本稿を始めるに当たって,まず地方教会とその指導者ウイットネス・リーは,本書で扱われた他のグループとは次の点において異なっていることを述べておきたい.すなわち全般的に地方教会は,教義の主要な諸点とクリスチャンの実行に関して混乱させられたクリスチャンから構成されている点である.われわれは,聖書に調和していないこのグループの教義ならびに実行と,混乱させられたクリスチャンである地方教会の構成員とを明確に区別すべきである.専門的に言うと,ウイットネス・リーの地方教会はノン・クリスチャン的カルトと呼ばれるべきではないが,しかしその神学と実行のいくつかの諸点はカルト主義の強力な要因を有しているのである.
歴 史
老齢な中国人ウイットネス・リーの導きと指導の下にある地方教会は,もともと東洋において誕生し,60年代の初期に西洋世界へともたらされ,すでに30年の歴史を有している.
リーはその宗教活動を中国において,中国人クリスチャン神秘主義者ウォッチマン・ニーの指導のもとで開始した.中国において1923年に出発点をもつクリスチャン敬虔主義の運動であり,ニー自身が“小さな群れの運動”呼んだ一群をニーは統率した.ウォッチマン・ニーのもとにある諸教会で働く間にリーは上海とフィリピンにおいて有力な働き手としての地位を高めた.1
リーは中国の Chefoo 地区で1905年に生まれた.彼はキリスト教と仏教の影響下に育ち,1925年にキリストに対する公の宣言をなした.2 1927年にウォッチマン・ニーのグループが出版する雑誌を学び始め,その後その運動のための宣教を開始した.それから数年後,彼は Chefoo における“小さな群れ”を統轄するようになり,それは1946年にウォッチマン・ニーの働きを援助するために Foochow に移住するように要請される時点まで続いた.3
ウォッチマン・ニーの有名な伝記作家 Angus Kinner によると,ウイットネス・リーは−
...精力的,権威主義的,大風呂敷を広げ,人々を統率する才に秀でており,...ウイットネス・リーはもちろん注意深く“組織”の概念を避けてはいものの...しかし彼は教会の構成員に対して服従することを要求した.“許可なしに何事もしてはならない”と彼は強調した.“堕落から後,人間は自分を喜ばすことをなしてきた.ここには秩序がある.ここには権威がある.教会は厳格な訓練の行われる所である.”4
ウイッチマン・ニーが投獄されて後,ウイットネス・リーと“小さな群れ”の他の指導者の間に,教義と実行に関するいくつかの食い違いによって分裂が生じた.リーは最終的に1950年代の初期において台湾とフィリピンの教会の多数の構成員を獲得して,自己の支配を打ち立てたのである.
ウイットネス・リーは中国においてウォッチマン・ニーと彼の追従者たちの用いた小さな群れ運動の計画に範をおいた.キリストの体は各地においてただ一つの集会において表現されるべきであるという思想に基づいて諸教会が設立された.これはしばしば“地方主義”の教義と呼ばれるが,それが“地方教会”なる名称の由来でもある.
1962年にリーは最初のアメリカ地方教会をロスサンゼルスに設立した.以来その運動は,1978年の分裂によって構成員の一部が失われるまで,劇的にではないが着実に成長した(注).地方教会の幾人かのスポークスマンは全世界における構成員の数は 60,000 人であると公表しているが,実際には 20,000 人あたりであろう.われわれは 7,000 人が台湾とフィリピンに,5,000 人が合衆国に,その他の 8,000 人が世界の諸地域にいることを確認している.
(注)この分裂については後程詳しく触れる。
ロサンゼルスにある地方教会の基礎は“主の新しい動き”5と呼ばれ, リーの運動のアメリカ化の拠点とされた.初期において非中国人の人々に対する活発な勧誘がこころみられた.それぞれの教会はその集会の置かれている町の名前をもってその名称としている.アナハイムにある教会は全世界での中心拠点とみなされ,そこからリーがその統轄力を行使している(注).リビング・ストリーム・ミニストリーはその運動の出版部門をにない,アナハイムに置かれている.
(注)彼らは"指導部"とか"統括部"、さらには"会員制"などは存在しないと主張するが、これは真実ではない。
地方教会と他のクリスチャンの間の問題は些細なものではあったが,1974年までには拡散して行った.1974年にリーに追従する諸教会は以前よりも公に自らへと改宗させる運動を始め,“組織化されたキリスト教”に対する軽蔑感をより明白に表明し始めたのである.北部カリフォルニアの教会の構成員は他の教会の礼拝を阻止することを開始し,他のクリスチャンの団体を“バビロン”であると称し始めた.このような実行は他の諸地方教会へも速やかに広がって行った.
1974年夏期,Robert 及び Gretchen Passantino (Christian Research Institute 並びに Christian Apologetics: Reserch and Information Service の研究員)は地方教会の教えと実行に関する調査を行い,その調査結果を講義した.Spiritual Counterfeits Project(在バークレイ,カリフォルニア)と単独研究者 Jack Sparks もまたその運動に関する批判的文書を出版した.Pssantinoの講義に加えて, CARIS もまた Pssantino による地方教会に関するディスカッションのためのラジオ番組を組んだ.後にJack Sparks の著書 The Mindbendersと Spiritual Counterfeits Project の著書 The God-Men はこの団体の誤った教えに関して論じている.
Christian Research Institute は地方教会の教えに関する小冊子を出版し,1978年にさらにもっと詳細に論じた論文を提供した.その運動の誤った教えを暴露するためのクリスチャンによるこれらの努力は,まもなく地方教会の構成員によって攻撃を受けることになった.
1977年10月に地方教会が合衆国における主要な新聞紙上に大規模な広告を打ったとき,議論の場はマスメディアの中へともたらされた.それは10月の第一週の日曜日にメロディランドのクリスチャン・センターでの講義においてWalter Martin 教授がなした主張に真っ向から挑戦するものであった.最初の広告に次いで付加的な広告がなされたが,複数の第三者の見積によると,単にWalter, Pssantino 兄弟, Sparks, SCP, CRI そして CARIS の主張を否定する目的だけに地方教会が費やした広告費は$50,000に上るものと推計されている.
しかしながら,地方教会によるこうしたメディア戦術もウイットネス・リーの教えの正当性を証明することに有効であったとは言えない.1978年9月にその時点で地方教会のナンバー2と目されていた(また一部においてはリー亡き後リーの有力な後継者であるとみなされていた) Max Rapoport が地方教会から脱退したのである.リーの権威に対するこの強烈な打撃に続いて,さらに有力な二人の評価されていた指導者であった Gene Ford と Sal Benoit の離反が続いた.彼らの離脱に際して彼らに追従した人々の数はきわめて小数であったと3つの教会当局は公表している.ボストンの地方教会の指導者であった Sal Benoit は次のように語っている“出てみて初めてそこが陰険で暗いところであることが分かった.そしてどうしてそのような中にいることができたのか,またそれを見抜くことができなかったのか驚くのです”.
