[資料24]
ウイットネス・リーの“三一の神の真理”に関する一考察
by
L.O.K.
(Ph.D. Dr. Med Sci)
1.はじめに
パウロは言っている,“あなたがたに対するわたしの言葉は,‘しかり’と同時に‘否’というようなものではない..キリスト・イエスは‘しかり’となると同時に‘否’となったのではない”(Uコリント1:18−9).
神とは私たちの認識のいかんにかかわらず自ら存在する絶対者である.神はご自身自ら言われたように“わたしはあってある者”,“I AM”たる方である.したがって神がいかなる存在者であるかは,御言葉に対する人の認識あるいは解釈のいかんによらないはずである.しかしながら,私見が許されるならば,クリスチャン信仰の核心である神たる方に対する私の認識は,客観的な神の救いのご計画を私の主観的な経験として評価するために,きわめて重大な影響を及ぼしていると,自分の経験からしても告白せざるを得ない.
私は以前からきわめて疑問に思っていたことがある.イエスはなぜあのゲッセマネの園で血の汗を流すほどに,また死ぬほどまでに苦しまれたのであろうか.ある老兄弟が私に教えて下さった,“あれはイエスの人間としての側面の苦しみである.イエスは十字架を前にして,人間として苦しまれたのである”と.私は一応なるほどと思ったが,しかしそれでも疑問が残った.十字架にかかったのはイエスだけではないはずである.さらには殉教したクリスチャンたちの中には,生きたままライオンに食われたり,火あぶりにされた者もいたのであるが,彼らの死を迎えての言葉は主のような言葉ではなく,むしろもっと力強いものであった.それにひきかえイエスの言葉はどうも冴えない感じである.イエスは何ゆえにあれほど苦悩したのだろうか.
この疑問は実は神の存在,すなわちその三位一体(この言葉を嫌うのであれば,神の三一性)について,私の内で聖霊が光を送って下さったときに氷解した.それは御子が御父とは互いに区別された自存者であるからである.十字架にかかられたのは,御子であったからである.御子はリーが言うような,御父が人の前に現れるときの様態などでは決してないのである.もしそうであったなら,イエスの十字架はまったくナンセンスなものとなり,罪のあがないも根本的に成立しなくなるであろう.それは主の十字架の価値・意義を引き下げるどころか,無に帰するものである.この点については本論の目的とするところではないので,これ以上の言及は避けるが,神の三一性はこの例からも明らかなとおり,神のご計画の根本に関るきわめて重要なポイントであることを指摘したい.それは神学の一つの研究題目などでは決してないのである.
私見を述べることはこれまでにして,本論の目的を述べたい.リー氏はつねに自分の独自の聖書の解き明かしを誇り、神の三位一体について"独創性"に富んだ説明を与えている。はたしてその説明あるいは解き明かしは、聖書に添っているだろうか、あるいは一般のクリスチャンと共有し得るであろうか?それはリー氏が自分の言う“真理”の聖書的根拠としてつねに挙げている御言葉について,種々の資料による見解を端的にリストアップすることが本論の目的である.したがってこれはある体系的な価値判断を読者に強要することが目的ではなく,それぞれが自らの判断を行う際の客観的資料として用いていただければ,その使命を果たし得ることになる.したがって脈略のない引用の羅列になっているが、それは問題意識をもたれる方のお役に供することが目的であるからである。
2.本 論
2.1.1.考察のための素材#1
■リー氏の“神の永遠のご計画”からの抜粋[同書pp.64-78]:
わたしたちの内容としてご自身をわたしたちのうちに入れるために,神は三つの格位として存在しなければなりません...[イザヤ9:6を引用して]聖書の権威を信じているなら,そのみどりごが大能の神と呼ばれている以上,そのみどりごは大能の神であるという意味であり,男の子が父と呼ばれている以上,御子が御父であるという事実を受け入れなければならないのです(§1)...みどりごイエスは大能の神であり,御子はとこしえの父だからです.
