霊的権威についてさらに語る
第2コリント書2:11は言う、“そうするのはサタンに欺かれることのないためである。私たちは彼の策略を知らないわけではない”。このような微妙な場面において敵によって用いられる有効な方法の一つは、聖徒たちを恐れのもとに置くことであることを私たちは知っている。彼の用いる恐れのくまでの中心的な歯は霊的権威あるいは権威の代理人の問題である。すべての信者は、彼らが正しいか間違っているかに関わらず、神の権威の代理人に完全に服従しなくてはならない、という教えは“諸地方教会”の間においてきわめて一般に浸透している。さらには、権威にある者たちが誤りを犯したにしても彼らは神に対して個人的に責任があるのみで、もし私たちが彼らに従わないときは、私たちが神の裁きのもとに置かれ、らい病とか他の形の災いによって打たれることになる、と教えている。この教えは旧約聖書に根拠を置いているが、しかしながら、新約聖書においてはこのような教えのいかなる根拠も見い出せ得ないのである。
これから権威の代理人について論じる前に、私たちもまず権威の代理人の明確な定義を得る必要があろう。アメリカン・ヘリテジ・ディクショナリーによると、代理人とは次のように定義されている:自分よりも優位の者が不在の際に代わってすべての権限を行使する助手、あるいは他人のために行動する任命されたあるいは権限を付与された者。ゆえに代理人という言葉の定義そのものから、私たちの優位者であるキリストがおられないときにのみ権威の代理人の必要が生じることを私たちは知る。しかしキリストは世の終わりまで私たちともにおられるのであるから(マタイ28:20)、キリストに代わる権威の代理人の必要はまったくないのである。クリスチャンのグループの中で権威の代理人の必要があるということは、彼らの中心にキリストがおられないこと、あるいはキリストの権威が地上的な人間の権威に置き代えられていることを意味するのではないだろうか。権威の代理人が教会の中にいるところでは、キリストの頭首権は脇へ追いやられ、また侵食されているのである。
私たちは、上述のことによって、いかなる種類の権威も存在しないと主張しているのでない。聖書の教えでは確かにさまざまの程度のまた関係する霊的権威が存在している。例えば、諸地方教会には長老の権威が存在するし、また女に対する男の権威も存在する。これらの関係性と機能性は神が定めたものであり、またそれらを適切に観察しなくてはならない。“キリストのからだにおける権威の代理人( Deputy Authority in the Body of Christ )”の著者たちは、ジョン・ソーが“キリストのからだには権威の代理人は存在しない”また“からだの肢体は、キリストの代表あるいは代理人として振舞う他の肢体に従うべきであるという強制のもとにはない”と言っているとして彼を罪定めしている。上述の代理人の定義の観点から、私たちがキリストのからだにおけるいかなる権威の代理人の存在も認識していないとあなたがたは言うかもしれない。しかしながらジョン・ソーの教えまた私たちの信ずるところにおいても、教会の肢体の中で既得の霊的権威が存在することを確かに認識しているのである。ジョン・ソーは明確に次のように言っている、“キリストのからだにおける霊的権威は、地位上のものではなく、。。。個人的なものでもなく、。。。永続的なものでもない”。この陳述だけからみてもジョンは霊的権威が存在することを認めており、しかも、それは地位上、個人的、あるいは永続的なものではないとしているのである。以下の論述において、神の言葉からまさしくそうであることを明確にしていきたい。
霊的権威とは何か?