今日そのセクトは内部の問題と多くの構成員の脱落によってダメージを受けてはいるが,地方教会は今だにリー個人によって運営されており,山ほどの書籍とテープなどをその構成員たちに配布しているのである.
教会の構成
すでに言及したとおり,地方教会の主要な教義のひとつは,キリストの体は一つの都市において一つの集会においてのみ表現されるべきであるとものである.この“地方主義”の教義はウォッチマン・ニーが中国においてその考えをもっと穏やかな形で主張し始めたときに諸問題を引き起こした7.そしてその問題は今日までウイットネス・リーのもとで継続しているのである.
地方教会がどの地方にもただ一つのキリストの体の現れがあるべきであると言うとき,それは各地方に調和を保った多くの集会が混在することを意味するものではない.それは地方教会以外の集会を除いては他の神の民の集会はあるべきではないと言うものである.リーは自らの追従者たちのみがその置かれた地方においてキリストの体を現し得るのであると語っている.彼は言う,“ローマカトリックとプロテスタントは,ユダヤ教と同様に,神のエコノミー[地方教会]に対してダメージを与えるためのサタンの道具としての組織に成り下がっている”8.
[サタンは]あらゆるセクトや教派,そしてキリストの体における分裂を造るための次のステップをとった...神は今日それを回復するために働いておられる.神の回復の道とは何か?...正しい一つとは何か?私たちの間においてこれらの三つの事柄が回復されるまでは正常で正当な教会生活を持つことはできないであろう.9
よって,二つの都市バビロンとエルサレムはお互いに反目し合うのである.これらの二つの路線は今日まで継続している.[地方]教会は今日のエルサレムであり,ローマカトリックは今日のバベル,バビロンであり...ただ純粋で正当な地方教会のみが今日エルサレムの路線にあるのである.10
大いなるバビロンとは何か?それは各キリスト教の教派の混合である.大いなるバビロンとは多くの淫らな娘達の淫らな母親である.ローマカトリックはその母親であり,各教派はその娘達である.11
...今日に至るまでの何世紀にもわたって,宗教的な人々は霊と命において主に従う人々を迫害するための自らの道を行った.しかるに彼らは神の御旨を擁護しているのであると考えているのである.ローマカトリックとプロテスタントはユダヤ教と同様に神のエコノミー[地方教会]に打撃を加えるためのサタンの道具としての組織に堕しているのである.12
今日のキリスト教に欺かれてはならない.キリスト教は虚しい言葉で満ちており,特に教会に関してはそうであるが,それらの言葉はほとんど実際的ではない...もし地方教会がなければ,教会を得ることはできないのである.神はキリストにあって表現された(注).キリストは教会にあって表現されるのであり教会は地方教会によって表現されるのである.13
...すべての教派を考えてみよ.それらはただ分裂と混乱である.すべての教派は神の中心路線から逸脱しているのである.ある教派は幾分か大きいが,他のものは小さい.あるものはまったく異なっているが,またあるものは類似している.しかしそのどれもが中心路線にはないのである14.
ユダヤ教はサタン的である.カトリックは悪鬼的である.そしてプロテスタントにはキリストがない.彼らはキリストの名は教えるが,キリストはそこにはいない.今日プロテスタントの教会に生きた主イエスがおられると思えるか.あなたがそれを信じようと信じまいとご自身はドアの外にいると主は言われるのである.私たちは今日地上には4つのものがあることを理解すべきである.サタン的ユダヤ教,この世主義,悪鬼的カトリック主義,そしてキリストの欠如したプロテスタント主義...私たちはサタン的ユダヤ教,悪鬼的カトリック,キリストの欠けたプロテスタント,そしてこの世主義から救い出されなくてはならない15.
(注)教会が神になるという彼らの教義については後に十分に論じる。
これらの分裂主義は聖書の教えではない.聖書に見いだされる地方主義に対する反証はローマ書16:5において明らかである.パウロはローマの教会に書き送ったとき,彼の友人であるアクラとプリキラの家にある教会によろしく伝えてくれと頼んでいる.彼らもまたローマに住んでいたのであるが,彼らは明らかにパウロが書き送った人とは独立した集会をもつ教会を得ていたのである.なぜなら,パウロはその読者に対して,特に二人の同労者によろしくと頼んでいるからである.もしプリスキラとアクラがその教会の一員であったならば,また仮に彼らの集まりがそれに追従していたならば,彼らもまたその書簡が読まれる場にいたはずであるからである.もしそうであったならば,パウロは挨拶をよろしくと頼む必要はまったくなかったはずである16.
地方教会は一つの基礎は地方主義にあると教えている.しかしイエスはその基礎はご自分であると語っている.マタイ7:24-27 は次のように言っている:
だから,わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな,岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます.雨が降って洪水が押し寄せ,風が吹いてその家に打ちつけたが,それでも倒れませんでした.岩の上に建てられていたからです.また,わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな,砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます.雨が降って洪水が押し寄せ,風が吹いてその家に打ちつけると,倒れてしまいました.しかもそれはひどい倒れ方でした.
言い換えると,私たちの信仰の“基礎”をイエス・キリストにある生きた信仰に置くのであれば,私たちは倒れることはないのである.しかしもし私たちの信仰の“基礎”を何か他のものに置くならば,例え地方主義でさえも,私たちは立ち続けることはできないのである.
マタイ16:16,18はこのことを確証している.“シモン・ペテロは答えて言った,‘あなたこそ生ける神の御子キリストです.’”イエスは答えられた“私はこの岩の上に私の教会を建てよう.ハデスの門もそれに勝つことはないであろう.”
リーはわれわれに対して,教会はそれぞれの地方において唯一の集会によって表現されるべきものであると信じさせようとしている.言い換えると,ロサンゼルスにウイットネス・リーの地方教会が存在するならば,他の緒教会は存在得ないのである.
イエスはこのことをマタイ18:15−20 において拒絶している.彼は兄弟間における問題の取り扱いについて語っている.彼はその問題を教会の文脈の中でいかに解くかを言っているのである.このセクション全体の文脈は教会にあることは17節から明確であるが,それは次のように言う,“それでもなお,言うことを聞き入れようとしないなら,教会に告げなさい.教会の言うことさえも聞こうとしないなら,彼を異邦人か取税人のように扱いなさい.”そして18節と19節においてイエスは17節の判定のための権威の根拠を与えている.彼は教会がこのような判定をなし得る神の祝福を天から得ていることを語っているのである.
最後にイエスは心あるクリスチャン達が自らそのような判定をなし得る権威を有しているか否か知り得るように,何が教会であるかの定義を与えている.イエスの教会の定義は明確である(20節):“二人または三人がわたしの名によって集まるところには,わたしもまたその中にいるのである.”
前世紀の偉大な教会歴史家である Philip Schaff は,彼の記念碑である著作 Historiy of the Christian Church の第1巻で,初期のクリスチャン教会の形態について述べている.