さらにUコリント3:17は“主はその霊である”と言っています(§2).わたしたちの理解によれば主とはだれのことでしょうか.わたしたちはみな,主とはイエス・キリストであるということに同意しています.しかしながら,主はその霊であると言われています.その霊とはだれのことでしょうか.その霊は聖霊に違いないと認めなければなりません...御父と御子と聖霊が一つであるという意味です.この事を強調するのは,神がご自身の異なる格位によってご自身のエコノミーを達成されるからです.[この後で丸ごとのスイカを御父,切り分けられたスイカを御子,かまれた後ジュースになったスイカを聖霊として,スイカを食べる過程をもって神のエコノミーの例証としている]
2.1.2.考察のための資料
§1.ヘブル語の‘父’については;
Gesenius' Hebrew-Chaldee Lexicon To The Old Testament, Baker Book House, p.2, 1979. ‘Father’の項からの抜粋:
Father は,無報酬で益を与えてくれる両親のような,育ててくれる者(bringer up),養ってくれる者(nourisher)に対して適用される.ヨブ29:16,詩篇68:6,イザヤ22:21(宮殿の完成者エリアキムについて言っている);イザヤ9:5ではメシアが(民の)‘とこしえの父’と呼ばれている;ラテン語のpater patrioeと比較せよ.同様の陰喩によって神は義の父,地の王たちの父と呼ばれている.彼らは共に神の子供たちと呼ばれている,Uサムエル7:14,I歴代誌17:13;22:10; 詩篇89:27,28[これらの節は神の子キリストに言及している].それはあたかも自分の子たちに指示を与える父のような立場である.
§2.Uコリント3:17については;
[1]W.Lee, The New Testament-Recovery Version, Living Stream Ministry, p.830, Note 172:
2:12に始まるこの区分の文脈によれば,ここの主は主なるキリストを言っているに違いない(2:12,14,15,17;3:3,4,14,16;4:5).それでこれは聖書の中でももっとも強い言葉であって,わたしたちにキリストがその霊であることを強調して告げている.[次に Vincent, Alford, Williston Walker の注釈を根拠として挙げている].
[2]J.N.Darby, THE HOLY SCRIPUTURES -A New Translation From The Original Languages, KINGSTON BIBLE TRUST, P.23, からの抜粋:
Kuriosの前に定冠詞が必要な場合は括弧を付けなかったが,しかし私はここに,LXX(七十人訳)において Jehovah に対して用いられ,それによって新約聖書に転用された Kurios が,ある固有の名称として用いられる場合,すなわち‘Jehovah’の意味で用いられている節をここにすべて列挙する.それは新約聖書においては,あらゆる事柄に対して主権を有する立場にあるキリストの称号としても用いられている...疑わしい節については疑問符を付しておいた.
[一連のリストの中に]Uコリント3:17,18(特異的性質を持つ)[?は無し]
[3]THE AMPLIFIED BIBLE, ZONDERVAN BIBLE PUBLISHERS,Grand Rapids,1982, p.274 においてはこれをイザヤ61:1,2の引用としている.
[4]George Eldon Ladd, A Theology of the New Testament, Grand Rapids, 1974, p.490 からの抜粋:
[Iコリント15:45を指して]これを背景として,パウロが復活した主と御霊とを言語上同一視している点に関してなされてきた多くの議論について,私たちは理解することができる.“主は霊である.主の霊のあるところには自由がある”(Uコリント3:17)これは位格上の完全な同一視を意味するわけではない.なぜなら,パウロは霊としての主と,主の御霊の両方について語っているからである.その文脈においては,パウロはモーセの律法の旧い務めとキリストにある新しい務めとを対照しているのである.旧い務めは“死の務め”(Uコリント3:7)であり,新しい務めは,命を意味する御霊のディスペンセーションである.この新しい務めは霊の領域に入られた復活された主によって開始された.主と御霊は位格上同一視され得ないが,主は御霊の中にあって新しいディスペンセーションのみわざをなさるのである.
