【概説】
クリスチャン信仰にはいわゆる教派や神学の学派によらない"共通の信条(The Common Faith)"と言われるものがあります.具体的には"使徒信条"などの形式をとっており、2000年にわたる様々の異端的教えとの対決を経て洗練されてきた教理です.そしていわゆる"異端"とか"カルト"と呼ばれる教えは、神格のあり方、イエスの神性と人性のあり方、神と人間の関わり、罪論、贖い論、教会論などのクリスチャン信仰の基礎を否定する、あるいは歪曲する形で必ず現れます.いわばクリスチャン信仰の自己同一性(アイデンティティー)に関わる部分を否定するのです.私の下手な説明よりも私の師である英国の Colin Urquhart の著書からの引用に任せた方が良いと思われます.
異端の共通要因
1.彼らはイエス・キリストの神性を信じない.
2.彼らは三位一体−父なる神、子なる神、そして聖霊−を信じない.
3.救いは人間の自己努力、自己進歩、あるいは規定の遵守によるものとする.救いがイエス・キリストにある信仰によってのみ獲得される神からの恵みの賜物であると認識しない.
4.新約聖書を神の真理の啓示とみなさない.他の言葉を啓示につけ加えたり、より価値のあるものとみなしたり、イエスの教えを引き下げたり、否定したりする.あるいは御言葉を自分達の教義に適合するように変質させる.
[Colin Urquhart: Explaining Deception, Sovereign World 1993]
第1点については、リーはイエスの神性と人性は「混ざり合っている」として、カルケドン会議におけるキリストの両性と位格の関係に関する「キリスト二性一人格」論を歪曲しています.彼らはそうではないとしておりますが、minglingなどの単語をナンセンスな用い方をしていることが根本的な問題です.詳細はこのリンク先にあります.
第2点については、本論文にもあるとおり、一応"パースン"という単語は用いますが、その語源であるペルソナの原義的意味(=役割)で使われていると疑われます(→証拠).すなわち、父、子、聖霊は人の内にご自身を分与するために神の経た"段階"であるとするサベリウスの"様態論"の焼き直しになっています.そしてクリスチャンの間で一般に"三位一体"と言われる教義については、それを三神論であるとして批判します.彼らは様態論を否定しておりますが、これも単に言葉の定義をすり替えているだけです.
第3点については、聖化とは「万有網羅のその霊(単なる聖霊ではない)」が人の霊から魂、体へと「浸透」し、「混ざり合う」ことによって、人が「神化される」ことであるとし、そのためには聖書の「祈り読み」とか、大声で叫ぶ「霊の訓練」による人の側のわざが必要であるとします.そこにはイエスの十字架によるみわざを信じること−信仰−がないのです.そこのメンバーは、「地方教会」の教えと実行に従って「自分も何かをしなくては」という強迫観念に追われ、イエスのみわざに安息することがありません.絶えず「働き」に強制されます.そこから逸脱するならば、自分は「失敗者」になり、主に見放されるという恐れが絶えずつきまとうのです.
第4点については、リーは自分の訳による聖書の「回復訳」なるものと、聖書の解説である「ライフ・スタディー」を提出して、あるときには「聖書は読まなくても、ライフ・スタディーを読めば事が足りる」と宣言しました.彼らの聖書理解はリーの教えの範畴を決して越えません.むしろそこからの逸脱は、たとえ聖書に沿ったものであっても、それはタブーなのです.ちなみに「日本語版回復訳」は英訳からの孫訳である.この当たりはエホバの証人のラッセルの発言や新世界訳の事情と似ている部分が多い.
いずれにしろ一般に異端的教えは「他の一般のキリスト教では教えていない真理の回復である」として、自分達の「独自の教え」を誇るものです.ウイットネス・リーの口から何度聞いたでしょうか、「貧弱で貧しいキリスト教」とか「誰が自分の見たこのような豊かな真理を説いているだろうか.私だけである!」と.ある人々は弁明するでしょう;リーの教えはブラザレンなどからも受け継がれたものであって、真理である、と.確かにリー自身の教えではなく、過去の偉大な教師(ダービーやニーなど)の遺産をも受け継いでいるでしょう、が、しかし問題はその真理にリー個人発明の「教え」を混ぜている点にあります.詳細かつ注意深く読んでみれば、ニーの「キリスト者の標準」とリーの「神の永遠のご計画」が似て非なるものであることは明白です.しかるに「地方教会」関係者は、自分はニーの教えに従っているとしながら、実はその信じている内容はリーの教えなのです.
