神の新約のエコノミー対権威の代理人
ウイットネス・リーが現代の神の代理権威であるとする教えに対する反論
神の新約のエコノミーの定義
神の新約のエコノミーとは,特にこの時代におけるそれとは何であろう? この用語は頻繁に使われているが,しかし,神の純粋な言葉に従うと,この用語は何を意味するのであろう?
エコノミーは,もちろん,人あるいは事柄がそのゴールを獲得するために,あるいは事業を経営するためにおこなう方法である.特に神が“ご自身の事業を経営する”ことにおいて,新約と旧約で何か相違があるのであろうか? 相違はある,と正確な言葉は言っている(エレミア31:31−34;エゼキエル36:26−29;ヘブル8:8−12).
神は彼の民に後の時代において新しい契約を設立することを予め語っておられた.彼はその契約の詳細についてさえも彼らに話しておられ(エレミア31:31ー34),またその契約が有効になった後にもその契約の内容を繰り返された(ヘブル8:8ー12).そればかりでなく,まさにその契約はキリストの尊い血によって有効とされ,またされねばならなかったのである.したがってその契約は私たちにとってもはや単なる契約ではなく,それは遺言になったのであり,それはキリストの死によって効力を発揮されたのである.
その新約の各項目が私たちに保証されるためには,宇宙における最も高価な代価を必要とした故に,それらはなんと貴重なものであろう! 確かに,クリスチャンとして,私たちがこの時代において守りまた忠誠を尽くす事柄としてこれ以上最高のものは存在しないのである.その遺言は神ご自身が彼の新契約のエコノミーの正確な条文であると宣言されたのである.
さらに,その遺言は特に一つの事を指向している.それは規則,律法,原則,また預言者からのものであれ他の者からのものであれ人間の言葉等を取り除くことによって,彼の民に対して神ご自身の直接の頭首権を立て直すことである.したがって誰であれ,今日の神の唯一のスポークスマンであるとして自分自身または自分の務めを建て上げることは,新約のエコノミーのおける神の御心に直接的に反するものであり,またキリストがそのために死んだ最も特別の要素を除外することでもある.
新約と旧約の相違
信者が新約において受け継いだものと旧約におけるより劣ったそれらの代用物とを比較して,それらの違いを際だたせている聖書中でも特徴的な書であるヘブル人への手紙は,次のような宣言で始まる:
“神は,むかしは,預言者たちにより,いろいろな時に,いろいろな方法で,先祖たちに語られたが,この終わりの時には,御子によって,私たちに語られたのである”(ヘブル1:1−2a)
これは新約の時代にあっては神の語り方が変わったことを意味している.私たちはもはや神の思いと御心を知るために誰かのところへ行く必要はないのである.
誰かのところへ行く必要がないばかりか,神の託宣であるとしてある人のところへ行くことは,キリストが新約における神の子供たちのために血潮を流して生み出された事柄に直接的に反することである.
神の新約のエコノミーの要素
私たちの新約における遺産として私たちのためにキリストが死んで獲得された基礎的な事柄はヘブル8:10−12にリストされている.それらは:
(1)すべての信者の思いと心の中へ直接的に彼の律法を置かれたこと(それは彼らがそれらを何処かの石板を読んだり,あるいは外側にいるスポークスマンから聞く必要はもはやないことである).
(2)信者達は彼らの同胞に主を知れと言って教える必要がないのであり,それはすべての者が彼を知るからである(それは主は私たち各人の中に内住されているのであるから霊的な助言者をもはや必要としないことである).
(3)神は私たちの神になりまた私たちも彼の民になること.
(4)罪の許し.
第1点と2点に反することは新約に対する重大な暴力であり,それは第4点に反することになる.すなわち,キリストが罪の許しのためにご自身の血潮を流されたことに反することだからである.新約の時代にあって神の唯一のスポークスマンとして誰かを立てることは何という深刻な罪であろう!