最初それは[キリスト教会]完全に組織化されたり,一つのコミュニティーとして結合されていたと推測させる根拠は何もない.クリスチャンたちはその都市[ローマ]全体に広く散らばっており,彼らは異なった地域毎に礼拝の集会を持っていたのである.ユダヤ教徒と異邦人改心者は異なったコミュニティーを形成してであろうし,あるいは一つのクリスチャン・コミュニティーの中に二つのセクションが存在したのである17.
...ローマのような比較的大きな都市にあっては,クリスチャン・コミュニティーはいくつかの家庭における集まりのような形でいくつにも分かれて存在した.しかしながらそれらの家庭はつねに書簡の宛名の一つの単位とされていた18.
ウイットネス・リーの先人であるウォッチマン・ニーでさえも今日の地方教会がなしているような排他主義には陥っていなかったのである.ニーは宣言している:
教派的なキリスト教が間違っているとして攻撃することは私の意図するところではない.私は繰り返したいが,キリストの体が有効な地方的な表現を得るためにはその交わりの根拠が真の一にあることである.そしてその基礎はそれぞれの肢体の主に対する命の関係にあり,主を頭として喜んで従う意志にあるのである.私は‘地方主義’と呼ばれるような肉的なセクトを形成する者たちに何かの許可を与えるものではない.すなわち,地方主義に基づいた厳格な境界線を引こうとするのではない.そのようなことは容易に起こり得ることである。もし私たちが今日命にあってなしていることが,明日単なる方法・手段に成り下り,その結果として主の性質がそこに欠如するようなことになるのであれば,神よどうぞ私たちをあわれみ,それを中断させて下さいますように!19
権威主義的統治
権威主義的システムとしての地方教会の構成は厳格にリーによって運営されている.この権威主義は地方教会の構成員の多くの中で好ましくない心理学的影響を生み出している.
地方教会の構成員は自分の人生にあって何にもまして教会をまず第一とするように教えられている.ほとんどのカルトに共通するように,自己を否定することと組織を高く揚げることが顕著である.
...教会は私たちの唯一の関心事であるべきだ.今日あなたの関心事は何か?
学校か?,仕事か?,家族か?私の唯一の関心事は教会である.私たちは教会のためには“酔った者”でなくてはならない20.
地方教会においては,構成員たちは教会の運営のために忙しくて自分の家族のためにほとんど時間が割けないような状態であり,もちろん自分が受けた教えが何であるのかを省察する時間などを持ち得ないのである.
私たちはもっと人々と接触する時間を取るべきである.一週間のうちの一晩は個人的なことのために,三晩は教会の集会のため,残りの三晩は人々と接触するために用いるべきである.これらの三晩に加えて,昼食の時間をいつもこの目的のために使うことを希望する.人々と昼食あるいはディナーを共にする約束をしなさい21.
もちろん地方教会の統率者としてウイットネス・リーは教会の最高指令官とみなされている.彼は神によって特別に導かれているとみなされており,暗黙のうちに彼に服従することが要求されているのである.リーはかつて地方教会の構成員たちに対して,自分とどのような姿勢で関わるべきか述べている:
主の動きのための強固な柱とされて完成されるための秘訣を語りたいと思う.ベンソン・フィリップやジョン・ソーは自分自身の考えを持たなかったために完成されたのである.最近ベンソン兄弟はリー兄弟のミニストリーだけに服従することを強く宣言した.ジョン・ソーが私たちとロサンゼルスに滞在したとき,彼はこの私のミニストリーから吸収すること以外には何も知らないと言った...彼らは何らかの過ちを見いだしたとしても,自分はそれを忘れ,それらについて議論する時間を持たないと語った23.
リーは自らの教えを神から直接もたらされたものとして人々が従うことを要求している.彼は神の経倫における指導者としての経歴は彼の追従者たちが彼に服従することの十分なる資格を与えるという確信に満ちているのである.
これらの言葉は単なる教えではない.これらは私が35年以上にわたって実行し経験してきたことの強力な証しである.私はこれらの幻にとらえられている.主のあわれみによって,私は自分の方法あるいは流儀を決して変えたことはない(注)23.
(注)この宣言に反してリーはしばしばその書物の中で矛盾することを語っている。
地方教会とその方向付けに関するリーの包括的な思想に関して,リーは次のように言っている,“これは私自身の教えであると考えてはならない.それは主の啓示である”24.このように地方教会の構造は完全に絶対主義的であり,教会の意志と共に,すべてがウイットネス・リーによって決定され,それがすべての地方教会の構成員がその実現に向かって奮闘努力すべきゴールでもあるのである.
地方教会の構成員
地方教会はあらゆるタイプの個人を魅了している.すなわち,単純な者たち,知的な者たち,情緒的な者たち,抑欝的な者たち,喜んでいる者たち等々である.しかしながら,彼らがその運動に様々の形態で関わったにしても,彼らには一つの基本的で共通的な心理学的特性が顕著に見られる.すなわち彼らは過去において自分自身の情緒的な問題が解決されていないように思える形跡がある.この問題とは自分が必要とされ,かつ愛されることへの切望感である.
多くの地方教会の活動を通して,この切望感が満たされているように見える.しかしながら,このグループの外側にいる多くの人々は,特に家族のある者がそこに関わっているような場合,ある種の不健全な変化が教会員に生じていることを関知している.彼らにはその情緒的な問題が解決されていないように見えるばかりか,新たなる緒問題を抱え込んでしまったかのように見えるのである.私たちと接触した何家族かは地方教会に関わった家族の一員のその深刻さのゆえに専門的な精神医療を必要としていた.彼らは地方教会に関わる以前には普通にできていたのに,現在において共に生きることができなくっているのである.
外側から見る限り,地方教会はきわめて愛に満ち,その構成員は思慮分別があるように見える.これは真実である.彼らが協調的である限り,構成員たちは穏当である.しかしながら,私たちはすでに地方教会の構成員でない人々に対する彼らの態度を見てきた.特に他の緒教会を排斥する彼らの態度を知っている.しかしながらある者が地方教会を離れようとするや,彼らはその人に神の裁きが加えられるであろうと語り,彼が何か赦されざる罪を犯しており,さらには神の裁きによって死ぬことになるとすら語るのである.著者たちはこのような“神聖な恐喝”がなされた事実に関する地方教会を離脱した多くの人々の証言をファイルしている.
私たちが本書第1章で議論した緒カルトの一つの特徴はパラノイア的な教えを個々の構成員に植えつけることである.それは迫害されることへの恐れである.これはまた地方教会にあっても当てはまる.構成員たちは,地方教会の別名である“主の回復”の中にない者は“サタンの道具”であると教え込まれている.
しかしながら,先へ進む前に,地方教会と本書で扱った他のグループとの重要な違いを指摘しておく必要がある.この時点までは地方教会の構成員たちは再生されたクリスチャンたちであり,彼らは自分が所属しているところについて批判的に考察することがなかったために,その中へと投げ込まれてしまった人々なのである.このような現象は地方教会によってなされてきた福音伝道はすでにクリスチャンである人々になされたという事実によるものであろう.ノン・クリスチャンに対する伝道は比較的少ないのである.