“権威”という言葉に対して使われているギリシャ語そのものが、霊的権威はどのように理解され適用されるべきであるかについていささかの光をもたらしてくれる。εξουσια という単語の文字どおりの意味は、出て来るもの(Out-being)、ということである。その語句は、霊的権威とはあなたの存在そのものから出て来る何かであることを示唆している。それは獲得すべき外側における地位とか、勝手な定義により自分の存在を補うための何かでもないのである。だから霊的権威は地位上のものでも個人的なものでもないのである。個人的でないという言葉により私たちは次のことを意味する。すなわち、それは一人の霊的な人との天然の関係の特質によってだれかが自動的に継承したりできるものではなく、またそれは一人の信者の能力、個人的達成、あるいは天然の才能などに依存するものではないのである。Εξουσιαは権威とはある個人の存在−−まさに彼の構成そのものから出て来る何かであることを示唆している。霊的権威を有する者はその存在が十分にキリストによって構成されているがゆえに、彼の思考、言葉、行動がキリストの願望また思いを表現しているのである。それはキリスト・イエスご自身が“すべての権威は天においても地上においても私に与えられている”(マタイ28:18)と宣言しているからである。厳密に言うと、ただ頭であるキリストのみが権威を有するのである。したがって私たちが十分にキリストで構成されているとき、またキリストの頭首権に服しているとき、そして彼に私たちを通して生きでていただくとき、真の霊的権威の実現があるのである。しかし私たちがキリストから逸脱しているときには、すべての霊的権威は私たちから剥奪されているのである。
権威の非永続性
霊的権威がある特定の神のしもべとともに永続的にあるのではないことを使徒行伝と諸書簡から見ることができる。使徒行伝の最初の12章においてはペテロが使徒たちの中にあって優勢であったように見える。ペテロは使徒行伝2章のペンテコステにおいては鍵になる語り手であり、また使徒行伝3章においてはキリストの死と復活に関する証しにおいても中心的に語り、さらに10章においては彼は異邦人に福音の扉を開くためにコルネリオの家に聖霊によって遣わされた。後の使徒行伝15章では、救いのためにモーセの律法を守る必要性についての問題を論じるためにエルサレムでもたれたカンファレンスにおいては、ヤコブが絶対的に権威にある者として登場している。それは彼がこの件について最終的かつ決定的な言葉を与えたからである。使徒行伝16章から終わりまでは聖霊の動きがパウロの周りに集中的にもたらされている。したがって霊的権威は信者の状態によって移動していることを私たちは見るのである。
まったくの当初より、諸教会に仕えるための使徒の務めを主イエスがどのように整えるか、その原型を私たちに提示している。イエスは1人ではなくて12人の使徒たちを任命した。そしてその中の誰かを他の使徒たちの上に頭とか超使徒のようなものに仕立てあげたりはしなかった。むしろ彼らがその中で誰がより偉いのかと論じ合ってトップの座を争ったとき、イエスはご自身の傍らに幼子を立たせて言った、“誰でもこの幼子を私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのである。。。。あなたがたみんなの中で一番小さい者こそ、大きいのである”(ルカ9:48)。そして興味深いことには、続く章において主は、務めの働きにおいて12使徒たちと協力するための70人を新たに任命しているのである。主の新約の務めは、排他的にただ一人の個人に帰属しているのではないことは確かである。実際、使徒たちは“務めの働き”のために他の聖徒たちを完成するためなのである(エペソ4:12)。