指導者を高めることは神の新約のエコノミーへの侮辱である
使徒パウロはこの事実を理解していたことは疑問の余地がない.したがってコリントの信者たちがお互いに“私はケパにつく”,“私はパウロに”,“私はアポロに”と主張して仲たがいしていたときに,彼は“第1種の使徒,第2種の使徒,第3種の使徒”などという序列の説明をすることもなく,また“権威の代理人”の教義を発明したり,各時代にただ一人の“唯一の託宣”があってそれは自分であると宣言したりはしなかった.むしろ,彼は言う“私は植えた,アポロが水を注いだ,しかし神が成長させて下さる;だから植えた者(私,パウロ)でもなく,水を注ぐ者(アポロ)でもなく,成長させて下さる方,神である”(1コリント3:6−7)と. パウロは信者の間で誰かを(彼自身を含めて)持ち上げることは神の新約のエコノミーに対する直接的な暴力であり,キリストの体への損傷であり,神ご自身への侮辱であることを理解していた.それゆえに彼らのうちの2人以外にはバプテスマしていないことに神に感謝するとパウロが言ったのであることは疑いがない.確かに彼は,すでに訴えられている以上に,人間において誇り高ぶるという彼らの問題を訴えようとはしなかったし,また彼の上に神の嫉妬の裁きをもたらされることをも望んではいなかった.私たちの時代の誰かを使徒パウロの身の丈と比べることは無理があるとは言え,彼が新約の大半を書いたのであり,彼より身の丈の低い兄弟たちと疑問視される性質をもつある者たちは,パウロが賢明に拒絶していた栄光の責任を速やかにとるべきである.
新約聖書のどこにも“権威の代理人”の概念は見られないし,そのヒントさえもないのである.それどころか,イエスは言っている,“異邦人の支配者たちはその民を治め,また偉い人たちは,その民の上に権力をふるっている.あなたがたの間ではそうであってはならない.かえって,あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は,仕える人となり”(マタイ20:25b−26).
神は旧約においてさえ彼の民の上に直接的な頭首権を望まれた
そのことは新約においてだけでなく,旧約においても見られることであり,神は彼の民が目に見える“王”に従うことよりも神が直接に彼らを治めることを望まれたのである.それがイスラエル人が他の国々のように彼らを裁くための目に見える王を要求したしたとき,神はサムエルに“彼らが捨てるのはあなたではなく,私を捨てるのであり”(Iサムエル8:7)と語られた理由である.
士師記9:7−15においてヨタムが語った例話から私たちは学ぶべきである.命(オリーブ,いちじく,ぶどう)のあるふさわしい者は権威の立場を取ろうとはしないのである.ただ命の無い者(いばら)だけが他の者を治めたがり,そしてついには彼らを駄目にしてしまうのである.
旧約において立てられた,モーセ,ヨシュア,ダビデたちのような指導者たちでさえ,神の民を導くため,神の唯一の油注がれた者キリストの予表に過ぎないのである.今日私たちの時代にあって,いわゆる指導者たちに対してこの絵に描かれるような権威を適用するとき,私たちは大きな過ちに陥ることになる.そればかりでなく,先に述べたように,キリストがそのために死んだ新約の各要素はただ一つの事,すなわち神と人との間における,それが人間であれと他のものであれ,すべての仲介者を廃し,また神が選ばれあがなわれた人々の各人に対する彼の直接の頭首権を再確立することなのである.
“権威の代理人”の誤った教え
新約における統治の原則としての“権威の代理人”の誤った教えをきっぱりと葬り去ろうではないか.それは個人の良心,義と聖の感覚,またキリストご自身の直接統治権を踏みにじるものである.
人間の統治は人の良心と個人に対する神の直接の支配に従うべきであるという事実以外に聖書が明確に語っていることはない.
人は神に対してだけは何等の制限なく服従することができる.すべての人は堕落している.それゆえに私たちの人に対する服従は抑制され,またされるべきであり,それは各人の良心が許す限度において制限されるべきである.
聖書はまた,神は人あるいは人の立場をえこひいきする方ではないことを明らかにしている(ガラテア2:6;使徒行伝10:34;ヤコブ2:1).
私たちは,新約においては,“長老たち”に従いまた愛の中で“お互いに”従うように語られてきた.このことはキリストの体の肢体に対する私たちの心の態度ではあるべきだが,しかしそれは私たちの良心と神の直接的支配が許す程度においてなのである.
簡単な言葉で言おう,“すべての人の頭はキリストである”(Iコリント11:3),また“神は唯一であり,神と人との仲介者も一人であって,それは人なるキリスト・イエスである”(Iテモテ2:5).
ノアの時代において,それは唯一の統治の代理である人の良心が堕落した後に,神は人間の統治を設立したことは事実である.しかしながら,家庭内のものであれ,この世のものであれ,あるいは霊的なものであれ,人間の統治が神の直接的な統治と矛盾するようになると,いつでも人は深刻にも,嘆かわしくも,神に従うことをせずに,その統治を放棄してきたことを聖書は明確に見せている.
