カルトの方法:統制主義
by
Jan Groenveld
Cult Awareness & Information Centre P.O.Box 2444
Mansfield 4122, Australia
この論文は"エホバの証人"の実態をモデルに書かれたものであるが、多くの点において"地方教会"の特徴と合致する部分が見られる。カルトあるいは全体主義(統制主義)は類似性あるいは本質的な同一性を共有するからである。なお、私の論文も参照されたい。
社会心理学とグループ・ダイナミクス
諸研究によると今日のカルトは50年前に比べてはるかに強固な統制手法を用いている。60年代と70年代の新しい心理学実験の産み出したマインドコントロールの手法は、かつて中国において開発された行動改善法 (behaviour modification techniques)とか、思想改造法 (thought reform techniques)などよりもはるかに洗練されたものである。マインドコントロールについて理解するためには、行動改善法についての基本的知識を必要とする。
"行動改善法 (behavior modification)"とは何か?
簡単に言うならば、「行動に対する報酬と賞罰」の原則である。これはあなたが幼児期においてその行動に対して受けた処置である。
子供がその過程を理解することが年齢に達しているならば、その行動を変化させるために何かの特権をはく奪することは確実な方法である。また行動が良いものである場合、彼らを誉めることは、特に喜ばせることが困難な子供の場合、とても良いもう一つの方法である。教育の杖を学びの座に適用することも望む変化をもたらす有効な方法である。
このような行動改善法が愛のある、顧みに満ちた恒常的なあり方で適用されるならば、子供たちは何らの恨みの感情などを持たないでその行動を変えて行く。しかしこれらの手法が歪曲されるならば、子供たちの精神や情緒に対して損傷を与え、例えば児童虐待症候群などを引き起こす。カルトはこのような歪曲され洗練された形での行動改善手法を適用する結果、個人の情緒などに損傷をもたらす。
認知的不協和 (Cognitive dissonance)
レオン・フェスティンガー (Leon Festinger)はこの世の終末を予測するグループの研究を行った。その中において予言がはずれた場合、ほとんどのメンバーが以前よりも強くなることを、彼は見出した。彼の研究は、彼らがその失敗に対して心理学的に対処する方法を見出す必要があることを示唆する。彼らは秩序と人生の意義を維持する必要がある。彼らは自己イメージと価値感に従って行動する必要があると考える。フェスティンガーはこのような彼らが克服しなくてはならない矛盾を、"認知的不協和理論 (Cognitive dissonance theory)"として知られるようになった心理学的事実として処理すると説明した。彼は3つの要素を述べている:
・行動の統制 (Control of behaviour)
・思想の統制 (Control of thoughts)
・情緒の統制 (Control of emotions)
それぞれの要素は他の二つの要素に対して大きな影響力を持っている。どれか一つが変化すると他の二つも変化する傾向がある。これら3つの要素がすべて変化するならば、その個人が完全に変化したことを意味する。フェスティンガーは基本原則をまとめている:
「もしある個人の行動を変化させるならば、彼の思想と情緒は不協和を最小にするように変化する」
思想と情緒と行動の間に葛藤があるならば、これらの間の矛盾を最小にするようにこれらの要素は変化する。これは人は自己のアイデンティティーを構成するこれらの要素の間の乖離がある程度内にある限りにおいて耐え得るからに他ならない。カルトにおいてはメンバーを搾取し、統制するためにこの不協をあえて作り出すのである。
"Combating Cult Mind Control(邦訳:「マインドコントロールの恐怖」)"の著者スティーブン・ハッサン (Steven Hassan) は、フェスティンガーに加えてもう一つの要素を指摘している:
・情報の統制 (Control of information)