神の知恵は彼の新約の務めのために任じられた使徒たち(預言者たち、伝道者たち、教師たち、etc.)のような同時的複数形において表されている。使徒たちの複数性(エペソ4:11)は教会の管理において素晴らしい監視・均衡(チェック−バランス)作用をもたらすのである。それはアメリカ政府におけるチェック−バランス・システムと何か類似のものである。この機構のすばらしさは、政府の三権(行政、司法、立法)のうちのどれもがお互いに他によるチェックや、修正や、拒絶や、拒否を受けることなしに指導的行動を取ることができないということである。この政府機構の力学は独裁者が国家を支配することを実質的に不可能にしている。もしも主が各時代にただ一人の使徒を唯一の神の神託として任じたとしたら、この使徒は自分の肉をあらわにし、異端を教え始め、さらに彼だけが権威を有するものであるということで、すべての諸教会は悲劇的な背教へともたらされることであろう! 私たちはこうでないことを主に感謝する。むしろ主は多くの使徒たち、多くの預言者たち、多くの長老たちを教会に与えられた。いま私は教会の管理が民主主義によるものであると言っているのではない。もちろんそれは専制主義によるものでは絶対にない。もしそれが専制主義であれば、逸脱した権威が諸教会に命令をし、そして諸教会を一つの背教へと方向付けてしまうであろう。しかるに主はご自身の民の上に神聖政治の形の管理をなさりたいのである。すなわち主はすべての諸教会の問題、さらには私たちの人生の側面に対しても、ご自身が絶対的な管理をなさりたいということである。おそらくそれは全体主義的神聖政治とでも呼ぶべきであろう。このことのためには、私たちは内なる主の導きに敏感であるばかりでなく、いろいろなからだの肢体を通しての主の語りかけ、また聖霊の動きに敏感である必要がある。霊的権威はからだにある以上、それはキリストの頭首権のもとにある者たちや彼とまったく一つになって行動している者たちの中に存在するのである。(この問題については“からだにおける権威の委任”のセクションで特に詳しく論じたい)
神の永遠の目的の奥義の啓示について、エペソ3:5は“....この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに霊の中で啓示されている”と言っている。ここで“使徒たち”また“預言者たち”のように複数形が使われていることに注意してほしい。主から啓示を受け、教会を建てるためにそれを遂行することは集合的な使徒たちと預言者たちの務めなのである。この節から、務めの働きのために主によって選ばれた多くの使徒たちや預言者たちが存在することをみることができる。ある者たちは言うであろう、“そうだ、多くの時代を通じては多くの使徒たちや預言者たちがいるかもしれないが、各時代にはただ一人である”と。この誤った考えに答えるためには、1世紀においてすら主によって用いられ、またその言葉の務めが聖書に採用されている主要な多くの使徒たちが存在したことを観察する必要がある。(それは、すなわち、彼らの務めが聖霊によって教会を建てるために有効であると認められたということである)。彼らとはルカ、ヨハネ、ヤコブ、ペテロ、パウロなどであり、しかも彼らの大部分は同時代に生きていたのである。時間とスペースの節約のために間の諸世紀は飛ばして19世紀のブラザレンにまで来よう。主は同時に多くの偉大な使徒たち、預言者たち、教師たちを用いていたことを観察できる。少し彼らの名を挙げると、ベンジャミン・ニュートン、ジョン・N・ダービー、C。H。マッキントッシュ、ウイリアム・ケリー、アンソニー・ノリス・グローブ、W・H・コールなどである。神がその神聖なエコノミーをこの時代になって突然変えられたとか、あるいは20世紀になって彼の家が貧困に襲われたために、教会を教えるために仕えることのできる賜のある使徒あるいは預言者がただ一人になってしまったのだとかいうようなことであるとは信じられない。もし一人の兄弟が自分の経験に基づいて、啓示と霊的養いを伴って神の言葉に仕えることのできる者をただ一人しか知らないと宣言するのであれば、それは彼が他のキリストの尊い執事を受け入れることにおいてあまりにも偏狭でかつ排他的であるからなのである。私たちは、様々の異なった権威の度量において、からだの関節また筋として、また神の有力な神託として、主によってひじょうに用いられている今日のキリストの執事の名を少なくとも1ダースは挙げることができる。