教会に対する構成員たちの意識集中の結果,彼らのキリストとの関係が時に損なわれてしまうように見える.例えば,Gene Ford がまだ地方教会の指導者であったころ,CRI による地方教会を告発する文書への応答として,彼は小冊子の中で二度ほど自分の“証し”をしている.これらの“証し”はイエスに関するものではなく,“教会生活”に関するものなのである.その構成員たちは一人一人地方教会に巡り会って“主の回復”に加わる以前には,いかに自分の人生が空虚であったかを語っている.
...私自身について少し語らせて下さい.私は根本主義的長老派の単科大学と Drew University の神学部を卒業しました.私は1949年から1958年の間メソジスト教会の牧師でした.1958年に私は学位の理由によって監督となり,その宗派の司祭に任命されました...シアトルの Dennis Bennett 神父の証しを通して,私は1962年にカリスマ的リバイバルに導かれました.そこで何年間かいわゆる“ペンテコステ的リバイバル”で熱心に活動していました.1968年の終わり頃,神のあわれみによって,私の目は主の今日この地上における動きに開かれました.その時から私は主の回復に完全に捧げています25.
私に個人的証しをする機会を与えて下さい...私は昨日生まれた者ではありません.私は45歳であり,十分な人生経験を積んでます.私は高度な教育を受けています.私はクリスチャンの働き人として長年の間活動してきました.また私は個人的にも神の言葉をよく知っています.私は1968年に主の回復の真理を見いだしました.私はそれを見たとき,その道を選択したのです.ウイットネス・リーのミニストリーの下でかつて経験し得なかったキリストの豊かさを私は享受しています.あなたは自分の人生を捧げる価値のあるものを見い出しもしないのに自分の未来を手放してしまうほど私が愚かな人間であると思いますか26.
パウロの新約聖書における証しは地方教会の証しとはまったく正反対のものである.1コリント2:2で彼は,“なぜなら私は,あなたがたの間で,イエス・キリスト,すなわち十字架につけられた方の他には,何も知らないことに決心したからです.”
地方教会と思い
地方教会の構成員は“思いにいる”べきではない,あるいはそこの教えに対していかなる疑問も呈するべきではないと教えられている.それは異邦人の世界で行われることであるというのである.地方教会においては個人的に聖書を学ぶ機会が与えられていない.すべての聖書の学びはウイットネス・リーが語ったことに完全に調和しているべきなのである.地方教会の“聖書の学び”とは,聖書をその後ろだてとして用いた地方教会の教えの学びなのである.聖書を学ぶために各個人はいかなる参考書もいかなる思考をも必要としないのである.神が御言葉を理解するために私たちに与えた知性を用いることをせず,むしろ聖書に接近する際には“思いを閉ざす”ように語っている.
[イエス]が私たち共にある限り,私たちには何らの規制,儀式,教義,形態も必要ない...あなたは集会に教えを求めて来るのか,あるいは学ぶために来るのか.私たちは集会に[霊的な]祝宴を求めて来るのである27.
...祈るために目を閉じる必要はまったくない.私たちは思いを閉じたほうがよい!...聖書を学ぶことだけではだめだ.私たちは聖書が命の書であることを理解すべきである.それは知識の書ではない.この本は生きる霊が形を取ったものであり,しかも彼は命である28.
単純に御言葉を拾って,朝と晩に祈り読みしなさい.何かをそこから汲み取ろうとして思いを用いる必要はない.呼んでいる箇所を考える必要もない...私たちは思いを閉じる方がよいのである!...祈るための言葉を組み立てたりする必要はない.単に御言葉を祈り読みしなさい.結果として聖書が祈りの書であることに気づくであろう!聖書のどのページでも開いて御言葉のどの箇所でも用いて祈りなさい...御言葉を解釈したり,説明したりする必要はない.ただ御言葉を祈りなさい.御言葉を読むこと,研究すること,理解すること,学ぶことを忘れなさい.御言葉を祈り読みする必要があるのです29.
聖書はこのような実行を完全に禁じている.マタイ6:7では,“また,祈るとき,異邦人のように同じことばを,ただ繰り返してはいけません.彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです”と言われている.2テモテ2:15では“あなたは熟練した者,すなわち,真理のみことばをまっすぐに解き明かす,恥じることのない働き人として,自分を神に捧げるよう,務め励みなさい”と勧められている.使徒行伝17:11においてはベレヤ人は御言葉を真摯に学んでいたことによって褒められている:“ここのユダヤ人[ベレヤ人]は,テサロニケにいる者たちよりも高貴であって,非常に熱心にみことばを聞き,はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた.”
不幸にして,地方教会の構成員は経験こそ真理と知識の証明であるかのように振る舞っている.推理や論理,そして知性は知識とは何らの関係もなく,地方教会においては理性が経験と矛盾するのであれば,その理性は間違っていると判定されるのである.
地方教会の構造と組織は多くの諸点においてカルトと判定される基準を満たしている.しかしながら,われわれは地方教会の構成員たちの多くはもともとのキリスト教会から偽りの地方教会の組織の中へとさ迷い出たクリスチャンであることを注意深く考慮する必要がある.次に地方教会の教義について考察しよう.それらはまたカルト的教義の特徴を有していることが確認されるであろう.
教 義
多くの基本的な聖書の教義が地方教会によって変質されている.地方教会は聖書的な教会であると宣言してはいるが,三位一体,イエスの性質,人の本質,聖書的救いの過程,そして教会に関する聖書的教義が彼らにあっては混乱している.現在の地方教会の構成員はほとんどクリスチャンである(彼らは信仰の確信を持っているものとわれわれは信じている)とは言え,彼らが広めている教義は聖書的ではなく,それ自体は人を聖書的信仰へと導くものではないことを忘れてはならない.地方教会の大多数はクリスチャンであるが,それは地方教会によることではなく,彼らがウイットネス・リーの運動のメンバーになる以前にすでにキリストの救いの知識に至っていたからである.
三位一体
地方教会で教えられている三位一体の教義は,教会歴史上,単一神論的様態論(monarchianistic modalism)として知られている.この教義は紀元3世紀において, サベリウス(Sabellius)という名の人物の教えの結果生まれたものである.サベリウスのみが様態論的三位一体を信奉していたのではない.彼以前にもノエトス(Noetus),プレクサス(Praxeas),エピゴノス(Epigonus), クレオメネス(Cleomenes),カリスタス(Calistus),そしてベリラス(Beryllus)らがいた.有名な教会歴史家フィリップ・シャフ(Philip Shaff)はこれらのサベリウスの先駆者たちは古典的様態論者というよりは聖父受難論者(Patripassians:御父が十字架にかかられたと信じている人々を意味する)と呼ばれるにふさわしい者たちであったと述べている.彼が述べるように,聖父受難論者は胎児的様態論者であるというべきである.サベリウスは論理的にその教義を複雑化したのである.