情報を統制することによってその人をコントロールすることやその人の思考能力を制限することが可能となる。彼の思考対象を制限できるのである。
行動の統制 (Control of behaviour)
個人の物理的実際の統制である。
これは住居地、食物、服装、睡眠、仕事、儀礼などの統制を含む。この実現のために大抵のカルトではスケジュールを厳しく管理する。破壊的カルトにおいてはつねになすべき事が用意される。それぞれのカルトにおいては、それを統率するため、それぞれの行動を統制するための明確な手法がある。この統制は非常に強固なために、カルトのメンバーは自分で自分を罰し、しかも自分がそれに値すると認識しているほどである。誰も人の思想を統率することはできないが、行動を統制するならば、その人の心と思いはそれに従うようになるのである。
思想の統制 (Control of thoughts)
個人の思想の統制過程である。
メンバーの内的教義化の度合が完璧であるために、彼らは自分自身の思考過程をも操作し得る。イデオロギーは"真理"として内的に構成されている。外部からの情報はあらかじめ処理されるべき過程に従ってフィルターを通される。
カルトには個人が自分の思想を統制するための独自の言語を有する。これによりカルトのメンバーと外部者の間には大きな壁ができる。
別の統制法は"思考停止(thought stopping)"法である。これは多くの形式を取り得る:チャンチング(念仏唱え)、黙想、歌唱、ハミング、異言(ある人々はそれを学ぶために金を払うこともある)、集中的祈りなど。この手法を適用すると個人が真実を認識する能力を回避することができる。人はその団体をポジティブに考えるのみになる。もし問題が生じるならば、メンバーは自分に責任があり、さらに励むことを目指すのである。
情緒の統制 (Control of emotions)
個人の情緒の統制過程である。
これは個人の情緒の領域を操作する。罪責感と恐れがその統制のために用いられる。カルトのメンバーは自分が罪責感によって統制されていることを知ることができず、事が思わしくない時には他の虐待の犠牲者と同様に自分に問題が有ると考えたり、さらには指導者によって過ちを指摘される時にも喜ぶようにさえ条件づけられている。
恐れは二通りの方法によって用いられる。一つは外部に迫害をもたらす敵対者(私たちvs.彼ら)を作り上げることである。二つめは"好ましくない"場合に指導者によって罰せられるという恐れである。"好ましい"とはそのイデオロギーに完全に従うことを意味する。もっとも有効な情緒の統制は恐怖症を教義内的化することである。これによってそのグループを離脱することに対して恐怖をもたらすことになる。そのグループの外部においては生活ができないと思い込むのである。彼らの頭に物理的に拳銃を突きつけなくとも、心理学的な拳銃で十分なる効果をもたらすのである。
情報の統制 (Control of information)
個人の情報源の規制である
健全な意志決定のための情報を個人が得ることを阻害し、意志決定をできなくする。人々がカルトに囚われる理由は、彼らが自らの状況を知るための情報とその情報源へのアクセスを阻止されるためなのである。彼らが心理学的な鎖でつながれることは、物理的に社会から孤立させられることと同様の効果を有するものである。その心理学的過程はあまりにも強固なために、彼らは目の前の重要な情報を分析する適切な能力が損なわれるている。
マインドコントロールによる統制の8つの兆候:全か無かの原理
マインドコンロールは強制的な説得の過程を通して古い信条を新しい信条と置きかえる技術である。それはその人の独立性と個性を破壊するようにデザインされており、本来の自己に変えてイデオロギーのクローンを植え付ける手法である。中国人はこの過程を"思想改造 (thought reform)"と呼ぶが、それはあまり適切ではない英語であるが、"洗脳 (brain-washing)"と訳されている。
洗脳 (brain-washing)
今日では、洗脳は思想改造あるいはマインドコントロールとは異なった手法であると考えられている。洗脳においては犠牲者は敵を認識している。例えばアメリカの事件で、テロリストによって拉致されたパティ・ハーストの例がある。彼女は肉体的な虐待を受けたあげく、ついにはそのグループの一員となり、テロリストの活動と銀行強盗の一翼を担った。