[5]Donald Guthrie, New Testament Theology, Inter-Versity Press, 1981. p. 570 からの抜粋:
私たちのコメントは特にそこから多くの議論が生じるパウロの手紙に集中する.キリスト論(Chistology)の領域にあっては,はたしてパウロはキリストと御霊とを同一視しているのだろうかという疑問が残るのである.それを根拠付ける聖句としてはUコリント3:17“主は霊である”であろう.もしこれが他から切り離された独立した節であれば,疑いなくそれは明確な同一視をしていると言明であると結論付けもできよう.多くの学者がこの光の中で認めてはいるが,しかし彼らの結論はここの文脈に完全に添った正当なものとは言えないのである.なぜなら,この節の前の節で言及されている‘主’が,別の意味であるとするのが健全な解釈と考えられるからである.Uコリント3:16はキリストと言うよりもむしろ Yahweh に対して言及しているとする見解を支持する十分な根拠があるのである.それはここのすべての節は出エジプト34:29−35に言及しているからである.この場合,御霊と同一視されるのは,現在のわれわれの経験においては出エジプト34章の主であるということになろう.いずれにせよ,Uコリント3:17の‘主’をキリストであると解釈する者でさえも,それは機能論的な同一視であって,存在論的な同一視ではないのである.現代においては御霊は旧契約のもとにおける律法が果たしていた役割を遂行している.したがってパウロの言葉は,御霊は復活された主の素晴らしさを信者に対してあまりにもリアルにすることによって,その主を再び地上へともたらすために,実際的には同一視することにもなる,と解することができる.ともかく,パウロが同じ文脈において‘主の霊’という表現を用いている事実は,パウロが御霊と復活された主とを区別していたことの証拠であることは間違いない.
[6]J.H.Thayer, Thayer's Greek-English Lexcon of The New Testament, Grand Rapids, 1977,p.522, pnuema の項からの抜粋:
c.修辞学の転喩[注/例えば King の代わりに Crown を用いるような比喩の一種]として,πνευμ は使われる,α.霊が表現されたり,あるいは霊の化身であるような人について; よって,それが神聖な霊であろうと,悪霊であろうと,霊にとりつかれた者;神の霊であれ,偽りの高ぶりの霊であれ,それによって動機づけられた者,すなわち:Uテサロニケ2:2,....しかしその最も真実にかつ最高の意味で用いられているのは,ο κυριοζ το πνευμα εστιν,これは,御霊の内住によって完全に満たされている方のことであり,彼からからだであるクリスチャンにその豊かさが注がれるのである,Uコリント3:17.
特に復活されたキリストと聖霊の関係については;
[7]Watchman Nee, The Spiritual Man, Christian Fellowship Publishers, 1968. Vol.2, pp.11-25 からの抜粋:
十字架のみわざは主イエスによって完全になし遂げられている.しかしそのなし遂げられたみわざを罪人の心に適用するのは聖霊の働きである.私たちはキリストの十字架と御霊によるその適用の関係を知るべきである.十字架はすべてをなし遂げたが,それを人にもたらすのは聖霊の働きなのである.十字架は人に立場を与え,聖霊は人に経験を与える...現在のディスペンセーションにあっては,信者の中に神の霊が内住するのは,御父と御子を現すためである...内側にいます方はキリストを信者に啓示し,彼らを聖め,霊的な真理の高みにまで導くのである.