地方教会はサベリウスが教えたとおりのことをすべて全く同じように信じているのではないにしても,彼らの三位一体の理解は神学的には“サベリウス主義”あるいは様態論として知られている一般的範ちゅうに属するのであり,それは御父の人格と御子の人格を同一視(さらに聖霊の人格と御子と御父の人格を同一視する)するものである.様態論者は神は一つの本質と一つの人格を持ち,その存在形態において三つの様態あるいは側面をもってご自身を反映すると述べるものである.様態論者は三人格を信じていると主張するかも知れないが,それは単に“人格(Persons)”という単語を定義し直しただけであり,純粋な聖書の言う三位一体というよりは“経倫的”三位一体を主張継続するだけある.
主に二つのタイプの様態論者がある.一つは“論理的”様態論者であり,彼は同一時点において神が御父であり御子であり聖霊であることは不可能であると述べ,したがって神はまず第一に御父であり,次に御子になり,そして聖霊になったと説明する.非論理的様態論者は御父,御子,聖霊が同時に語られていることを認識している.これらの様態論者は御父,御子,聖霊は同時に存在するけれども,彼らはお互いに他者でもあると言うのである.
ウイットネス・リーと地方教会は両方のタイプの様態論を唱えている.彼らは神は御父であったが,御子となった,そして聖霊となったと教えている(さらには聖霊が教会になりつつあるとさえ言っている−これについては後に述べる).ウイットネス・リーは言っている:
よって,三位一体の三人格は神の経倫(エコノミー)における一連の三段階となったのである30.
天においては,人は神を見ることはできないが,神は御父である;そして神は人の間で表現されたとき,神は尊である;そして人の中に入り来るとき,神は御霊である.御父は人間の間で御子にあって表現され,御子は人の中に入り来るために御霊となった.御父は御子のうちにおられ,御子は御霊となった−それらの三はいずれも一つの神そのものである31.
同様にして,御父,御子,御霊は三人の神ではなく,私たちが神を得て教授するために取られた一人の神の三つの段階なのである32.
無尽のあらゆるものの根源としての御父は御子において形を取られた...人が近づくことのできない領域においては(1テモテ6:16),神は御父である.神がご自身を現されるために来られたとき,彼は御子であった...私たちは主が御子であり,また彼は父と呼ばれていることを知っている...そして今また彼が御霊であると言われている.そこで私たちは主であるキリストはまた御霊でもあることを明確にすべきであり...根源として神は御父である.表現として神は御子であり.伝達として神は御霊である.御父は根源,御子は表現,御霊は伝達,交わりである.これが三一の神である...33
このような見解は明らかに聖書的ではない.彼らは変化する神を提出しているのであり,それはマラキ3:6(“主なるわたしは変わることがない”)とヘブル13:8(“イエス・キリストは昨日も今日も永久に変わることがない”)に矛盾する.聖霊でさえもヘブル9:14で“永遠の御霊”と呼ばれている.三位一体の三人格は永遠に同時同在するのであり,いかなる時においても一つの人格が他の人格に変化することなどは有り得ない.
地方教会についてその誤りを述べた Passantino の冊子が出てまもなく,地方教会はリーが継承主義を信奉してはおらず,三人格は同時に存在すると信じているとして,サベリウス主義のレッテルを貼られることを回避しようと試みた.しかしながら,地方教会はその以前の主張を何も変えてはおらず,リーが継承主義を信奉していることの根拠として引用した箇所を何ら撤回してはいないのである.そのいづれの説明においても人格間における事実上の相違を否定し続けており,御父の人格は御子の人格であり,御子の人格は聖霊の人格であると教えているのである.
彼は唯一の神であるとは言え,それは三重性の問題であり,すなわち,御父,御子,御霊の三重の人格なのである...34
祈る御子は聞いている御父でもある...35
...御子は御父であり,御子はまた御霊でもある.さもなければ,どうしてこれらの三者が一つの神であり得ようか?36
御子は御父であり,御子はまた御霊でもある37.
このようにしてリーはサベリウス主義として訴えられることを回避しよう(かつての発言を撤回することなく)としているが,彼は単に別の様態論的異端,聖父受難論を支持しているだけなのである.それは(リーがなしているように)御父と御子は同一時点において同一の人格であると言うものである.(3世紀と4世紀の聖父受難論者は御霊についてはあまり語っていないが,それをしたアンキラ(Ancyra)のマルセラス(Marcellus) はちょうどリーがなしているように,御父と御子と聖霊の人格を同一視している.)38
この形態においても,リーの教えは明確に聖書的ではない.聖書においては御父と御子と聖霊は明確に異なった人格である.彼らは分離されてはいるが,けっして相互矛盾することのないそれぞれの意志を持っていたのである(ルカ22:42;1コリント12:11).イエスは御父からつかわされ,彼と御父が御霊をつかわすのである(ヨハネ 17:8;15:26;16:7;14:26;20:21).御父は第二人称である“あなた”を御子に対して用いている:“あなたはわたしの愛する子”(ルカ3:22).イエスはご自身を御父に対して御霊によって捧げられたのである(ヘブル9:14).自分自身を証しするために来たのではなく,私をつかわされた方を証しするために来たと言うイエスの言葉をわれわれは覚えるべきである.
地方教会とウイットネス・リーが“三で一の”神を信じているいうことは確かに真実である.これは彼らがわれわれと同様のことを信じていると主張しようとする試みであり,しかしながら彼らは三位一体における三人格を合併させたものを信じているのである.かつての地方教会のスポークスマンであったジーン・フォードは言っている,“私たちは明瞭に(unequivocally)神が三にいまして一であり,一にいまして三である,と言っている.”39 しかしながら“明瞭に(unequivocally)”という単語は“何らの疑点あるいは誤解のない;明確である”という意味である.地方教会の“三で一”の立場は明瞭であるとはとても言えないものである.彼らは“一”及び“三”という用語をそれらが何を意味するか定義することなく用いている.神は一である.どんな一であろうか.一人の人格か?一人の神か?一つの体か?一つの原理か?神は三である.何の三か?クリスチャン・サイエンスの創始者であるメアリー・ベイカー・エディー( Mary Baker Eddy)は“神が三である”ことを信じている.しかし彼女の問題は彼女が“三”と言う際,それらは“愛,真理,そして命”の“三つの神聖な原理”について言っている点である.地方教会は三によって“三重性の問題,すなわち三重の人格...”40を意味しているのである.彼らは一つの人格が“三重性”を有していると言うのであって,それは聖書が教えるように永遠に区別された三人格があるというのではない点に注意されたい.
幸運にも偉大なる初期教会の神学者アウグスチヌスはそのような曖昧性に煩わされることがなかった.
しかし何の三かと尋ねられるとき,われわれの言語がいかに貧弱であるかは明白となるのである.しかし定式的表現“三人格”は造り出されているが,それはそれによって完全なる記述を与えるためのものではなく,われわれが沈黙に留まらないためのものなのである41.
