream ) ,1974, pp. 92,111.
2. より詳細な記述と聖書的根拠に基づいた三位一体の教義については、Charles Hodge, Systematic Theology (Grand Rapids, Mich.:Eerdmans ), 1973, Vol.I, ch. vi., pp.442ff., および他の systematic theologies(組織神学)の文献を参照。
3. Witness Lee, The Economy of God ( Los Angeles: Stream ), 1968, p.10.
4. Witness Lee, "Concerning the Triune God" ( Los Angeles: Stream ), no date, p. 31.
5. Ibid.,pp.8-9.
6. Lee, The Economy of God, p. 11.
7. Lee, "Concerning the Triune God", p.8, ()は筆者による。
8. Ibid., p. 8.
9. Lee, The Economy of God, p. 11.
10. Lee, The All-Inclusive Spirit of Christ ( Los Angeles: Stream ), 1969, pp.4,6,8.
11. Louis Berkhof, The History of Christian Doctorines, (Carlsile, Pa.: Banner of Truth Trust ),1975, p.79; cf. pp. 78-79. Abraham Kuyper 博士はサベリアン主義について次のように書いている:“。。。サベリウスは。。。御父、御子、聖霊は結局のところ一人の位格である;それは最初御父として創造をもたらし、われわれのあがないのために御子となり、今やわれわれの聖化の完成のために聖霊となっている、という結論を得た。” (Kuyper, The Work of the Holy Spirit, Grand Rapids: Eerdmans, 1975,p.45.) William Kelly は次のように書いている:“その名称は3世紀のサベリウスから採られた。。。これは父、子、聖霊の3人の位格を、人を神が取り扱うことを目的とした神格の3つの特性、様態、あるいは関係性に帰着させるものである。よって神は永遠に本質的には一であるが、しかしエコノミカルには、すなわちある特定の目的のためには、神は3つの形態、御父、御子、聖霊を取るのである。。。”( Kelly, "Sabellianism" in E. F. Harrison, ed., Baker's Dictionary of Theology, Grand Rapids: Baker Book House, 1975, p. 465.) Augustus Strong は次のように書いている:“。。。サベリウスとシュライエルマハ(Schleiermacher)は唯一なる方(the One)が啓示の過程において3となった。そしてその三者は啓示における単なる媒体(media)あるいは様態(modes)である。神聖な本質には何らの区別があるべきではないゆえに、父、子、聖霊はこれらの神聖なる行為の様態につけられた名称にすぎない。これが様態論あるいは様態論的三位一体である”(Strong, Systematic Theology, Old Tappan, N.J.: Revell, 1976, p. 327.) Phillip Schaff は次のように書いている:“他 の単神論者は御父と御子の関係にその追求の方向を向けたが、サベリウスはその推論において聖霊と取り組み、本質的同時存在的三位一体性ではなく、啓示における継承的三位一体性にたどりついた。彼は神性における一性(monad)と三性(triad)の相違から開始した。彼の基本的考えは、神の唯一性は、それ自身における区別がないまま、啓示の3つの異なった形態と期間における世界の進展の過程の中にも保持されかつ拡張されべきであり、そしてあがないが完成した後、再度唯一性へと回帰する、というものである。御父はご自身を律法と旧約のエコノミーにおいて現された。。。;受肉における;御子。。。霊感する;聖霊。。。”(Schaff, History of the Christian Church, USA: Associated Publications and Authors, no date, Vol. II, p.262.)
12. Lee, The Economy of God, p.10.
13. Lee, "Concerning the Triune God" ,p.8.
14. Lee, The Economy of God, p.11, ()は筆者による。
15. Lee, "Concerning the Triune God", p.11.
16. Ibid., p.8 ()は筆者による。
17. Ibid., p.28.
18. Ibid., p.25.
19. Ibid., p.23.
20. Ibid., p.17.
21. Ibid., p.20.
22. Phillip Schaff, History of the Christian Church, II:26. William
Nigel Kerr は次のように書いている:“聖父受難論者たちは。。。様態論者とともに三位一体の位格を混同し、一人のキリストの人格にあった二つの 性質の結合を否定している。単一神論を擁護するために、彼らは、神は唯一 の本質をもたれる以上、3人の位格が存在し得ることはなく、ただ表現上の 3つの様態が存在するのである、との見解を採る。よって、御子は人の形態 で現された御父である。Noetus はキリストが御父であり、御父が誕生し、 苦難を受け、十字架上で死なれた、と言う。このゆえに聖父受難論という”(Kerr, "Patripassioanism", in E.F. Harrison, ed., Baker's Dictionary of Theology, pp.396-7.)