信者の内にいます方は一人のパースンであって,その方は教え,導き,キリストの実際を彼らにもたらすのである...聖霊は神ご自身であって,三一の神の三人の位格のうちの一人であって,御父と御子の命そのものであり...
ibid, p. 151 からの抜粋:
信者はまたキリストの居られるところを理解していないと,魂の領域に落ちこむ危険がある.神の子供の内に内住される聖霊は,彼に御座につかれたキリストを現すのである.使徒行伝,エペソ書,ヘブル書は明らかに今日キリストは天におられると告げているのである.クリスチャンの霊は天のキリストとつながれているのである.しかしながら,このことに対する無知のために,クリスチャンはキリストを探して自分の内面を見てしまうのである.自分の内におられるキリストとつながれることを求めてしまうのである.結果として彼の霊は雲の上を越えることができず,むしろ圧迫され,魂の領域に落ち込んでしまうのである.この結果彼は霊よりも自分の感情・感覚にしたがって生きることになるのである.
ibid, Vol.3, p.140 からの抜粋:
キリストは聖霊によって信者の内に生きられるという事実は福音の本質的教義の一つを構成する.
[8]ウオッチマン・ニー,キリスト者の標準(旧版),いのちのことば社,1980, p. 151 からの抜粋:
神は御霊を通して臨在されており,キリストもまた御霊によって臨在しておられます.したがって,聖霊が私たちの心に内住しているのであれば,私たちの内に御父と御子が内住しておられることになります.これは単なる仮説や教理ではなく,さいわいな現実です,私たちは,実際に御霊が私たちの心に存在しておられることを自覚したかもしれません.しかし果たして聖霊が人格(ペルソナ)を持つお方であることを自覚しているでしょうか.
2.2.1.考察のための素材#2
■「地方教会」最高責任者吉○栄○氏の書いた“聖書真理”からの抜粋:
三人格はそれぞれの役割の違いであって,絶対に三神論者が主張しているような別々の三人格ではないのである...神の三一性はイエスの神人二性をお持ちのことからも分かるように唯一である(§1)...彼らのようにあまりにも神の三格位を文字通りに強調する者は皆アリウス異端説のような三神論に落ち込んでしまう(§2).彼らも一体という言葉を使うが,結局は父というお方がおられ,そのそばに御子というお方がおられ,そしてまたそのそばに神の霊というお方がおられ,三人が一つにまとまっているという考え方である.あるいは本質が同じであるから通じ会っておられ,三人が一つにまとまっているという考え方である.‘聖霊が私たちとキリストとを神秘的に結合してくださる’という彼らの言葉はなるほど神秘的で理解に苦しむ.別々に独立している三人格であれば,他人格を私たちを結合することは不可能なことである(§3)...見えない根源なる神をさす時に御父と呼び,現れなすった神をさす時,御子イエスと呼び,私たちのうちに入られたのを聖霊なる神と呼ぶ...三人格は機能的分担の時に啓示されたに過ぎない.人格という言葉自体が不正確である(§4).
2.2.2.考察のための資料
§1.ここで吉○氏は明らかに神の三位の区別を否定している。また神の三位格とイエスにおける神性と人性の結合の相違を見落としている.
御父,御子,聖霊の間の相互関係と,イエスにおける二性の存在には本質的差異がある.このキリストにおけるHypostatical Union については,次が参考になろう:
[1]Charles Hodge, Systematic Theology, ed.Edward N. Gross, Baker, 1988. p.352-361 からの抜粋:
キリストは完全な人であり,完全な神であったにもかかわらず,彼は一人のパースンであった.何にもまして,キリストが二重の人格を有していた証拠はまったく存在しない.御言葉は御父,御子,御霊を神格における異なった位格として啓示している.すなわち,彼らはお互いを呼ぶときに二人称を用いているのである...しかしながら,このことはキリストにおける二性の存在については当てはまらない.一方の性質が他方の性質から区別されることは決してなかったのである.神の子が人の子をして自身と異なったパースンとして呼んだことは決してなかったのである.聖書は一人のキリストを啓示するだけである.
[注]復活されたイエスの存在形態を考察するためには,このイエスにおける二性の存在を理解することが鍵になると思われるが,本論の目的は神の三一に限るために,この論点については別の機会に譲りたい.