思想改造 (thought reform)
思考の統制はもっと気づきにくい過程である。犠牲者は敵を認識することができない。それはその敵があたかも心から自分のことを思ってくれている最高の友人であるかのような顔をしているからである。
カルトは中国が用いた思想統制手段よりももっと洗練された形の手法を用いている。指導的心理学者であるマーガレット・シンガー博士 (Dr. Margaret Singer)は、カルトは自らの意志を彼らに行わせるために、罪責感と不安感によって、中国よりもはるかに容易に人々を統制していると言う。この過程を通して目的とするところは、彼らを再教育することと、カルトが提供する"真理"あるいは"啓示"と彼らが過去に学んできた人生観を置き換えることである。いくつかのカルトでは、この過程は長い時間をかけてなされ、他のカルトでは48時間でこれを実現する。どちらにせよ、そのもたらす結果は同じである。その人は完全なる個性の変化を経るが、それは時として家族も認知し得ない場合もある。
思想統制の過程については、共産主義中国におけるアメリカ人捕虜に生じた事を研究したロバート・J・リフトン (Robert J. Lifton)が記述している。あるグループが"洗脳"あるいは"思想改造"を用いているか否かを判定するための基準となっている段階を提示した。
ロバート・リフトンの研究は次のことを示している:
「これらの判断基準は8つの心理学的テーマから構成される。それらは思想改造がなされる社会環境において目立つテーマである。それぞれは全体主義的性向を帯び、絶対哲学的仮定の上に成り立ち、ある個人的な情緒傾向に影響力をもち、ほとんどは単一的性質を有している。心理学的テーマ、哲学的合理性、そして単一的個人性向は互いに関連しあっている。それらは直接的な原因よりは、お互いの関係の上に成り立つ。コンビネーションのうちにそれらは一時的に熱狂づき、気分を高揚させる雰囲気を醸し出す。しかし同時に人類の脅威となり得るのである」(Thought Reform & the Psychology of Totalism p.420).
リフトンによって指摘された8点は次の通り:
(1)環境の統制:環境とコミュニケーションの統制
人間のコミュニケーションを統制することは最も基本的な思想改造の環境の特徴である。これは人が見るもの、聞くこと、読むもの、書くもの、経験すること、そして表現することを統制することである。それはさらに個人の自分自身とのコミュニケーション−すなわちその人の思想自体をコントロールすることを意味する。
彼らの主義主張に合わない要素はすべて排除される。組織だけが際立ってくる。彼らは起きている事をすべて知っているかのようである。彼らの意志だけが現実である。この環境においては個人は現実を知り、環境から独立した自己のアイデンティティーを担保するための外部の情報の束と内的な評価作業を奪われる。個人は自分が犠牲者であり、統制者と降伏感に恨みの感情を覚える。すなわち新しい情報への希求、独立した判断、自己表現を求める感情が阻害されていることを意識するのである。
(2)神秘的な操作:組織の神秘化
これはある特定の行動と情緒のパタンが自発的にその環境の中から生じるように見せることである。操作された個人にとっては、これはほとんど神秘的な性質のものとなる。これは操作する者によるパワートリップであるだけでない。彼らは"高い次元の目的"の感覚をいだき、自分たちを"真理の主護者"と感じるに至る。彼ら自身の神秘性の道具となることにより、彼らは操作する組織ー例えば団体、政府、組織などの周りに神秘的なオーラを漂わせる。彼らはこの神秘的な使命を実行するエージェントとなるのである。
この神秘的使命を追求することは、直接的な人間的健全性を配慮することに勝る。目的が手段を正当化するのである。組織の外部者に対しては、うそ、偽り、あるいは何を言ってもかまわない。外部者との交渉は自分たちの益になる限りは良いとされる。統一教会とかハレ・クリシャナは、自らの嘘を"天的虚偽"とか"超越的欺き"と呼んでいる。メンバーはそのようなうそをつくことを正当化するほどにその教義を信じ込まされている。メンバーはカルトの活動に深く関わってしまう。そのため自分のライフスタイルについて思い巡らすための時間も精力もないのである。