人は常に弁明の義務がある.彼は“権威の代理人”に従うことが,彼の無知によるものか,彼の好みまたは個人的忠誠によるものか,あるいは不適切な動機または野心によるものか,またはその権威を宣言した者の偽りによるものかを神に対して弁明する義務がある.分派をつくることは一般的に言っても悲惨なことである.そればかりでなく,誤りの従順な者に対する裁きは,間違った指導者である“権威の代理人”に対するものよりもより厳しいのである.
モーセとアロンの例
例えば,旧約におけるモーセの例を見よう.それはウイットネス・リーとその追従者たちにより権威の代理人の代表として引用されるものである.聖書においては,疑いなく,モーセの神の民に対する責任と彼らを導く委託は,他の誰のそれよりも明確に実証されている.その意味においてはモーセは,他の誰かの予表というよりも,唯一の油注がれた者であるキリストの最たる予表である.新約ではこのことを繰り返し実証している(ヨハネ5:46;ヘブル3:3;ルカ24:27;Uコリント3:7−11).それがために,私たちの時代において,誰かが自分自身をあるいは他の者をモーセになぞらえることは危険なことであると,私は信じる.
モーセすら,キリストとは違って,神の代理を神の民の間で完全に果たすことに失敗しているのである.従って,その時点において,私たちは神の権威の代理人として正当に任じられた神の執事でさえ神の権威を代表することにおいて失敗した時に,彼あるいは彼らに対して起きた事柄の明瞭な絵を見るのである.(面白いことに,このことはモーセを神の民を支配することの正当性の根拠として用いる者たちが,決して引用したがらないのである).
明らかに,モーセは荒野における40年間を通じて,メリバの水において民に対する神の気持ちを誤解した場合を除いては,神の委託に対して忠実であった(民数記20:10−13).神が岩に話しかけるように言っておられたにもかかわらず,その時モーセは神の民の前で怒り,岩を叩いた.その一つの怒りのゆえに,モーセはカナンの良き地を見ることは許されたが,そこに入ることを許されなかったのである.
しかしながら,私たちの目的のためには,モーセが犯した罪,またアロンがそれから彼自身を公に分離することをしなかった罪の故に,アロンに対してなされた事柄を見る必要がある.モーセが民の前で神を誤解した罪を犯したとき,アロンは彼の命と彼の務めを失ったのである.民の前における神を代表することでのモーセの罪にアロンが反対することができなかったという事以外に,アロン自身が自ら罪を犯したという記録はない(民数記20:24,10−13).
神はモーセに言っている“あなたは彼(アロン)のために神に代わるであろう”(出エジプト記4:16).確かに,もし聖書において“権威の代理人”に類似する事があるとすれば,それは神が任じたモーセとアロンとの関係よりも強力なものはないであろう.そこでアロンはメリバの水において直接的に神につかなかった時に,彼はモーセに対する裁きよりももっと厳しい裁きに直面したのである.
神に直接に聞くことをせずに,むしろ“権威の代理”に従ってしまった神の民の一人に対しての神の徹底的な裁きについて,同じ点を示しているもう一つの出来事は,神の人と歳取った預言者のそれである(I列王記13).神の人は神から直接に食べたり,飲んだりしないように,またその町に留まるようにと語られていた(I列王記13:9−16).しかしながら,歳取った預言者は,自分が預言者であり,主の御使いによって彼を帰らせるように,彼に食物と飲物を与えるように語られていると宣言した.そこで神の人は神の直接の言葉にではなく,その年長の“権威の代理”に聞いてしまったのである.そしてそのことのために彼はアロンと同じように命を失ったのである.
新約におけるアナニアとサッピラの例(使徒行伝5:1−11)を考えよう.地上において夫は妻の頭であると確かに定められている(Iコリント11:3;エペソ5:23).それなのにこの件においてサッピラは自分の夫の罪から自らを分離せずに,むしろ聖霊に対して嘘を言ってまで彼をかばったために,自分の命を失ったのである.他方,神のために彼の直接の導きの下にあること,また当初は人々を統治するために定められた規則を放棄することなどの人間の数多くの積極的な例をも聖句は私たちに提供する.ギデオンの初めの神による任命の一部として,神はギデオンに彼の父がもっていたバールの祭壇を壊すように命じた(士師記6:25).
アビガエルの夫であったナバルがダビデと彼の人々を軽蔑し,また彼らに対して邪悪な事をしようと決めたとき,アビガエルは立ち上がり,パン,ワイン,干し葡萄,ケーキといちじくを彼のために取った.彼女はダビデに彼女の夫に関して言った,“どうぞこのよこしまな人ナバルのことを気にかけないで下さい.あの人はその名の通りです.名はナバルで,愚か者です”(Iサムエル記25:25)ダビデ(彼はキリストの予表である)の利益を守るという“反逆的な”行動の故にアビガエルはダビデと結婚する特権を与えられたのであり,そのことは聖書の中において地上にある教会の予表として私たちに提供されているのである.