しかし一方において彼らが三つの何か(tria quaedam)ではないとは言い得ないのであり,それはこのことを否定することによってサベリウスが異端に落ち込んだからである.聖書からわれわれは絶対的な確かさをもって私たちが敬虔に信じるところのもの,決して損なわれることのない知覚と共にわれわれが内的な目で感知するところのもの,すなわち,御父,御子,聖霊がおられ,御子は御父ではなく,聖霊は御父でも御子でもないことを学ぶのである.もしこれらの三の本質の説明を求められれば,それらは三つの実体あるいは人格であると答え得るであろう42.
聖書的な三位一体は次のように定義されるであろう:永遠の唯一の神の本質の中に三人の区別された人格−御父,御子,聖霊が存在する.しかもこれらの三人の人格はみな一つの神である.
(訳者注:"地方教会"ではこれを"三神論"であると批判する)
われわれは三位一体が“経倫上の”ものではなく,永遠の本質において存在する三人の区別された人格であるかを聖書からいかにして証明することができるであろうか.最も容易な方法は全体としての定義を実証するためにわれわれの個々の定義を証明することである.
聖書ではただ一人の神がおられると教えている.このことは数え切れないほどの節から見ることができる.例えば,イザヤ43:10,申命記6:4,1コリント8:4−6,また1テモテ2:5などである.
われわれの定義をテストするための第二のステップは,聖書が御子とは区別された御父と呼ばれ,神と称せられる永遠の人格があることを教えているかを見ることである.2ペテロ1:17では御父を“神”と呼んでおり,彼を明らかに御子から区別している.1コリント8:6では“父なる唯一の神”と強調している. 永遠に区別された父と呼ばれる人格が存在することが明らかになった後は,聖書の中で御子あるいは言と呼ばれ,また神とも呼ばれ,父から区別された人格が存在することを見なくてはならない.ヨハネ1:1は御子について語っている.“はじめに言があった.言は神とともにあった.言は神であった”とある.ヘブル1:8には御父が御子に語りかける言葉が引用されており,それはその両者が区別された存在であるが,御子が“神”と呼ばれていることを見せている.ヘブル13:8は言う,“イエス・キリストはきのうもきょうも永遠に変わることがない.”
最後に聖書はまた永遠の区別され,御子でも御父でもないが神と称される聖霊と呼ばれる人格があることを教えている.ヘブル9:14はわれわれの罪のためにキリストを御父に捧げるために働かれた永遠の聖霊について語っている.ヨハネ14:16ではイエスは聖霊について語り,彼を“別の助け主”と呼んでいる.それはギリシャ原語によれば,同じ性質・実質をもつ別の人格を意味しているのである.
これらの箇所と他の多くの節を考察すると,われわれは明らかに三人の区別された人格が唯一の神の本質の中に存在することを見ることができる.われわれはこれらの区別された三人格がいずれも一人の神であると聖書から結論せざるを得ないのである.イエスがバプテスマされたとき,これらの区別された状態を見ることができる.御子は水から上がり,聖霊が鳩のように下り,御父が天から語っているのである.
われわれの理性に関わらず,もし聖書がある教義を教えているのであれば,クリスチャンはそれを信じるべきなのである.われわれは自分の先入観を排し,聖書が教えるところを見るべきなのである.もし聖書が上述したような三位一体の教義−一人の神の本質の中に三人の永遠に区別された人格が存在する−を教えているのであれば,それがわれわれクリスチャンの信じるべきことなのである.この教義を単純化したり,理解し易いように変えたりすべきではない.われわれは聖書が教えることを見て,それが神の言葉であるからこそ信じるのである.われわれは神に対する信仰を単に自分自身の経験に置いてはならないのである.なぜなら経験は欺くものであるからである.われわれは完全に神の言葉に信頼すべきである.
キリスト
地方教会のキリストに関する教義はある程度先の三位一体の項において論じられている.地方教会においては御父の愛する子としての,また別の助け主の送り手としてのキリストのユニークな存在を奪い去っていることを見てきた.地方教会の神学によれば,彼は単に神の人格の三つの面における一つでしかあり得ないのである.
しかしながら,地方教会はキリストの他の面をも曲解している.彼らは,神の言が受肉したとき,彼は二つの性質[人性と神性]を“混ぜ合わせ(mingled)”,完全な人でもなく,完全な神でもなく,神と人が混ざり合った存在となったと教えている.
以前においては人が御父と接触することは不可能であった.彼は排他的に神であり,彼のご性質は排他的に神聖であった.人と神との間のギャップを埋める手段を御父は持たなかった...しかし今や彼は...人間性の中に受肉された.御父は御子にあってご自分の神性を人間性と結合することで満足された43.
神と人,人と神が一つに混ざり合わされる受肉とともに,新しい経倫が始まった44.
(訳者注:彼らは「混ざり合った」と言いながらも「イエスは完全な神であり,完全な人である」と表向きは言っている)
この教義に関しては聖書の数多くの節から答えることができるが,一つで十分である.キリストの二つの性質に関する明確な教えは,それはhypostatic unionとして知られているが,ピリピ2:5−7に見いだされる:
あなたがたの間では,そのような心構えでいなさい.それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです.キリストは,神の御姿であられる方なのに,神のあり方を捨てることができないとは考えないで,ご自分を無にして,仕える者の姿を取り,人間と同じようになられたのです...
これは明確にキリストが人かつ神の両方であって,その両者の奇妙な混合物ではないことを教えている.6節によれば,彼は真に神であった.そしてマラキ3:6によれば神は決して変わることがなく,よって彼がご自身をむなしくして人となったときも,彼は神の性質を放棄することはなかったはずである.彼は付加的な性質−人の性質を取ったのである.キリスト教会はつねにキリストが人性と神性の二つの性質を持っており,それらが永遠のロゴスあるいは言である一人の人格に付与されていることを教えている.これらの二つの性質は断じて混ざり合うことはないのである.
ローマ9:5ではイエラエルが所有していたあらゆる祝福について語っているが,キリストこそ今までに得た祝福の中で最も偉大なるものであると宣言することによって極みに至る:“...キリストも,人としては彼ら[ユダヤ人]から出られたのです.このキリストは万物の上にあり,とこしえにほめたたえられる神です.”
人 間
地方教会の人類に関する教義は,すでに述べた彼らのキリストに関する教義と後に述べる教会に関する教義によって影響されている.
創造における人
聖書の一番初めにおいて,神はご自身を表現するためのあらゆる創造の中心として人を創造されたことを見せている.神の経倫にあって神は全宇宙の中心として人がご自身を表現することを意図されたのである45.
リーはまた“肉体”そのものが悪であると教えている.これは禁欲主義として知られており,また“仮現論的グノーシス主義(
docetic gnosticism)”(肉体は悪であるからイエスは肉体を持たない;イエスは善であるから純粋なる霊であったという教え)にも関連している.リーは言う:
神に創造されたものとしての人間の体はひじょうに良いものであった.しかしそれは今や肉となった.良いものとして創造されている以上,体は純粋であったが,サタンによって体が損なわれたとき,それは肉となったのである46.
リーは損傷され堕落させられた体が肉となったと言うとき,彼は“体(body)”に対立するものとしての“肉(flesh)”によって何を意味するかまったく明確にしていない.