私たちは、霊的権威がからだの多くの肢体において基礎づけられていることを認識したが、また、からだにおける権威は永久的に適用されることはないという原則をも理解すべきである。あなたが自分の頭として適切にキリストを維持しているので、あなたを通して主が動かれるときもある。また他の時には主はからだの他の肢体を通して、彼の神聖な意志を遂行するために動かれる場合もある。それはあなたがキリストとのお互いの住み合いから出て自分自身に仕えている間、彼らがキリストに住み込んでいるゆえなのである。つまり主はあなたをそういうときには用いることができないのである。私たちの誰もが自分はキリストとすべての考えと行動において一つであると真実に宣言できないのだから、私たちはキリストの務めを実行していない場合もあり、またそのときは霊的権威が他人の上に実現している時でもあるのである。当時“指導的使徒”であると見られていたペテロが真理に関することで偽りを行ったとき、彼はすぐさま霊的権威を失い、また彼よりも比較的若い使徒パウロに非難されたのである(ガラテア2:11−14)。一人の人の上に霊的権威が永続的に置かれているという考えは神の新約の経倫には根拠を持たないのである。
“キリストのからだにおける権威の代理人(Deputy Authority in the Body of Christ)”という論文の著者たちは、“ペテロはその弱さの中でユダヤ教徒の影響下に屈して偽善を行ったとはいえ、。。。彼は権威を伴う彼の使徒職を失っていない。むしろ彼は2つの権威ある書簡を著している。。。”と言っている。しかし私たちは、ある人が一度は弱さを契機として霊的権威を失ったとしても、彼が永久的にそれを失ったとは言っていない。主は確かに憐れみ深いので、道から外れた兄弟が一旦悔い改め、また主と真理に対しての適切な関係を回復すれば、主は再びある程度の権威の度量において彼を用いられるのである。ガラテヤ2章の全体の文脈からはペテロが霊的権威を失い、むしろパウロが霊的権威を伴って恵みに浴したことはまったく明白である(ガラテヤ2:9)。そればかりでなく、ペテロがその事件の後悔い改めて、聖徒たちに対する祭司的奉仕へと回復されたことは明白である。だから、聖徒たちを“私たちの主の恵みと主を知る知識において成長する”(第2ペテロ3:18)ように励ますため、また同時に私たちが“非道の者の惑わしに誘い込まれ”(第2ペテロ3:17)ることがないように2つの書簡を書くことで彼を用いることができたのである。
アンドリュー・ユーはその小冊子 ( An Affirmation of the Proper Authority in the Body of Christ, pp.31-32 )の中で権威の永続性を証明するために聖書の中の2つの例を用いている。一つの例は旧約聖書からの例(サウル)で、もう一つは御使いの権威(サタン)からのものである。神の新約の経倫のもとではこれら2つのどちらも神の民に対しては適用されていない。彼らが自分の立場を証明するために用いたこれらの例、サウルとサタン、はいずれもネガティブなものである点は興味深い。このことは、彼らが自分たちの指導者がサウルやサタンのように腐敗していることを知りつつ、彼がいまだに権威の代理人の立場にあることを彼らが主張していることを示唆していないだろうか。さらに私はこれらの例から指摘しておきたい。それはこれらの権威のあるものたちが堕落した後、彼らの以前の部下たちが、それらの権威に従うことを拒絶することは絶対的に適切であったということである。例えば、モーセのからだについてサタンと争ったときミカエルは、サタンの権威を認識してはいても(ユダ9b)、彼はサタンにモーセの死体を明け渡すことはしなかったのである。旧約聖書から私たちは、ダビデとその追従者たちは、サウルは権威にあり続けているように見えても、彼に従い続けることはなかったことを見ることができる。結局、聖書の教えから、権威は非永続的であることと、誤った権威には私たちは絶対的に服従する必要が無いことを見ることができるのである。
誤りの権威に対抗する必要