§2.吉○氏の論述において,神格における位格(Person)と人間における人格(Personality) の概念を混同している節が見える.これについては次が参考になろう:
[1]P.メネシェギ,父と子と聖霊−三位一体論−,上智大学神学部編現代神学叢書3,南窓社,1984. pp.246-248 からの抜粋:
二十世紀の神学者のうちで,特にK.バルトは,人格 Person と意識についての現代哲学から,伝統的な三位一体論に関して生ずる危険を指摘している.すなわち,多くの現代人が人格と意識を同一視している.それゆえ,神における三つの位格(ペルソナ)という表現が多くの人にとって三つの別な自己意識,したがって三つの別々の神々を考えさせる.この危険を避けるために,バルトは,三位を指す表現として,位格(Person)という言葉を避け,その代わりに,‘存在様式 Seinweise’ということばを用いているのである...現代のキリスト者は一般に三神論に陥るよりも,古代においてサベリオスが唱えたような唯位神論に陥る危険が多いと私は思う.そして,神学者が父と子と聖霊を単に神の‘存在様式’と呼んだり,また,より深い考察を行わずに,意識的人間主体と神における三位の間の類比をまったく否定したりするならば,唯位神論に陥る危険はますます大きくなるのである.
ibid, pp.98-99 からの抜粋:
(1)父も子も聖霊も神である.というのは,子も聖霊も神でなければ,父と同列に置かれることはできず,受洗者が父のみならず子と聖霊にもささげられるということは言えないからである.
(2)父と子と聖霊はペルソナ(位格・主体)である.というのは,受洗者の自己奉献を受け入れる相手が意識を有している主体でなければ,その奉献は無意味だからである.
(3)父と子と聖霊は相互に区別された者である.というのは,三つの名の前に定冠詞がそれぞれ繰り返し用いられていることは,相互に区別された三つの主体について述べていることを示しているからである....聖書には父と子とは区別され,しかも神である聖霊の存在が啓示されているのである.しかし,この聖霊は固有の‘顔’を持たず,また固有の名前さえも持ってはいない.事実,父なる神もキリストも霊と呼ばれ(ヨハネ4:24,Uコリント3:17),‘聖’と呼ばれている(イザヤ12:6,ルカ1:35).聖霊は自分の言葉では語らず,‘みことば’であるキリストの言葉−それは父の言葉であるが−人々に理解させ,キリストの心を人々に持たせるのである.
ibid, p.149 からの抜粋:
ギリシャ教会の神学者たちが,神における三つの自存者の区別を強調した結果,七世紀にアリストテレスの論理学が東方神学に導入された時,神の本質を,アリストテレスのいうような単なる思考上の類概念の一致しか持たないものとして考え,三神論に陥る危険が生じたのである.
◆私 見◆
三神論に陥るメカニズムはおそらく次のようなものであろう.神における区別された三位格(Person)の存在を,人間における"一つの肉体における一人格(Personality)"と混同する結果,三人の神々を想像することになる.しかしこれは上記にあるとおり,概念上の論理学的操作によって生ずるものであって,これに類したことは物質の世界にも存在する.
いわゆる量子力学的世界における電子の波性と粒子性の二重性である.類概念としてとらえたとき,電子の存在は相矛盾する二重の存在となり,理解できないものとなる.しかしながら,人間の理解が先験的に存在するのではなくて,自然界の方が先験的に存在していることを認めるとき,電子の存在の二重性は,それをあるがままに認めざるを得ない.電子は波であって,粒子でもある,としか記述するすべを人間は持たないのである.ここにも神の人の知性に対する警告が見られるように思える.
しかしながら,この三神論へ陥る危険を回避するために,神格における位格(Person)をその単語ペルソナの原義的意味(=役割)にとって,唯一の神の三相としての御父,御子,御霊と捉えるサベリウス的様態論(唯位神論)に陥ってしまうのである.上述のリー氏と吉○氏の記述からは明らかに位格(Person)をこの意味で捉えていることは明白である.