人に関する地方教会の教義(エデンの園での堕落の後の人についての教義)は,罪(及びサタン)に関する地方教会の奇妙な教義に密接に関係している.このためにわれわれは人に関する議論は短くして,罪に関する教義を取り扱いたいと思う.
罪
地方教会にとっては罪とは“サタンが形を取ったもの”以上でも以下でもない.地方教会の罪の概念を定義した後,われわれは人の堕落と罪がどのようにその事件に関与したかという点に関する彼らの教義を論じたい.
体はまさにサタンの形を取ったものである罪(Sin)の居住となった...罪はサタンが実体化されたものであって,死はサタンの結果あるいは影響力である.この堕落した,変質した体は‘罪の体’とも‘死の体’とも呼ばれている.なぜなら体はまさにサタンの居住となったからである47.
地方教会によれば,人の原罪とは,倫理あるいは善を行うことの問題ではなく,それは神あるいはサタンのどちらと混ざり合うかを選択する問題なのである.命の木は神あるいはキリスト(彼はまさに御父の実体化されたもの)を表している(神の永遠のご計画 pp.105-106 参照).知識の木はサタンを表しており,サタンと人が混ざり合った結果死がもたらされたのである.人は知識の木を選択した結果(そのゆえにこの団体では知識がきわめて低くみなされている),罪であるサタンと混ざり合ったのである.
アダムが知識の木の実を取った事件の重大性は,彼がサタン自身を自分の内部に受け入れてしまったことである...彼が知識の木の実を取ったとき... 彼はサタンを受け入れたのである.そして彼はその中で成長し...このようにしてサタンはアダムの内部で成長し,彼の一部となったのである48.
この教義は実際にはサタンの人格を奪い去るものであり,彼を単なる何かの力にしてしまうものである.聖書では明確にサタンは一つの人格者であり,人とは区別されている.マタイ4:1−11においてイエスはサタン(彼は試みる者とさえ呼ばれている)に試みられているが,そこには彼らの会話が記録されている.両者がもしも単なる力にすぎないのであれば,彼らはコミュニケートする事ができないはずである.サタンが単なる力であるならば,イエスは彼と会話することができないはずである.これによってサタンが独立した人格を有しており,さらにサタンは人に取りつくときその人格をとおして自分自身を現すが,その人格とは明確に異なっていることを見せているのである.
サタンと堕落した人間の間の相違は明確に啓示録20:10に見ることができる.そこではサタンは火の池に投げ込まれているが,一方15節に至るまでは堕落した人間は火の池に投げ込まれることがないのである.このような事態の進展によってもサタンと救われていない人間との間の区別は明白である.
聖書がそれを“肉”と呼んでいるゆえに,“体”が堕落しているというリーの主張は,彼が聖書における暗喩と言われる手法に関して全く無知であることを露にしている.“肉”は聖書においては“罪”を意味するために用いられている.それは人が有している実際の体とは必ずしも関係してはいないのである.それはちょうど王(king)を“冠(Crown)”(暗喩としてよく用いられる)と呼んでも,王自身が冠になってしまうのではないことと同様である.
人に関する教義に戻り,地方教会が夢想している異なった種類の人間を見る前に,われわれは地方教会の救いに関する教義を取り扱う必要がある.なぜなら,その教義は地方教会の主張する人の教義から直接的に影響されているからである.
救 い
地方教会の神学における救いの教義は人と教会の教義と密接に関連している.われわれは人に関する議論に戻る必要があるので,この時点では救いの教義の一つの面にだけを論じることにする.その他の面とそれから導き出されるすべての点に関しては教会の神学に関する項で論じることにする.
リーは人が堕落したとおりの方法をもって人は救われる,と教えている.サタンが自分自身を人と混ざり合わせたとき,人は堕落し,神がご自分を人と混ざり合わせたとき,それはまずイエスにおいてなされ,続いてクリスチャンとなる一人一人と混ざり合うのであるが,人は救われると言うのである.これはさらに教会の定義,あるいは教会が神になるという思想にまで発展する.リーは言う:
[堕落の後]サタンは人を手中に治めたことを誇り喜んだ.しかし神は園時点では人の外側におられたのであるが,つぎのように言われたことだろう:‘私もまた受肉しよう.サタンが自分自身を人の中へともたらしたのなら,私自身も人となり,人の姿を着よう’と49.
...結果として,主は来られ,十字架にもたらすためにご自身の上に人間性を取られた...同時に堕落した人のうちにいるサタンもまた死にもたらすためである...キリストはサタンと共に人間性を墓へともたらし,サタンをそこに残したまま,人間性のみを墓から引き上げた...今やこの復活させられた人間性は神と一つとなった.受肉によって神は人間のうちへと来たり,復活によって人は神と一つとなった.今や神は人の霊におられる50.
リーは罪とサタンを同一視しているために,十字架の聖書的な価値を引き下ろしている.われわれは罪とは神に対する不従順であり,サタンではないことを知っている.聖書によれば,神はキリストにあってご自分を人と混ざり合わせることはなかった(キリストに関する教義を参照のこと),そして十字架において死に渡されたのはサタンではなかったのである.
ローマ5:9,10においてキリストは私たちを義とするために,また私たちを和解させるために死なれたことを見せている:“今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが,彼によって神の怒りから救われるのは,なおさらのことです...御子の死によって神と和解させられたのなら...”使徒行伝 20:28は完全なる犠牲の供え物としたのは神ご自身であり,またわれわれの益のために十字架で犠牲となられたのも神ご自身であったことを見せている.それは人間性と混ざり合わされた非人格的な神性などではないのである.:“...彼自身の血潮によって生み出された教会...”最後に,ヘブル9:14でキリストの犠牲は神に対してなされたのであって,サタンを殺すための罠などでは決してないことを見せている:“...永遠の御霊によって傷のないご自身を神に捧げられたキリストは...”ヘブル10:10では十字架がわれわれを聖めると言っている:“このみこころに従って,イエス・キリストのからだが,ただ一度だけささえられたことにより,私たちは聖なるものとされいる.”
人の性質
地方教会においては,それぞれの場面で人は様々の異なった性質を持っていると教えている.堕落の前の最初の人は“中立的”であって,それはただ人の要素を保持しているのみであった.命の木で象徴されている“神を食べる”ことを選択するならば,人は全宇宙において神を表現する目的で創造されたのである.もしそのとおりであったならば,神はご自分を人と混ざり合わすことができ,この新しい事態によって,人が宇宙に対して神を表現することが可能となったのである.しかしながら,人は知識の木の実を取り,“サタンを食べる”ことを選択した結果,人とサタン(罪とも呼ばれる)は一つとなったのである.キリストが受肉されたとき,この“罪人”はキリストの神性を取り,神がサタンを“罠にかけ”,十字架で彼を殺すための手段となったのである.このことによって神が当初意図された人と神を混ぜ合わせるご計画が元に戻されたのである.その時より,キリストの元に来た人はサタンとの混合を解かれ,同じように現在は神と混ざり合わされているのである.ここでウイットネス・リーの複雑な歪曲された教会の教義について論じる準備が整った.