第一に、私は神の民の間において一般的に信じられている誤った考えがあることを指摘しておきたい。それは、迷いの中へと逸脱するという代価を払っても、私たちは“重んじられている”者たち(ガラテヤ2:9)に服従し、また疑いの余地の無い忠誠をもって権威に服する必要があるという考えである。もし私たちが一人の“権威の代理人”によって逸脱の道へと導かれたとしても、彼が一人私たちの罪に対して責任があるのであって、主は私たちが彼に盲従したことを責めはしないと彼らは主張する。聖書がこのことについてどのように啓示しているか調べてみよう。列王記上13章において、ダビデの家に預言をもたらすようにベテルに使わされた“神の人”についてのとても興味深い記述がある。神の人は明らかに主によって“パンを食べるな、水を飲むな、来たときと同じ道を辿るな”と命じられていた(列王記上13:9)。その帰途において、神の人は老預言者によって彼の家で食し、飲んでよいとの偽りによってだまされ、じゃまをされた(列王記上13:18)。おそらくこの老預言者に対するまったくの尊敬と信頼の念から、神の人はこれが本当の自分に対する主の語りかけかどうかを主ご自身に確認をしなかった。彼の主に対するこの不服従のゆえに、彼はその途上においてライオンに殺されたのである(列王記上13:21、24)。この物語から、神の人はこの老預言者のメッセージに不適切に従って罪に落ちたのであるが、主は彼を自分の行為について個人的責任を問い、かつそれによって彼を裁かれたのである。ローマ書14:12は明らかに述べている、“私たち各人が神に対して責任を負っている”と。だからいかなる権威に対しても盲目的に追従したことについては言い訳ができないのである。さらに、私たちは、歳老いた経験の有名な預言者や使徒が神の有能な人々を悲劇的な最後に導いてしまうことを見ることができる。したがって、私たちは主の語りかけに常に感覚を鋭敏にしているべきであること、また私たちは、如何なる地位あるいは評判の人であろうが、その命令を神の言葉に代えて妥協してはならないことを印象づけられる。むしろ、当初は権威にあった人から出たものであろうとも、私たちは常に誤りに対抗しまた拒絶するために準備しているべきである。
誤りの権威に対抗する私たちの必要に関して、またそれをすることに躊躇している信者に光を与えるために、ウォッチマン・ニーの本 “教会の一の問題 (The Problem of the Unity of the Church, Stream Publishers)”からの何節かの引用が助けになる:
私たちはローマ・カトリック教会が出現した後に広まった一つの状態に注意しなくてはならない。私たちはすでにローマ教会が如何に異端と偶像と汚れと罪に満ちていたか知っている。そこで、なぜ1100年間もこのような状況を取り扱う兄弟姉妹が出てこなかったのだろうか。。。。。1100年間の第4世紀の後にある者たちは徹底的にその異端と偶像と汚れた罪を発見したのであるが、あえてそれらを取り扱おうとはしなかったのである!自分たちが一旦これらの問題を取り扱えば、彼らは“一つ”を壊すことになるのを恐れたのであり、。。。彼らは偶像を礼拝する罪は大きいことを知ってはいたが、統一を壊す罪の方がより大きいと感じていたのである (p.5)。
結局は主はマルチン・ルターという名前の男を見いだし、彼は長年にわたり築き上げられてきた組織に対立して真理を語り出す者であった。彼はローマ・カトリックの“統一”を壊す危険を犯しながらも語ったのであった。“宗教改革以前、マルチン・ルターは他の教会を設立する意図を持ってはいなかった”、ウォッチマン・ニーは続ける“それをすることは、深刻な罪を犯すことであろうと彼は考えた”。マルチン・ルターがローマ教会の異端と偶像礼拝に対抗することにおいて主に忠実であったことを主に感謝する。結果として主は教会を正常に戻すための有力な道をもたれたのであり、これが宗教改革でもたらされたことである。
今日私たちの間においてこれと類似の状況が存在すると私は信じる。すなわち多くの聖徒たちは私たちの間で長年にわたり確立されてきたミニストリーにおいていくつかの問題点が存在することを理解してはいても、彼らは霊的権威を帯びている人に対抗して語ることは、神の“権威の代理人”に反逆するという深刻な罪を犯すことになることを恐れているのである。彼らは、彼らの言葉と行為における微妙な逸脱が諸教会に対して大きな損傷をもたらすことは間違っていると感じてはいても、神の権威の代理人であると嘘ぶいているこの者のミニストリーに従うことにおいて絶対的でないことはさらに間違っている感じているのである。この者のミニストリーの流れに逆らって進むことは、地面に呑込まれたり、あるいはらい病に打たれたりする神の裁きを引き起こすことになると多くの聖徒たちは信じ、また(通常は暗黙の内に)教えられているのである。このような類の恐れの戦略は、最近では聖徒たちをこの者と彼のミニストリーに対する麻酔された疑問の余地ない忠誠のもとに置き続けるために、“地方教会”によって広く効果的に用いられている。