新約聖書においては地上の権威に関して“すべての人は上に立つ権威に従うべきである.なぜなら神によらない権威はなく,おおよそ存在している権威は,すべて神によって建てられたものだからである.したがって権威に逆らう者は,神の定めにそむく者である.背く者は自分の身に裁きを招くことになる”(ローマ書13:1−2).
それでも支配者たちがペテロとヨハネに公衆の面前で語り,イエスの名において教えることをとがめたとき,ペテロとヨハネは答えまた彼らに言った,“神に聞き従うよりも,あなたがたに聞き従う方が,神の前に正しいかどうか,判断してもらいたい.私たちとしては,自分の見たこと聞いたことを,語らないわけにはいかない”(使徒行伝13:1−2).
神を認めるこの世の政府でさえ個人の上に対する神の最高の権威を意識している.
例えば,アメリカにおいては,人は戦時において逃亡あるいは軍人としての自分の責任を担うことに失敗したことによって,軍法会議にかけられまた処刑されることすら有り得るのである.しかしながら,彼が武器を積極的に取らなかった理由が,すべてを統べ治める神に対して直接に答える彼の良心の問題であることを証明することができれば,政府はそれに譲歩しまたその人の良心を侮辱することはしないのである.
そこで,ヒットラーの下でナチスが犯した戦争犯罪を裁くためにニュルンベルグに設立された国際法廷も,人はたとえ上官から命じられたことであるにしても,それにかかわらず,自分自身の行動に対して責任がある,と宣言した.彼らはさらに,兵士も市民も他の人々を扱うことにおいて自分の良心を損なうような命令や法律には従うべきでないという倫理的義務がある,とまで宣言している.
もし非クリスチャン的国際法廷が,人に対する“権威の代理人”の優越性よりも神の直接の優越性を認識しまたそれに譲歩するとしたら,私たちクリスチャンは,なおのこと,それと同一の認識に至らなくてはならないのではないだろうか.
−A.F.
* 新約エコノミーにおいては身分制度の思想はまったくない.反対に,新約における神のエコノミーは,すべての信徒を同じ地位に置くものである.これが主イエスが私たちすべては兄弟であり,またキリストだけが私たちの指導者,導き手,教師,そして監督であると言った理由である.神のエコノミーにおいてはすべての信者はキリストの中で同じレベルに置かれているにもかかわらず,天然の観念では,教会にあっても他の社会的集団あるいは組織と同様に,指導者の特別な一団があるとしてしまうのである.−エペソ書のライフスタディp.348
* あるクリスチャンたちがニー兄弟の書物‘霊的権威’を用い,他の人々の上に自分自身を権威としてしまうことを残念に思う.この種の権威は自己規定的である.−啓示録のライフスタディ p.742
* 人は私に,長老たちは権威を持っているのか,と尋ねる.この質問はランクに関する天然の観念から出て来るものである.もし私たちが天然の観念の影響下になければ,このような質問はしないはずである.私は,教会においてはランクといったものはないと,繰り返したい.むしろ,私たちすべては神の恵みの執事であり,お互いに従い合うのである.−エペソ書のライフスタディ p.364
* 教会生活においては誰であれ個人的な立場をとるべきではない.もちろん,主の証しのためには私たちは堅く立つべきである.しかしながら,いかなる立場も,タイトルも,地位も自分自身のために主張すべきではない.−ピリピ書のライフスタディ p.93
* 他人をコントロールすることは,他人のために決定をなし,彼らに何をして何をするなと命ずることを意味する.それは人をあなたの指示下に置くことである.主の回復においては,私たちはこの種のコントロールを忌み嫌うべきである.誰もコントロールしようとすべきではない,なぜなら私たちは皆一人の主の下にあり,また私たちの中で生き,私たちを導く一つの霊を持っているからである.−マタイ福音書のライフスタディ p.655
* 誇り高ぶった霊的巨人は教会を破壊したばかりでなく,また彼らは私たちを自己欺瞞的にした....主の回復にあっては誰をも誇り高ぶらせてはならない.−Iコリント書のライフスタディ p.291
* 誰も自分自身を権威であると考える過ちを犯してはならない.神ご自身だけが権威であり,他の誰もそれを所有することはできない.−霊的権威 p.120