"人質の心理学"−彼は自分よりも力のある者からは逃れられないと感じる。これに処する方法は相手に適応するだけである。彼は組織との軋轢を生じる条件を学び、自分自身を貶めることを避けるために組織と折り合いをつけることを学ぶ。これがその組織に長年とどまりつつ、何かが間違っていると知り、時に離脱する直前となりつつも、突然忠実になってしまった人の反応である。彼らは組織に身売りしたものであり、その引き換えにその中での友人関係の見返りを得ているのである。
(3)純粋性の要求:すべては黒か白
純粋性と不純性はその組織の教義によって決まる。その教義とポリシーと調和する思想、感情、行動のみが善とされる。個人の良心には信頼を置かない。その哲学的仮定は、絶対的純粋性は達成し得るものであり、純粋性の名においてなされたことのみが道徳的であるとする。純粋性の基準を定義し操作することと、また不純性に対して飽くなき戦い(特に排斥)を仕掛けることにより、その組織は狭量な罪と恥の世界観を構築する。このことは絶えざる改革の声によって推進され、人は人間的な状況において場違いであるばかりでなく、もともとあり得ない何かを永久にかつ苦痛と共に追求することを要求されるのである。
このような条件下においては、個人はその基準に達することができず、つねに罪責感と恥辱感にさいなまれるために、彼は自己卑下、村八分そして受罰の危機感を招くことになる。その組織こそが善と悪の絶対的基準であるために、この罪責感と恥辱感を用いてメンバーはコントロールされることになる。メンバーにとってはその組織が限りない権威とされ、その権威のほうが、"赦す"ための彼らの能力をはるかに超えてしまうのである。
すべての不純さは組織の"外部"(この世)から招来するとみなされる。したがって自分の罪責感の重荷を降ろす為の最も有効な手段は、多大な嫌悪感と共にこの世を捨て去ることである。罪責感を感じれば感じるほど、その嫌悪感は増し、さらなる敵愾心がつのることになる。組織的には、このことが究極的に異端分子の排除、大衆憎悪、そして宗教的聖戦につながる。その組織は自己の純粋性を高める一方で、他の信仰のシステムの過ちを指摘する。これによってその組織だけが、団体としても個人としても、完全で、きよく、純粋であるかのような印象を醸し出す。
(4)告白の儀式:指導者への報告
これは純粋性の要求と密接に関連している。告白は通常の宗教、法律、あるいは治療的意味を越えて、それ自体が儀式である程度にまで行われる。全体主義者の手にあっては、告白は功績を立てる手段とされ、これらの弱さに対する思いやりを提供する手段ではない。
全体主義者の告白は自己放棄の行為であって、個人と環境を統合することの象徴である。そこには自己、才能、お金に対する失望が見られる。服従である。
カルトの告白は本来の意味である顕にすることの理想の効果とまったく逆効果をもたらす。個人の秘密を覆うのではなく、むしろそれを増幅し強固にする。
個人はどの秘密を保ち、どの秘密を顕にすべきかつねに葛藤を経験し、より些細な事柄を告白し、深刻なものはむしろ隠したままにする傾向に陥る。
カルトの告白は自ずと価値と謙遜の間の合理的なバランスを保つことができないのである。
(5)聖なる科学:絶対的"真理"
彼らの"真理"こそが絶対である。それは異議を唱える余地のない聖なるものである。指導者に対しては絶対的尊敬の念を要する。彼らこそがあらゆる解答を持っている。彼らにのみ"真理"の啓示が下される。
究極の倫理は究極の科学となり、それを批判する者、あるいは考察をする者さえも、不道徳であるとされ、顧みられず、"非科学的"とみなされる。
ここでの仮定は人が神たり得るということよりはむしろ人の思想が神たり得るということである。
これによってメンバーは安心感を得る。彼らはそれにより最も困難な問題や疑問に対しても必ず回答がもたらされると信じることができるからである。
(6)特種用語の詰め込み:思考を停止する常套句
あらゆる事柄が信念、すなわち非常に洗練され、定義的な−健全そうなフレーズ、容易に覚えられ、簡単に語り出せる形に圧縮される。