ある聖徒たちは、この者とそのミニストリーには問題、それもかなり大きな問題、があることを知りながら、真理のために立つことは私たちの間において分裂の危険を生じると考えているのであるが、これはきわめて欺瞞的である。そしてそれは実際にあった事実なのである。彼らの問題意識は分裂が起きることである。この関心は健全であり、好ましいものであるが、しかしながら私たちがすでに真正な一の基盤を失い、“地方教会”の基礎が分派性と排他性に置き代わっているとすれば、現状に留まり続けることは何らかの益があるのであろうか。換言すれば、私たちと宗派の間における立場の相違はもはや失われているのである(注)!家の基礎が取り去られたのにどうしてその中に住んでおれようか。
(注)より詳細は、The Word and Testimoy, vol.1 no.1 の「教会の立場」と、The Word of Our Testimonyの第2ポイントを参照のこと。
マルチン・ルターが1521年にウォームズの国会(Diet of Worms)において召喚されたとき、彼は次のような言葉で非難された:“マルチン、どうしてあなただけが聖句の意味を理解することができると言うのか。あなたは他の多くの有名な者たちの上に評価を下し、あなた自身が彼らよりもより知っていると宣言するのか。あなたは最もオーソドックスな信仰に疑問を呈する何らの権利も有していないではないか。。。それを論ずることは教皇と皇帝によって禁じられているではないか。。。(注)。これらの詳細な詮索に対して、ルターは答えた、“聖句と単純な理由によって私が確信を有していないとすれば、。。−−私は教皇と議会の権威を受け入れてはいない。なぜならそれらはお互いに相矛盾しているからである−−私の良心は神の言葉に捕らわれている。私は何事も撤回することもできないし、またそうするつもりもない。なぜなら良心に逆らって進むことは正当でもなくまた平安なことでもない。神は私を助けて下さる。アーメン”(注)。おそらく何人かの聖徒たちは自分自身を疑い、次のような疑問を呈したことであろう:“私は私たちの間におけるあの経験のある‘超使徒’の上に自らの判断と決定を置くための資格を有しているのだろうか。この有名な聖書教師が教えている聖書の解釈と実行に対して疑問を呈する権利を自分は持っているのだろうか。私たちの中心で権威ある者のように見えるこの人に反対するようなことをあえて語るべきであろうか。”と。どうか私たちの全ての者が堕落と分裂の潮流に対抗して前進する誉れのある立場を取ることによってこれらの疑問をぬぐい去ることができるように。それは500年以上も前にマルチン・ルターが行ったことであり、またおよそ70年前にウォッチマン・ニーが振舞ったようにである。究極の権威は彼の言葉を通しての主の語りかけであり、それはわれわれの良心と直覚を通して、また彼のからだなる教会を通してなされるのである。私たちは最高のキリストの権威に反する権威は、それが偉大であろうと霊的であろうと、それを受け入れることはできないのである。私たちの良心は神の言葉に捕らえられているのであり、また私たちの心はキリストと教会に捕らえられているのである。
(注)Ronald H. Bainton, Here I Stand (Nashville, Abingdon Press, 1951 ), p.185
実際、聖書の中においては、当初は霊的権威を有していると尊敬されていた者が、命の道と真理の導きから逸脱してしまうと、彼らはすべての霊的権威を失ったのである。命(すなわちキリストの命)とともに権威はもたらされるのである(ヨハネ5:26−27)。ペテロは柱であると評価されていたが(ガラテア2:9)、それはすなわち彼は権威ある立場を有している者であるとみられていた者の一人であったのであるが、彼が啓示された真理に従わないで歩んでいたときには、パウロは恐れることなく彼の面前で反対したのである。それはその時には彼には権威がもはや彼と共になかったからである。