§3.主と結合されることについて;
[1]Watchman Nee, The Spiritual Man, Vol.2,pp.21-23よりの抜粋:
主と結合されて一つの霊とされる:Iコリントの書簡においてパウロはその読者に対して,“しかし主につく者は主と一つの霊になる”(6:17)と知らせている...復活された主は命を与える霊である(15:45).信者と主が結合されることは,したがって信者の霊との結合である.人の個性の座である魂は,生れつきのものに属する.それがなすべきすべての事は,主と信者の内なる人との結合の結果である実の容れ物となり,また表現となることである...この結合はどこにあるのだろうか.それはキリストの死と復活と一つになるときである(ローマ6:5).これは私たちが主と完全に一つであることを意味する...これは昇天の生活である.信者の霊は神の右に座しておられる主と結合されるのである.御座に座しておられる主の霊が,地上にはいるがこの世のものではない信者の霊の中に流れ込むのである.そして地上において天の生活が行われるのである.
[注]ここでニーは,主が‘命を与える霊’となったことを,リーが言うような主が"万有網羅のその霊"となった,とは言っていないことに注意.彼はこのIコリント15:45 の命を与える霊と,聖霊を決して同一視していない.なぜなら,この次のパラグラフで聖霊の内住を別に述べているからである.この‘命を与える霊’を手順を経て,加工された神の究極姿とするリーの見解については次が参考となろう:
英訳聖書の多くが,この‘命を与える霊’を ‘a life-giving spirit’と不定冠詞のしかも小文字の spirit を用いている事実[GJV,NIV,Amplified,NASV,Darby訳,Scofield].それはそもそもギリシャ語に定冠詞なしの pneuma が使われていることの反映である.ここの語用法については,
[2]J.H.Thayer, Thayer's Greek-English Lexcon of the New Testament, Baker, Grand Rapids, 1977. p.520 よりの抜粋:
a spirit,すなわち純粋な本質,すべてあるいは少なくともあらゆる形態の物質的存在を欠くもので,かつ知ること,願うこと,決定すること,行為することなどの能力を持つ存在.a.一般的には,ルカ24:37,使徒行伝23:8,ルカ24:39;πνευμα ζωοποιουν[a life-giving spirit],死から復活された時のキリストについて言及している,Iコリント15:45;πνευμα ο θεοζ(God is spirit essentially), ヨハネ4:24...
[注]本来Iコリント15章は復活の存在の証明をしているのであって,復活された後のキリストは,ドアをすり抜けたりできる,霊の体を得たのである.もはや肉の体に拘束されることのない霊的存在になったことをパウロは45節で言っているのである.復活された後,御霊に変化されたのではない.これについては;
[2]W.T.Purkiser, et al.,God, Man and Salvation-A Biblical Theology, Beacon Hill Press, 1977. pp.258-259 からの抜粋:
しかしながら,われわれは二つ(霊と魂)の違いを強調しているようにみえるいくつかの節を考察せねばならない.アダムを“生きる魂(a living-soul)”とし,キリストを“命を与える霊(a life-giving spirit)”とするパウロの対比は,魂(soul)が第1段階の人としてのアダムにとって特異的なものであり,一方,霊(spirit)が神−人として栄光化されたキリストにとって特異的なものであることを示唆している.一つは肉体にある人間の命を指向するものであり,他方は天的な務めを指向するものである.
ibid, p.360からの抜粋:
第二に,イエスはその新しい形態においては,物理的であり,かつ霊的であるのである.彼は骨と肉を持つ存在とされており,しかるにドアをすり抜けることができるような通常の物理法則の外の存在でもある.
§4.人格をおそらくペルソナ・位格(Person)の意味で吉○氏は用いている。
これについてはすでに言及しているので,ここでは正統的三位一体論と,サベリウスの様態論的三位一体論の本質的違いをまとめておく.