23. Philip Schaff, History of the Christian Church, II:260.
24. Philip Schaff, The Creeds of Christendom ( Grand Rapids: Baker), 1977, Vol.II,p.177.
25. Louis Berkhof, The History of Christian Doctorines, p.79.
26. echod とその語源については William Gesenius, Hebrew and Chaldee
Lexicon to the Old Testament Scriptures, trans. & ed.,S.P.Tregelles( Grand Rapids: Erdmans ) ,1974, pp.28-29.
27. W.H.Griffith Thomas, The Holy Spirit of God,(Grand Rpids: Erdmans ), 1976, p.129.
28. Witness Lee, The Economy of God, p. 199.
29. Lee, "Life-Study in Matthew, Message One"( Los Angeles :Stream),no ate , p.3.
30. Lee, The All-Inclusive Christ ( Los Angeles: Stream ),1969, p.103 () は筆者による。
31. Lee, The Practical Expression of the Church, p.43.
32. Lee, The God of Resurrection ( Los Angeles :Stream), no date, p. 4. 33. Ibid, p.12.
34. Lee, The Economy of God, pp.206-207;ここではリーは神における“3人の位格”について語っているが、これで彼が様態論者ではないという弁明にはならない。彼はその“位格”という単語を、その本来の意味に似せるために改めて定義し直したにすぎないのである。Berkhof は“サベリウスは時に三人の神聖な位格について語っていた。しかし‘位格’という単語をその元来の意味において用いており、それはすなわち行為の役割あるいは表現のための様態という意味においてである”( History of Christian Doctorines, p. 79 ) リーも同様であることは明らかである。
35. Ibid., p. 113.
36. Bill Freeman, The Testimony of Church History Regarding the Mystery of the Mingling of God with Man ( Anaheim, CA.: Stream Publishers),1977, p.5.
37. John C. Ingalls, "The Truth Concerning God Manifest in the Fresh, "The Response of Witness Lee and Local Church To a Recent Meeting held at Melodyland" in the Santa Ana, CA., Register, October 8,1977, という広告に載せられた短い記事。 ()は筆者による。
38. Lee, Stream Magazine, VIII: 1, Feb. 1, 1970, p. 6.
39. Lee, "Finding Christ bu the Living Star", ( Los Angeles,: Stream ), 1970, pp. 27-28.
40. Lee, "The Vision of the Church", (Los Angeles: Stream),no date, p.9.41. Lee, "Satan's Strategy Against the Church", (Los Angeles: Stream) , no date, pp.6,8, ()は筆者による。
42. The Recovery Version of Revelation , (Anaheim: Stream),1976, p. 17.
43. Lee,"The Churches",( Los Angeles: Stream), no date, p. 12.
44. Schaff, History of the Christian Church, II: 93.
45. 地方教会にある者たちが地方教会を一つの宗派(a denomination)とみなさない点は面白いことである。宗派とは名称を冠した単なる(通常宗教的)団体のことをいうのである。地方教会もこの記述にあてはまる。
46. Lee, The Economy of God, p. 23.
47. Lee, The Economy of God, p. 24.
48. Lee, Christ vs. Religion (Los Angeles: Stream), 1971, pp. 14-15, ()は筆者による。
49. Stream Magazine, VIII:1, Feb. 1, 1970, p. 5.
50. Lee, "A Time with the Lord"(Los Angeles: Stream), no date, pp.10,11.51. Lee, "Pray Reading the Word"(Los Angeles: Stream), no date, pp.8-10.52. Lee, "The Vision of the Church", pp.10-11.
53. Lee, "Christ vs. Religion", p.13.
54. Lee, The Economy of God, P.108.
55. Ibid., pp. 106-107.
56. Ibid., p. 107.
57. Ibid., p. 109.
58. Ibid., p. 109,()は筆者による。
59. Ibid., p. 109.
60. Ibid., p. 108.
61. Ibid., p. 109-112, ()は筆者による。