パウロは第2コリント10:8で“たとい、あなたがたを倒すためでなく高めるために主から私たちに賜った権威について、私たちがやや誇りすぎたにしても。。。”と言っている。神から賜った霊的権威の適切な適用の結果はつねに人を高めることであって、涙をもって教会をおとしめることではない。兄弟姉妹たちをある実験のために“実験室”に動員し、それがためにぞっとするような壊滅的な損失を引き起こすような権威の行使は、人を高めるための権威の行使ではないのである。この運動の開始者とそれを許した主な訓練者たちにはいかなる実験においても損失を少なくする義務があるのである。しかし、彼がいかなる権威を有しているにせよ、していないにせよ、実験動物の上に行うがごときに、キリストがその貴重な御血を流してあがない取られた親愛なる神の聖徒たちの上に実験などを施す権利をいったい誰が持っていると言うのか。誤りの権威に直面したときには、私たちの召命はその誤った方向と指図に受動的に従うべきことでは決してないのであり、もし、あなたが自分一人だけになろうとも、その誤りの権威に対抗してそれに従わないことなのである。
キリストのからだにおける権威の委任
からだの他の肢体における頭なるキリストの権威を見るための私たちの必要に関しては、私たちは、論文“私たちの道を再考する(Reconsidering Our Ways)”における章題目‘私たちの服従を再検討する’からの次のパラグラフを引用したいと思う。
新約においては、キリストのからだとしての教会は私たちが無視することのできないある種の権威を有している。ここで私が言っているのは、単に賜のある使徒たちや預言者たちのことを言うのでなく、キリストのからだのすべての肢体のことについてでもある。厳密に言って、キリストご自身のみが彼のからだにおいて権威を有するのである。なぜなら彼はからだ、教会の頭であるからである。しかしからだの肢体が、それが小さかろうと大きかろうと、頭の指示によって機能しているときには、頭に付与されている権威を彼も与えられるのであり、したがってその機能している肢体に対して抵抗することは間接的に頭の権威に抵抗することになる。この理由により、パウロはエペソ5:21において、お互いに従いなさい。。。若者が年長者に従うばかりでなく、年長者が若者に従うべきでもあり、私は付け加えたいが、普通の聖徒が使徒に従うばかりでなく、使徒が普通の聖徒に従うべきでもある。例えば、私たちは体の構成として目が手よりも優れていると考える。また頭が手に指令して物をつかむとき、その時は目は手の権威に従っているのであり、また手のために物の場所の映像を与え、正しい角度でその物を掴めるのである。このような物を掴むというような行動から、手はこの行動において目と協力しているとも言えるのである。そこで手は目に従う必要があり、目は手に従う必要があると言えるのではないか。実際、それは相互の服従であり、それがエペソ5:21で“お互いに仕え会うべきである”と言われている理由である。
私たちの今日の絶対的必要はキリストのからだの肢体において頭の権威を認識することである。このことのために私たちはからだの感覚を感じ取ること、またからだの各肢体において現されている頭の権威にお互いに従うことを学ぶ必要がある。多くの機会に、からだとの交わりがなされずに決定が下され、また行動がなされている。さらにもっと悲劇的なことは、多くの聖徒たちの間に、特に霊的に成熟した聖徒たちの間に明らかに異なった感覚があるにも関わらず、からだのその感覚を無視し、またからだの感覚を無視することを選び、よってキリストの権威に抵抗する者たちが存在することである。おお、なんと私たちはからだの肢体として遜った立場をとることを学ぶ必要があることだろうか!。。。(pp.6-7)
頭の権威はからだの肢体を通して間接的に現されるのである。したがって、私たちはからだの肢体に従うことによって頭に対する私たちの服従を表現するのである。同様に、教会の肢体を拒絶することは私たちがキリストの権威を拒絶することになるのである。頭がその意志を遂行するためにからだの目立たないある肢体を権威づける場合もある。この場合においては偉大な使徒でさえも遜り、その肢体に従うべきであり、他のことをしようとすることは彼がキリストの権威に対して反逆的であることを暴露するのである。私たちはキリストのからだにおける権威の委任を絶対的に見極める必要があるのである。