[1]P.メネシェギ,父と子と聖霊−三位一体論−,上智大学神学部編・現代神学叢書3,南窓社,1984,p.137よりの抜粋:
サベリウスは‘父’と‘子’と‘聖霊’の間には何の実際上の区別もなく,この三つの名が唯一の神の三種類の働きを表わす称号にすぎないと言った.
[注]この場合神には三位格があると言っても,その意味するところは,仮面を意味するラテン語 personum から派生した‘役割’としての‘Person’に過ぎない.上掲の吉○氏の記述,‘三人格のそれぞれは役割の違いにすぎない...三人格は機能的分担のときに啓示されたに過ぎない’はまさにこの意味であることは否定できない.神の本質的な存在のあり方が父,子,聖霊の三つの区別される自存する位格においてということではなく,人間と神との関りにおいて,すなわち神の人に対するエコノミーを遂行する必要上,神は三つの役割・面としての機能上の位格を表現されたということである.よって,もし人との関りを神が持つことがなかったならば,父,子,聖霊という様態は存在しないことになる.
これについては,
ibid. p.142 からの抜粋:
第三のカパドキア教父,ニュッサのグレゴリウスは,すでに三位一体論をほとんど体系的に説明するまでに至り,次のように書いている,‘神性における位格(προσωπον)は,人々の間に見られる種々の区別,すなわち場所,意志,行動様式,あるいはまた働きや,受動によって区別されることはない.神における位格が区別されているのは,父が父であって子ではなく,子が子であって父ではないということによってだけである.同様に聖霊は,父でも,子でもない.’
ibid. p.144 からの抜粋:
さらに残された課題は,用語上の混乱を取り除くことであった...アレキサンドリア教会会議において,カパドキアの教父たちに従って,神のうちに‘一つの本質(ουσια),三つの自存者(υποστασιζ)’を認める人々,あよびニカヤ公会議の用語法に従ってウシアουσια とヒュポスタシスυποστασισを同義語とみなし,神において一つのウシアと一つのヒュポスタシスを認める人々の間に話し合いが行われたのである.アタナシオスはまず‘三つのヒュポスタシス’を主張する人々に,彼らがアレイオスのように三つの自存者をまったく分かれた者として考えるのか...三つの神々を考えるのかと質問をしたのである.この問いに対して,彼らは,自分が三つのヒュポスタシスという用語をけっしてそのような意味で言うのではないと答えた...‘それは私たちが聖なるトリアス(三性)を信じているからである.単に名称としてのトリアスではなく,真実に存在し,自存するトリアスを信じているからである.すなわち,真に存在し自存する父を,真に実体的に存在し,自存する子を,更に,存在し自存する聖霊を信じる.私たちはトリアスを認めるが,唯一の神性,唯一の原を認めており,子は父と同じ本質であること,聖霊はつくられざるものであり,神の外部にあるものからつくられたものではなく,父と子の本質と分けられてはいない,彼らの霊であることを信じている’と.次にアタナシオウスは‘一つのヒュポスタシス’という用語を用いる人々に向かって,その表現を,子と聖霊が自存していないということを考えたサベリオスの言う意味に解するかと否かと問うた.彼らはサベリオスの考えを全面的に否定し...遂に,‘一つのウシア(Substantia)三つのヒュポスタシス(Subsistentes)’という表式が西方にも認められるようになった...位格(ペルソナ)という語は,本来劇のときに使う仮面を意味し,そこから‘役’を意味するようになった語である.したがって,それは,神における三つの自存者を表わすために,本来,あまり適切なことばではなかったのである.ギリシャ教父たちは,この語を用いると,父と子と聖霊を実際に区別しないサベリオス説に陥る危険を恐れて,ペルソナにあたるギリシャ語のπροσωπονという語をそれほど使っていない.しかし,次第にペルソナという神学上の意味が明らかにされ,遂にボエティウス(524没)はペルソナを‘理性的本性を持つ,他と区別した自存者’と定義するようになった.こうしてペルソナがヒュポスタシスと同義語になったのである.トリアス,トリニタスの日本語として一般に用いられている‘三位一体’という語も,こも西方教会の表式(すなわち,三つの位格(ペルソナ),一つの実体)に従っている.
