"キリストが聖霊となった"について
−「キリスト=聖霊」の根拠とすること−
本文書はウイットネス・リー独自の"神の三一 (Trinity)"に関する教義の中の、「キリスト=聖霊」とする根拠を論じているものです。1コリント15:45「最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった」と根拠に、この"命を与える霊"とは聖霊のことであり、したがってキリストは手順を経て今や聖霊となった、というわけです。しかもこの聖霊は今や神の霊であるばかりでなく、"神性と人性の混ざり合った万有網羅のその霊(the all-inclusive Spirit)"としている。神が手順を経て究極的に完成されたあり方が、この霊であるとするわけです。
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Affirmation & Clitique
Vol.No.4 (October 1996)
二つの命を与える霊?
今1コリント15:45を見てみましょう。この節には「最初の人アダムは生きた者(soul)となった、最後のアダムは命を与える霊 (a life-giving Spirit) となった」と言っております。この節によりますと、最後のアダム、すなわちキリストは、命を与える霊 (a life-giving Spirit)となったとあります。ある人々はこの節を歪曲して、ここは"a life-giving Spirit "についてであって"the life-giving Spirit"ではないと主張します。しかし聖霊の他に命を与える別の霊が存在するのでしょうか?そのような主張は命を与える霊が二つあることを意味し、完全なる異端と言えます。ここの冠詞が定冠詞であれ、不定冠詞であれ、最後のアダム、キリストご自身は霊 (a Spirit)、命を与える霊 (a life-giving Spirit)になられたのです。この時点で私たちはヨハネ6:63に触れる必要があります。そこでは主は「命を与えるのは御霊 (the Spirit)である」と言っておられます。この章においては主イエスはご自分が人々に対する命のパンであると言われました。究極的に人々に対する命を与えるパンとなるために、ご自身が御霊になる必要がありました。なぜなら命を与えるのは御霊であるからです。さらに、2コリント3:6は「文字は殺し、御霊は命を与える」と言っています。この節の御霊とは聖霊のことではないでしょうか?命を与えることができるのは聖霊以外に別の霊があるとでも言うのでしょうか?答えはノーであり、決してそのようなことを言うべきではありません。
二つ目のこの節の歪曲の仕方は、ここの命を与える霊 (the life-giving Spirit) は聖霊ではないとし、人格としてのキリストの霊であるとすることです。この節をこのように歪曲する人々は、私たちが霊を持っているのと同様に、キリストも霊を持っていると主張します。そこで彼らはここの霊 (the Spirit) はキリストの霊であって、聖霊ではないと主張します。確かにこの節の御霊はキリストの御霊です。しかし聖霊以外にキリストの御霊と呼ばれる別の霊があると信じられますか?あるいは、別の言い方をしますと、キリストの御霊の他に聖霊と呼ばれる別の霊があり得ますか?もしこのように信じるのであれば、あなたの思いは暗くされるでしょう。啓示された人の思いはそのようなことを信じるはずがありません。
1コリント15:45をこのように歪曲する人々は、今日の聖霊は神の御霊であるばかりではなく、キリストの御霊(ローマ8:9)でもあり、イエスの御霊(使徒16:7)でもあることを知らないのです。ローマ8:9は神の御霊は今日キリストの御霊でもあり、ピリピ1:19ではキリストの御霊はまたイエス・キリストの御霊でもあることを証しております。アンドリュー・マーレーは、その著「キリストの御霊」の中の"栄光化されたイエスの御霊"の章において、キリストの昇天の後はかつての在り方で御霊は来られないと言っております。旧約聖書においては、御霊は神の霊としてのみ来られましたが、キリストの復活と昇天の後は、御霊は神の御霊として来られるばかりでなく、人なるキリストの御霊としても来られるのです。さらに、ヨハネ7:39ではキリストの死と復活の前には御霊はなかった(was not yet)とあります。しかしながら、神の御霊は存在しておりました。批判者たちは今日聖霊は神の霊であるばかりでなく、キリストの霊でもあることを明らかに知らないのです。御霊、すなわち神とキリストの霊は命を与える霊(the life-giving Spirit)であるのです。彼の復活の後ずっと、キリストはそのような命を与える霊(a life-giving Spirit)となられました。疑いなく、この霊とは聖霊のことです。
パウロは1コリント15:45を注意深く書きました。彼は「最後のアダムはひとつの霊(a Spirit)になった」とは書きませんでした。彼は修飾句「命を与える(life-giving)」を付けて、「最後のアダムは命を与える霊となった」と書きました。議論の余地はありません。命を与える霊とはどなたですか?聖霊のほかに命を与える霊が存在すると言えますか?それは不可能です。
第三の歪曲の仕方は、ここの霊(the spirit)とはキリストの人間の霊であるとすることです。しかしここの霊がキリストの人の霊を言うだけであれば、彼は霊になる必要などはなかったはずです。なぜなら、彼はすでに人の霊を持っていたからです。福音書の中では何度もキリストの人の霊に言及する個所があります。例えば、彼は「自分の霊によって」知った(マルコ2:8)とか、「彼は霊の中でふかくなげいて」(マルコ8:12)とか、「霊の中で憤りを覚え」(ヨハネ11:33)とか、「霊の中で困惑されて」(ヨハネ13:21)とあります。よって、彼は人の霊となる必要などはなかったのです。
第四の歪曲の仕方は、最後のアダムは生きた者(soul)となった、キリストは全体として霊(a Spirit)となり、しかもこの霊は命を与え得る聖霊ではないとすることです。私は、聖書が言うのですから、アダムが生きた者(soul)となったことには同意します。またキリストが霊(a Spirit)になったことも信じます。しかしこの霊は命を与え得る聖霊(the life-giving Holy Spirit)以外の者ではあるとは認めません。聖霊以外に命を与える霊があり得ると考えられるでしょうか?これは不条理です。あなたには選択が二つあります―歪曲を取るか、聖書の明確な言葉を取るか、です。私たちは単純になって、聖書が語ることに対してはただ「アーメン」と応答すべきです。
−ウィットネス・リー著「三一に関する真理」、アナハイム、リビング・ストリーム・ミニストリー、1994
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【解 説】
リーの教義は、第一段階として「神がキリストとして人になった」、第二段階として「キリストは死と復活の後、命を与える霊(=聖霊)になった」とし、この「二つの"なった(becaming)"」こそが、リーが見出し得た神の究極の在り方の見失われていた真理であるとし、この次の究極段階として、「その霊と混ざり合った人々(=教会)が神化される」と続く。ここでもリーの特徴である、たとえば、「罪をサタンが姿を変えたもの(the embodiment of Satan)」とし、「サタンが人の肉体の中に入って、肉体は変質して肉(flesh)となった」とか、「神性と人性を混ざり合わせる」などの主張、すなわち"罪"とか"肉"とか"性質"などをいわば物質化する傾向が観察される(→参照)。
さらに節を文脈から切り離して、そこに彼の独善的な解釈を加えると、テコでも動かない確信が形成されて、それを繋ぎ合わせて一つの体系が構成される。この1コリ15:45の文脈は、復活の存在の証明をしている部分であって、第一の存在(初期創造)と第二の存在(再創造)の対比を論じている個所であって、「命を与える霊となった=聖霊となった」ことを主張する節では決してない。ギリシャ語では"the life-giving Spirit"ではなく、"life-giving spirit (πνευμα ζωοποιουν)"である。リーの誇る「回復訳聖書」ではしばしば、リーの教義に添った形の"訳"が与えられている個所が見られる。