教 会
地方教会は自らがただ一つの真の教会であると教えているばかりでなく,歴史的に教えられてきたものとは異なる教会の性質を説いている.そしてそれはまた聖書においても教えられてはいないことを確認しよう!
ウイットネス・リーは,キリストの体である教会は,キリストであり,それは神の“豊満”へとますます変化して行き,究極的には教会が神の肉における現れとなり,神の当初の“ご自身を人の中へともたらす”目的が成就する点にまで至るというのである.
受肉の前においては神は神であり,人は人であった...その両者は完全に分離されていた...受肉とともに神と人,人と神が一つに混ざり合わされるという経倫が開始された...神のご性質そのものが人の性質へともたらされたのである...被造物の命が創造者の命と混合されたのである...神は[クリスチャン]一人一人をこの目的のために選ばれたのであり,それは私たちの命の中で神聖な成分が増し加わることである51.
御父は御子におられ,御子とは御霊におり,御霊は今やからだの中におられる.彼らは,すなわち御父,御子,御霊,そしてからだは四一である53.
教会とキリストについて語るとき,数においては私たちは異なっているが,その性質においては全く同一である54.
このキリストは一人の人から何千何万の個人へと拡大していった.彼はかつて個人的キリストであったが,使徒行伝においては共同体的キリストとなったのである54.
そしてついに三一の神と復活された人が一つの表現を持つ日が来るのである. ...55
究極的に神はわれわれとなるのである56.
聖書は人が神あるいは神の一部になるなどとは決して述べてない.一人の神がおられ,彼は永遠に変わることがない方である.神はわれわれと同一の要素となることはない.イザヤ43:10は宣言している:“あなたがたはわたしの証人,主の御告げ,私が選んだわたしのしもべである.これは,あなたがたが知って,わたしを信じ,わたしがその者であることを悟るためだ.わたしより先に造られた神はなく,わたしより後にもない.”
結 論
ウイットネス・リーと地方教会は神,キリスト,人,罪,救い,そして教会に関する偽りの教義を説いていることを見て来た.ウイットネス・リーは健全な聖書教師ではなく,地方教会は,多くの構成員はクリスチャンであるとは言え,教義的にも組織的にも,あらゆる点においてカルト的である.人は地方教会に属していたり,そこに留まっていたり,あるいはわれわれが批判的に分析してきたその教えを保持していたりする限り,神に対して決して従順であり得ることはない.
多くの未成熟なクリスチャンがこの団体に欺かれて連なっている事実はけっして地方教会がオーソドックスなものであることを意味するものではなく,むしろ真理の悪賢い偽造物となっているのである.われわれに地方教会の構成員の魂を裁くことはできないし,その意図もないものであるが,聖書的ではない地方教会の多くの教えを断罪することは可能である.使徒行伝では地方教会において見いだすことのできる状況の多くのタイプを見ることができる:“あなたがた自身の中からも,いろいろな曲がったことを語って,弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう”(使徒行伝20:30).
脚 注
1. Angus Kinner, Against the Tide ( Fort Washington,PA: Christian Literature Crusade, 1973), p.xiv.
2. Ibid.,p.88.
3. Ibid.,p.130.
4. Ibid.,pp.132-33.
5. Witness Lee, The All-Inclusive Christ ( Anaheim: Stream Publishers,1969),p.5.
6. John Dart,"Cult Defector Warns Parents," in Los Angeles Times, December 11, 1978.
7. Kinnear, op.cit.,pp.viii,ix.
8. Recovery Version of Revelation ( Stream Publishers, n.d.),p.17.
9. Satan's Strategy Against the Church ( Stream Publishers, 1977),pp.6,8.
10.Life-Study of Revelation ( Stream Publishers,1977),p.608 ( Message Fifty-three).
11.The Stream Magazine, Vol.7, no.4, November 1, 1969, p.19.
12.Recovery Verson of Revelation, op. it.,p.17.
13.Young People's Training, Messege Eight(Stream Publishers,n.d.), p.103.
14.Young People's Training, Messege Two (Stream Publishers, n.d.),p.24.
15.The Stream Magazine, Vol.14 no.4, November 1976, p.12.
16.See A.T. Robertson, Word Pictures in the New Testament: Romans (Nashville: Broadman Press, 1931),p.426.
17.Philip Shaff, History of the Christian Church, vol.1 (Grand Rapids: Eerdmans, n.d.),p.173.
18.Ibid.,p.220.
19.Watchman Nee, What Shall This Man Do? (Chrsitian Literature Crusade,n.d.),pp.133,134.
20.Lee, Life-Study of Genesis, Message Eighty-Eight (Stream Publishers,1977), p.1157.
21.Lee, Young People's Training, Message Four (Stream Publishers, n.d.),p.51.
22.Lee, Life-Study of Genesis, Message Eighty-Eight (Stream Publishers,n.d.), pp. 1144-45.
23.Lee, The Vision of the Church (Stream Publishers),p.10.
24.Lee, Christ Versus Religion (Stream Publishers),p.13.
25.Gene Ford, A Reply to the Tract Against Witoness Lee and the Local Church (Stream Publishers, 1977), p.2.
26.Ibid., p.40.
27.Lee, Christ versus Religion, op. cit., pp.14-15.
28.Lee, A Time With the Lord (Stream Publishers), pp.10,11.
29.Lee, Pray-Reading the Word (Stream Publishers), pp.8-12.
30.Lee, The Economy of God (Stream Publishers), p.10.
31.Lee, Concerning the Triune God (Stream Publishers), p.8-9.
32.Ibid., p.31.
33.The Economy of God, op. cit., p.111; Witness Lee, The All-Inclusive Spirit of Christ (Stream Publishers), pp.4,6,8.
34.Lee, Concerning the Triune God (Stream Publishers), p.11.
35.Ibid., p.25.
36.Ibid., p.23.
37.Ibid., p.17.
38.See Louis Berkhof, The History of Christian Doctorines (Carlisle, PA:Banner of Truth Trust, 1975), pp.78-79.
39.A Reply to the Tract Against Witness Lee and the Local Church, op. cit.,p.16.
40.Concerning Triune God, op. cit., p.11.
41.Augustine, The Trinity, Book V, pp.18-88.
42.Augustine, The Trinity, Book VIII, p.233.
43.The Economy of God, op. cit., p.11.
44.Lee, The God of Ressurection (Stream Publishers), p.4.
45.The Economy of God, op. cit., p.105.
46.The Economy of God, op. cit., p.108.
47.Ibid., p.109.
48.Ibid., p.107.
49.Ibid., p.109.
50.Ibid., pp.109-12.
51.The God of Ressurection, op. cit., pp.12-16.
52.Lee, The Practical Expression of the Church (Stream Publoshers), p.43.
53.Lee, The All-Inclusive Christ, op. cit., p.103.
54.Life-Study in Matthew, Message One (Stream Publishers), p.3.
55.The Economy of God, op. cit., p.113.
56.Lee, Life-Study in Genesis, Message Ten, pp. 121-22.