[注]リー氏自身もこのヒュポスタシスという語をもっともらしく用いている;
[2]W.Lee, Recovery Version, pp.872-875.
[主の恵み,神の愛,聖霊の交わりについて]これらは三つの分離した事柄ではなく,一つの事柄の三つの面である.ちょうど,主,神,聖霊が三つの分離した神ではなく,“一つの同じ,分かれていない,また分けることのできない,神の三つの本質(ヒュポスタシス)”である(フィリップ・シャフ)ようにである...神たる方の三一は組織神学の教理上の理解のためでなく,三一の中の神ご自身を,彼の選び,またあがなった人々の中へと分与し込むためである...聖書においては,三一は決して,単に一つの教理として啓示されていない.それは,常に,神と彼の被造物,特に彼によって創造された人,またさらにもっと,彼の選び,あがなった人との関係について啓示され,または述べられている
[注]この中でヒュポスタシスという語をもっともらしく使っているが,後半の記述の中の彼の理解と,今までに引用してきた正統的理解とはまったく相矛盾していることが分かる.彼は三一性を,その本質的三一と経倫的三一とを混同して理解しているのである.また彼自身と地方教会はサベリウスの様態論を否定しているが,一方で実質的には吉○氏の記述からも明らかなとおり様態論を唱えている.ここに矛盾がある.さらにリー氏は自分の得た三一の啓示は,自分のみが得たもので,今だかつてそのようなことを言った者はいない,と言っているが,これも偽りである.すでに3世紀においてサベリウス,アレイオスなどがそれを唱えている.偽りとはかくのごとく,取り繕おうとすればするほど,その欺瞞性を暴露するものなのである.なぜなら,真理とは択一試験のように〇×をもって答え得るものではなく,それは存在自体と不可分であるからである.
3.結 語
まとめの言葉としては次が参考になろう.
新キリスト教辞典,いのちのことば社,1991,三位一体論の項,pp.471-481 からの抜粋:
第一に,三位一体論は,汎神論の異教的神々と理神論の神とを拒否し,〈生ける神〉を提示する...
第二に,三位一体論は信仰と神学において神中心的思惟を可能とし,確かなものとする...三位一体論が崩れ始める時,信仰と神学はただちに人間中心の思惟への道を歩み始める...例えば...偽りの霊による霊の神学,等々が姿を現すであろう.
第三に,三位一体論は〈創造〉と〈再創造〉にとって決定的重要性を持つ....受肉,十字架と復活,聖霊の降臨という歴史的事実が決定的に救済論的意義を持ち得るのは,あくまでも三位一体論的前提においてなのである.
第四に,三位一体論は,キリスト者の具体的信仰生活を成り立たせる根本条件である...
第五に,三位一体論は,教会とわれわれに終末的自覚を与え,終末的希望の中に力強く生かしてくれる...
三位一体論は,キリスト教宗教にとって最高の重要性をもっている.三位一体の神を告白するか否かによって,キリスト教そのもの,特別啓示のすべてが立ちもし,倒れもする.三位一体論は,キリスト教信仰の核心であり,全教義の根源であり,新しい契約の本質である...三位一体論において,人間の救いのための全啓示の心臓が鼓動しているのである[H.バービンク].
そしてウイットネス・リーの"地方教会"においては、表向きの表現に反して、この意味における三位一体を告白してはおらず、むしろ普通に言われている三位一体を三神論であると否定し、サベリウス的様態論の焼き直しに終始していることは明白である。
[注]‘回復’の出身者にとっては,‘キリスト教(宗教)’を‘キリスト信仰’と,‘教義’を‘真理’と読み換えると納得できるものと思われる.