カルトの認識
−彼らをどう定義するか−
by
Jan Groenveld
(Copyright 1985-1995)
Cult Awareness & Information Centre P.O.Box 2444
Mansfield 4122, Australia
カルトおよびその"見分け方"に関しては多大な混乱がある。
ある人々はカルトを識別することは、それらがみなある種の宗教的色彩を帯びているために、困難であると主張する。このために、長年にわたって、彼らの信仰内容をあまり知り得ない場合に、カルトとは何であるかについて容易に判断するための、いくつもの定義が提出されてきたのである。
次のような定義がある:
この世的定義
カルト−ラテン語の"cultis"から派生し、それはすべての礼拝、儀式、情緒、祈祷、そして態度を意味する。この定義はすべての教派やセクトと呼ばれるものが含まれ、いわゆる宗教はすべてカルトされ得る。
クリスチャン的定義
カルト−聖書、正統性、伝統教会から逸脱するすべてのグループのこと。すなわち、キリストの神性、物理的復活、地上への人として物理的に再臨されることと信仰のみによる救いを否定する人々のこと。
この定義はキリスト教系のカルトを包括するだけである。この世にある他のカルト、例えばイスラム、ヒンドゥーなどを含まない。さらには聖書を真理の根拠としていない心理学的、商業的あるいは自己啓発的なカルトは除外される。
一般的定義
カルト−頂点にいる一人あるいは数人の指導者の教えと導きの下にあるピラミッド型の権威支配体系を有するすべての組織。彼らはそれこそが神に至る唯一の道であると主張する:例えば、ニルバナ、パラダイス、究極のリアリティー、可能性の豊富、幸福への道などなど。そしてそのメンバーをコントロールするために、思想の改造あるいはマインドコントロールのテクニックを用いる。
この定義はこの世にある多くの宗教、さらには明確な宗教的な基盤を持たない商業的、教育的、心理学的カルトをも包括する。他の人々はこれと少し異なる形の定義をするが、これからの議論ためにはこの形が最も明快である。
"伝統的聖書理解に基づくカルト"
彼らはその教義のゆえにではなく、その行動のゆえにカルトとされる。教義は弁証論あるいは異端論の課題である。ほとんどの宗教カルトはキリスト教会が異端とする教義を教えるが、そうでないところもある。いくつかのカルトはクリスチャン信仰の基礎を教えるが、その行動パタンは、虐待的であり、支配的であり、カルト的である。
これはノン・カリスマティックな教会とカリスマティックな教会のどちらでも生じ得る。これらのグループはクリスチャン信仰の中心的テーマは説きながら、それに付け加えて特別な指導体制や特別な者の書物などに特別な権威を置く。彼らはその指導体制を認め、それに対して従順にして、その本質に疑いをいだかずに受容することが良きメンバーたる資質であるとみなす。このような受容性は私たちが非本質的教義とみなすもの、例えば救いの問題ではない点(キリストのパースンとわざなど)を含む。大事な点は彼らがマインドコントロールのテクニックを駆使し、メンバーの上に影響力を行使することである。
この点に関してはDr. Ronald Enrothの優れた著書"Church that Abuses"を読まれたい。
これらの定義のガイドラインによるならば、聖書の基づいた、心理学的、教育的、商業的な派生組織をも容易に定義することができる。
他の特徴
他者に比べて自分たちは勝れているとするエリート主義と唯一の立場、例えば、自分たちこそが正統であり、他者は正しくないとする傾向。自分たちこそ神の御旨を行っており、他者は背教者とする傾向。
彼らは自分たちの主張を活発に宣伝する。それをすることによって、神の授けた個人の権利と自由を損なう。この虐待は神学的、霊的、社会的、心理学的なものである。
彼らはどのようにしてそれを行うか
・彼らの指導者(あるいは指導者達)は特別であり、その務めは比類無いものであり、その啓示あるいは権威の立場は神からのものであると主張する。
・彼らは自分たちこそ真の神の教会であると信じ込み、自分たちのグループや指導者や働きを崇める一方で、他のキリスト教会に批判的立場を取る。
・メンバーをその群れに忠信であらせるために脅しや心理操作を用いる。例えば、もしそこから離脱するならば神による裁きを被るとか、ハルマゲドンで死ぬとか、家族とか友人から孤立するとかいう形でなされる。これこそマインドコントロール過程の最も重要な点である。
・メンバーはグループに対して財政的サポートをすることが求められる。これは強制的な献金(監視される)とか、財産や所有物をすべてグループに供与するサインをするとか、サポートを拒む者には罪悪を植えつけるなどの操作をするとか、その"ミニストリー"の一環として雑誌や花や他の品物を売らせるとかの形で行われる。同時に聖書的カルトは献金袋をまわす自由意志による献金や書物やテープの販売を行う通常の教会をあざける。彼らはこのような露骨方法方を取らないことを誇る。これによって外部者に対しては金に対する関心が無いかのような態度を印象づけるのである。