そのグループの教義を表現する"良い"用語と拒絶されるべき外部のあらゆる事柄を表す"悪い"用語が存在する。統制主義者の言語は極度に分裂的であり、造語を含み、容赦なく裁く言葉である。そのグループの外部者にとってその言葉は冗長であり、ナンセンスなものである。
これによってメンバーは容易に外部者から孤立させられる。貴方を理解し得る人はただメンバーだけである。あなたの語り口によって他のメンバーはあなたが仲間であることを理解し得る。
この言語の狭量性はきわめて窮屈なものである。個人は言語生活において困惑を覚える。なぜなら言語は人間にとって中核的なものであり、思考や感情の容量が極めて制限されるからである。
当初しばらくはこの特種用語は新しいメンバーに対して安心感を与えるが、時間が立つうちにある不快さを生じさせるに至る。この不快さは組織の中に引きこもったことの結果であり、自分の問題を隠し、忠実さを訴える中で醸成されたものかも知れない。またこれは内的な分裂をもたらし、プライベートには自分の考え方をしたにしても、公の場では忠誠を示すパオ-マンスをしなくてはならないことから生じるのかもしれない。
いずれにしろ、彼の想像力は彼の現実の生活経験からますます遊離し、想像力を用いない結果、その能力は萎縮してしまうこともある。
(7)個人を支配する教義:教義が人間経験を凌駕する
理想的な神話が彼らの"真理"と結合され、そこから導かれる結論があまりに力を帯びかつ強制的になるために、現実がそれと置き換えられてしまう。結果的に過去の経験は、現在のリアリティーと矛盾が生じないために、歪曲され、書き直され、無視されたりする。個人の記憶に対して歪曲操作がなされる時、この変更は致命的なものとなる。
彼らはそのメンタリティのクローンに適合する形で、個人の性格やアイデンティティーを再構成することを要求する。個人は自己の可能性や個性を発達させることよりは、むしろその教義の枠組みの中に押し込められる。
ここにある仮定は、その教義は−その神話的要素をも含んで−、現実の人間の性格や経験よりは、より確実であり、実際的であり、現実的であるとすることである。そのような圧力の下にある個人は、自分自身の尊厳の感覚と対立してきわめて強度の葛藤を経験する。それは真実さと不真実さの両極端化された形での深刻な葛藤である。
グループからの絶対的真実さが求められるが、しかしこれまで有してきた信念を否定しなくてならなくなるような変化が個人のうちで生じる時、これは脇へ追いやられる、個人的な感情は抑圧され、メンバーは絶えず喜び熱狂的なくてはならないのである。
いくつかのカルトでは病気は信仰の欠如とか罪の証拠であるとみなされる。これらの事柄を祈りで消し去ることが求められ,"信仰の証拠"として医学的処置を放棄することが求められる。
(8)存在権の配剤:誰が生きるに値するか
彼らこそが誰が生存し、誰がそれに適しないかを決定し得る。また彼らはどの歴史書が正確で、どれが不正確かを決定し得る。
その組織に属する者のみが生きるに値する。外部者は死に値する。外部者は変化し内部者になるならば、生きるに値すると見なされる。メンバーは"死んでいる"と宣告されることを恐れる。彼らは滅ぼされること、殺されることを恐れる。情緒的な葛藤は"存在vs虚無"的なものである。
生存は教義(私は信じる、だから私は生きる)、ミッション(私は従う、だから私は生きる)によるのであり、それにもましてその組織との一体性の感覚に掛かっているのである。彼が"真理"から逸脱するならば、その生きる権利は抹消され、彼は"死んだ"と宣告されるのである。
要 約
これらの8点が明らかになるほどに、それは理想的全体主義との類似性が明確になる。個人を変化させるためにこのような全体主義的手段を用いれば用いるほどに、思想もまた似て来るのである。
覚えて下さい:カルト的であるグループがすべて宗教的というわけではない。要求が高いグループは商業的かもしれないし、政治的かもしれないし、心理学的かもしれない。注意して下さい。特にあなたが聡明で、知的で、理想主義者である場合には。このような組織にもっとも囚われ易い人は「自分は絶対に大丈夫、決して自分はそうならない。私はこれらのことをよく知っている」と主張する人なのである。