権威にある者の特徴的性格
神的な霊的権威をもつ人の目立った特徴の一つは謙遜である(注)。ガラテヤ2章においてペテロの偽善にゆえに彼に相対したとき、彼は権威と共にいかにあるべきか示したと同じ文脈において、彼はすばらしい宣言をしている:“私はキリストとともに十字架につけられた、生きているのはもはや私ではなく、私の内に生きるキリストである”(ガラテヤ2:20)。先に述べたように、真の霊的権威が実現するのは私たちを通してキリストが生き出ているときのみなのである。パウロはペテロに対してその時点では権威を有していた。なぜならば、彼はキリストにあって十字架につけられた立場を維持し、またキリストが頭首権を取られるに任されたからである。いかにしてキリストは私たちの中でまた私たちを通して生きられるのだろうか。それには私たちが十字架につけられた遜った状態の経験を受け入れることを要求するのである。私たちはもちろん権威は主イエスとともにある(ヨハネ5:27、10:18)ことについて論じあうつもりはない。また彼ご自身すら遜って弟子たちの足を洗われたのであり(ヨハネ13章)、またついには神の永遠の御計画を完成するために、彼は十字架における恥に満ちた死を経験するまでに自らを低くされたのである(ピリピ2:6−8)。私たちはどんなにキリストを私たちの模範とし、キリストの遜った思いを持つ必要があることだろう(ピリピ2:5)。
(注)この論考を短くするために、この一つの特徴のみを論じることにする。
ところがある者たちは、パウロは自分の使徒職において誇っていたのではないか、と言うことであろう。その通りである。しかしまず初めに私たちは彼は誇るように強制されたのであって(第2コリント12:11)、自発的にされたものではないことを思い出す必要がある。次にパウロの誇りは彼の弱さで構成されていた(第2コリント12:5)のであり、彼の強さによるのではないのである。ここには彼の誇りのいくつかの例がある、“ローマ人に鞭で打たれたことが3度、石で打たれたことが1度、難船したことが3度、そして一昼夜海の上をさまよったこともある”(第2コリント11:25)。また“誰が弱いのか、では私は弱くはないのか、誰かがつまづいている、では私の心は燃えないでおれようか”(第2コリント11:29)。これは、自分がいかに多数のメッセージをしたことや、他人が見ることのできない光をいかに多く自分が見たことか、いかに多くの教会を設立することを援助したか、自分のミニストリーがいかに不可欠であるかを宣言することなどにおいて、誇っている者ときわめて明瞭なコントラストをなしている。この種の誇りは絶対的に謙遜の欠如を見せているのである。
結論としては、霊的権威とはキリストで構成された私たちの存在の問題なのである。教会における種々の賜(複数形)と様々の機能(複数形)における同時的複数性を有することの神の厳粛な定めは、適切な権威の行使を担保する権威の非永続性を補償するための彼のすばらしいデザインなのである。したがって霊的権威は地位上のものでもなく、個人的なものでもなく、あるいは永続的なものでもないのである。むしろそれは命の問題であり、この命はキリストのからだの肢体を通して現されるのである。からだにおける権威の委任は、命の作用に対する私たちの自発的な協力を通しての命の現れによって決定づけられるのである。私たちは頭なるキリストの権威に対する私たちの従順を、からだにおいて現れている権威に従順であることによって証明するのである。そして権威にある者たちはいかにあろうとも誇り高ぶることはないのである。それは彼らは自分自身を十字架上に残しているからであり、また彼らは自分が有するいかなる権威であろうともそれはキリストのものであることを認識しているからである。したがって、キリストだけが崇められるべきであり、愛されるべきであり、また高められるべきなのである。栄光と主権が彼に永遠に帰されますように!−−G。F。C。 1989年11月