・グループやその教義に対する絶対的忠誠が強調される。メンバーの生活はすべてそのグループの活動に巻き込まれる。彼らは肉体的精神的疲労のために自分自身について考えるゆとりがない。これもまたマインドコントロール過程の重要な点である。
・そこにはメンバーのプライベートな各面に対する支配がある。このコントロールは、団体生活に関する教え、「真のクリスチャンたる生き方」あるいは「導きに対する従順さ」についての絶えず繰り返される教えによってなされる。メンバーはあらゆる点についてその指導者の指導をあおぐことになる。
・聖書的カルトは教職体制や信者の立場の違い、また務めにおける差別がないことを誇る。自分たちはみな平等であると主張する。
・その団体の教えに対する疑いや疑問は避けられる。批判はすべて反逆とみなされる。権威に関する強調が置かれ、疑問なき従順と服従が求められる。これが強固に維持される。
・メンバーはそのグループに対する忠信性を何らかの形で表現することが要求される。これは時に他のメンバー(家族を含む)の"霊的健全性"を顧みると称して、彼らを"監視する"などの形でなされることもある。彼らはまた意図的な嘘(天的虚偽)をつくことを要求される。あるいは医学的処置を拒否しなくてはならない場合もある。
・その団体の問題有る真実を暴く試みは脅しに直面する。ある者は忠信の誓いを求められ,時に"契約"としてサインさえ行い、それに基づいて脅迫を受ける。グループから離脱した者は他のメンバーから糾弾され、元に戻るべき強要を受ける。
権利と自由に対する損傷
・個人の損傷:彼らは"団体性"精神を強調する。団体から離れて自分で思考することを阻害され、聞いた事を受け入れることのみが奨励される。
・親密さの損傷:友人、家族、配偶者、子供たち、両親などとの関係が壊され、あるいは深刻な損傷を受ける。
・経済の損傷:グループに対して最善をなせとの圧力を受ける。共同体の外の社会経済生活は低いレベルに甘んじることになる。それは収入がないためではなく、グループに対して捧げてしまうためである。
・"内と外"のメンタリティー:一般のコミュニティーから孤立する。そのグループの外部はすべて"サタンのもの"であり、"照らされていない"のである。彼らの敵には以前の友人、キリスト教会、政府、教育システム、メディア、そしてこの世一般も含まれる。このような事柄に関ることは"終わりの証拠"であるとみなす。
・時間とエネルギーの損傷:彼らはそのすべての時間とエネルギーをグループの活動のために消耗する。彼らは恒常的に肉体的精神的疲労状態にある。
・自由意志の損傷:彼らはグループの教えと指示に従わされ、その自由意志は損なわれる。彼らの"意志"は無意識のうちにグループの"意志"の反映となる。これは意図的な低蛋白食や睡眠の欠如によって強制的になされたり、長期間にわたる脅迫によってもなされる。どちらにおいても罪責感をつのらせることによってなされる。
この損傷による結果
・パーソナリティーの変化:身内の人々によって変わってしまったと見られる。暖かく愛に満ちた人柄から、虐待的で拒絶感と嫌悪の感情に満ちた人柄に変わる。カルトのメンバーは自分が"義である"と考える結果、他者に対する態度がそのような冷酷な態度となる。
・アイデンティティーの喪失:彼らはそのグループから離れると自己を個人として認知できない。ある者たちは以前の人生を拒否する結果、その名前までも変えることがある。
・パラノイア−迫害意識:そのグループに対して批判的な事を言うならば、それが正当であれ不当であれ、自分たちは"迫害されている"と感じる。個人に対するいかなる批判もまた迫害とみなされる。それは自分が何かまずいことを行ったがためであると考えるのではなく、ただ自分が"真のクリスチャン"であり、あるいは"目が開かれている"者であるからだと考える。しかしながら、同時に彼らはあなたが信じることは何でも批判仕上がる傾向があり、それは彼らが"自分たちこそ正しい者である"と思っているからに他ならない。
・社会性の喪失:彼らはそのグループ外の社会性を喪失する。これは彼らがそこを離脱した場合、自分の時間を活用することができないばかりでなく、自分で判断することさえ不可能となる。彼の社会観は変化し、その指導者の目から見た社会しか感知し得ないのである。彼らは社会生活に対して非常に臆病になる。
・強度の罪責コンプレックス:彼らは"永遠の生活"に"ふさわしく"、"適する"者となるために、自分がなしたそのグループに入る以前の行動に罪責感を感じるようにされる。メンバーは絶えず罪責を指摘され、些細な規則に反するだけで"山"のような罪責感を感じるようにされる。自分が十分に事をなさないためだけではなく、疑いや恐れを抱くだけで、また知性的に思考することについてさえも、罪責感がもたらされる。新たな罪深い事やそうでない事のリストが積まれるに連れ,このような罪責感が一束一束と積まれて行くのである。病気も信仰の欠如とみなされ、さらに罪責感をつのらす。情緒的病は罪があるためとみなされ、さらに罪責感はつのる。
まとめ
以上の諸点がすべてのカルトで観察されるわけではない。しかしすべてのカルトは程度の差こそあれ、これらの諸点のいくつかを備えているものである。