この点リーの教えはその偽りがきわめて巧妙に隠ぺいされており、よって彼らは巧妙に欺かれているのです.よって自分はニーに従っている主張する人々はニーの「キリスト者の標準」と"The Spiritual Man" 全3巻をじっくりと読む必要があります.クリスチャンにとって恐れるべきは「100%偽りの教え」ではなく、「90%の真理に10%の偽りを混入した教え」なのです.いずれこの「10%」が邪悪な実を結びます.サタンの策略は自分の正体を隠すことと、真理を歪曲することにあって、「地方教会」にあって彼は、前者については「サタンが体の中にいる」という教えで、後者については「リーはニーの幻に従っている」という教えでその策略を成功しています.「地方教会」はふつうのカルトや異端よりもはるかに巧妙にその偽瞞性が隠ぺいされているために、それを見抜くことがひじょうに困難なのです.
さらにやっかいなのは「地方教会」関係者がその教えの上に自らのアイデンティティーとプライドを建てているために、先の私の論文で触れたように、リー氏への批判を自らへの批判と感じ、情緒的な自己防衛反応が先立ち、結果、客観的かつ冷静な議論が展開できないところにあります.例えば後に出てくるCRI(Christian Research Institute) などの専門家の論評に対して「学者の書いたものには命がない.学者が何を言おうが関係ない」とか「他人から自分の信仰についてとやかく言われる筋合いはない」といったきわめて頑なな反応が一般に観察されます.中国の古い故事「沈流漱石」の状態です.
他方において「再び誰かの教えに従って、同じ目に会うのはこりごりだ」として、いかなる聖書教師あるいはミニストリーに対しても心を閉じている人々がおります.これは「熱ものに懲りてなますを吹く」状態と言えます.神は教会に牧する務め、教える務め、指導する務めを与えておられます.私たちは決して一個人でクリスチャン生活をまっとうできるものではなく、必ず真理を聞き、それを信じ、それに従う必要があるのです.なぜなら、信仰は聞くことにより生まれ、聞くことはキリストの言葉によるとあり、また、すべて信仰によらないものは罪である...信仰がなくては神をお喜ばせることはできない、とあるからです.
さて85年頃にリーは自らを批判的に論じた書物に対して名誉棄損の訴訟を提起し、多額の金(私たちも献金を奨励されました)にものを言わせて勝訴したことがあります.彼は自らの教えの正当性を主張するために主にある兄弟である他のクリスチャンをこの世の裁判に訴え、勝訴しました.当時私たちはリーの教えの正当性が認められたとして何も知らずに喜んだものですが、パート1の裁判に関する各報道記事を見れば分かるように、必ずしも積極的にリーの正当性が認められたのではなくて、相手方が多額の訴訟費用を負担できず、倒産寸前に追い込まれ、相手方の弁護代理人不在の中でリー側の主張のみが通った異常な法廷展開だったのです.この際リー側の証人として立った中心的カルト研究者は、サイエントロジーなどのカルト側の証人としてリストされており、実際、一時日本のオウム真理教なども擁護して、彼らの負担で来日したこともある人物でした.
そしてそもそも人を赦すことをせず裁判にまで訴えて、相手をここまで追い込むやり方の根底にあるリー氏の「霊」が何なのか、私たちは気づくべきだったのです.真理とはセンター試験のように○×で判定し得るようなものではなく、そもそも「真理を知っているのは私だけである」などの排他的高ぶりの霊の存在こそが問われるべきなのです.イエスは言われました:
私は真理である...私は柔和でへりくだっている.
また言われました:
あなたがたは7の70倍も兄弟を赦しなさい...(十字架で)父よ、彼らを赦して下さい.何をしているのか分からないです.
そもそも神がすでに成就された十字架のみわざの上に、信仰によって自らを建て上げていれば、自分あるいは誰かの教えなるものを養護する必要は毛頭ないはずです.なぜなら神のみわざは誰にもよらず自ずと永遠に立つからです.それが真理であるならば、私たちが弁護する必要はありません.真理は真理自らが自らを証明するのです.